第四十四話:巨柱、傾きて
《前回までのあらすじ》
鎌倉の世より、謎の女性トモミクによって戦国時代へと誘(いざな)われた源頼朝。
当初は、源氏の血筋である同盟国・武田家を守ることが軍団の目的と聞かされ、織田・徳川両軍と激しく戦っていた。
しかし、軍団に秘められた多くの謎、そして自らの存在意義について少しずつ理解し始めた頼朝は、織田信長を死なせず、多くの武家を滅ぼすことなく安寧の世を目指すという、困難な道を選択。その実現のため、京に上り「惣無事令」を発することを決意した。
さらに、今の頼朝はこの時代における「二人目の頼朝」であり、「先代の頼朝」は秀長自身が誤って殺害してしまったこと、そして頼朝に寄り添っていた出雲阿国の正体が、古代の巫女・卑弥呼であった事、時を超える力を持つのは彼女自身であったことなど、衝撃的な事実を聞かされ、頼朝はその場で意識を失ってしまう。
頼朝は決意を新たに京の二条城へと入り、友軍や徳川への対応、朝廷工作に奔走する。その矢先、心労が祟ったのか、再び頼朝は吐血して倒れてしまうのであった。頼朝はこれ以上時の流れを別の時代から来たものが創り出すのではなく、"本来の時"に生きる者たちへ戻すべく、徳川家康に軍団を引き継がせることを模索し始める。そして、そのために頼朝が選んだ道とは、意外にも、まず家康に攻めかかることであった。
《主な登場人物》
源頼朝: 鎌倉幕府を開く直前にタイムスリップ。価値観の変化に悩みつつ、頼朝軍団を率い「惣無事令」を目指す。二条城にて病床に伏す。
源義経: 平泉で最期を遂げる直前にタイムスリップ。兄・頼朝に献身的に仕える軍略の天才。徳川討伐軍の総大将。
武田梓: 武田勝頼の娘。義経の妻。武田流軍学に通じ、現在は狙撃部隊の部隊長。徳川討伐軍に参加。
源頼光: 平安時代の武将。摂津源氏中興の祖。騎馬隊を率いる。徳川討伐軍に参加。
トモミク: 頼朝を導いた謎の女性。立花宗茂のはるか先の未来の子孫によって生み出された存在。
出雲阿国: 正体は卑弥呼。時を旅する巫女。頼朝の側近として京に滞在。
北条早雲: 戦国初期の大名。晩年にタイムスリップ。軍団のご意見番、外交役。
羽柴秀長: 織田家臣・羽柴秀吉の弟。信長を見限り頼朝へ。軍団の筆頭家老、優れた参謀。
羽柴篠: 秀長の娘で頼朝の正室。父譲りの才覚を持つ。頼朝隊の副将。頼朝の看病にあたる。
赤井輝子: 狙撃隊を率いる猛将。譜代衆。長浜城代。
源桜: 頼朝の娘。北条早雲に師事。安土城代。
源里: 頼朝の娘。武芸に秀で、義経隊の副将。
太田牛一: 少し未来の徳川の世からタイムスリップ。二条城代であり、頼朝の側近・参謀。
お市: 織田信長の妹。頼朝軍に加わり、京に滞在中。
源宝: 一色義満の娘。頼朝の養女。砲術に長け、義経隊の副将として徳川討伐軍に参加。
太田道灌: 室町時代の名将。文武両道。突撃隊を率いる。徳川討伐軍に参加。
第四十四話 巨柱、傾きて
中国地方の雄、毛利家。
京の朝廷が、源頼朝率いる軍団を、この日ノ本における唯一絶対の強国として、未だ完全に認めきれないでいる、その最大の理由の一つは、この毛利家が、依然として広大な中国地方に、その覇を唱え続けていたからでもあった。また、毛利家は織田家と同盟関係を結んでおり、もし頼朝軍が、この毛利家と本格的な争いを起こすようなことになれば、今、かろうじて保たれている、この一時的な天下の平安も、再び大きく崩れ去ることにもなりかねない。
頼朝は現段階では、これ以上の覇権拡大を目指すよりも、この束の間の平安を、少しでも長く守り続けることを選択していた。そのためにも、西国の雄である毛利家との間に、確かな誼(よしみ)を築くことを、密かに模索していたのである。
その任にあたっていたのは、太田牛一、そして前田玄以の二人であった。彼らは、頼朝の意を受け、水面下で、毛利家との困難な外交交渉を、粘り強く進めていた。
天文十七年(1588年)六月。
ついに、その外交努力が実を結ぶ時が来た。
毛利家当主、毛利輝元(もうりてるもと)は、頼朝軍の、あの破竹の勢いとも言うべき快進撃、先の丹波平定という具体的な戦果、そして、それによって引き起こされた、織田軍の極端なまでの弱体化という現実を目の当たりにした。かつての盟主・織田信長の求心力が、急速に失われつつある今、勢いのある頼朝軍と事を構えるより、手を結ぶことが得策である、と。毛利輝元は、家中の重臣たちとの、長きにわたる評議の末、ついに、その決断を下したのである。
毛利輝元は、頼朝に対し、正式に同盟の受け入れを表明。そして、頼朝が提唱する、第二次「織田包囲網」への参加を、天下に宣言した。
中国地方の雄が、ついに頼朝の味方についた。このことにより、織田信長は、東の頼朝軍、そして西からの、この強大な毛利家からの圧力にも、同時に直面することとなり、その立場は、ますます苦しいものへと、追い込まれていくこととなる。
とは言え、もはや弱体化しきった織田家に対する、この「包囲網」というものに、実質的な軍事的意味合いは、ほとんど無かった。それは、むしろ、頼朝と、他の有力武家たちが、互いに誼を結び、連携を深めていくための、一つの良き「口実」として、機能していたのである。
「…毛利殿が……! そうか、ついに……! これは、まことに、大きな一歩じゃ!」
頼朝は、病床にありながらも、その報せを聞き、上半身をわずかに持ち上げ、久しぶりに、快活な声を上げた。傍らに控える羽柴秀長も、そして太田牛一も、主君の、その心からの喜ぶ顔を目にし、安堵の表情を浮かべた。
頼朝の病状は、依然として、一進一退を繰り返していた。ある時は、小康状態を得て、政務(まつりごと)に、精力的に勤(いそ)しんでいるかと思えば、またある時は、今日のように、床に就き、寝込んでいる日も、少なくなかった。
「…惣無事令を、天下に発出するには、まだまだ程遠いが……。それでも、まずは、こうして、一つ一つ、安寧の世への道を、模索していくしかあるまい……」
頼朝は、再び、力なく体を横たえながら、呟いた。
「いずれ、必ず、この世は、また大きく乱れる、無念ではあるが。。。。それまでの間、我らは、大きな戦(いくさ)を避ける努力を続けながら、同時に軍団の力を蓄えておくのが、今は良いのかもしれぬな……」
頼朝は、その一言だけを、羽柴秀長と太田牛一に伝えると、また、静かに目を閉じた。
頼朝に、つきっきりで看病を続けている妻の篠が、そっと、二人の家老に対し、首を横に振り、頼朝の寝所から退出するように、目で促した。
秀長と牛一は、頼朝に深々と一礼をすると、静かに、その場を後にした。
* * *
羽柴秀長と太田牛一は、二条城内の一室にて、しばらくの間、沈痛な面持ちで、話を続けていた。
「…秀長殿。頼朝様は、先の、二条晴良殿からの、『惣無事令を出すためには、まず、日ノ本の半分を支配することが必須である』という、あの言葉をお聞きになり、直ちに惣無事令を発出することを、諦められたのであろうか……。
じゃが、今の、お辛そうなお身体で、殿にこれ以上のご負担をおかけしたくはないのだが……」
牛一が、懸念を口にする。
「…牛一殿。頼朝様は、おそらくは、ご自身が、この『天下静謐』という、あまりにも大きな目的のためには、あらゆる罪を、その一身に背負う覚悟を、すでにされておられるようではあるが……。しかし、同時に、覇権を目指し、多くの、そして無用な犠牲の上に成り立つような、そのような世の安寧を目指すことに対しては、どうしても、心の底から、踏み切れぬのであろう……」
秀長は、ため息をついた。
「ご自身が、かつて鎌倉にて犯してしまった、その罪の報いが、ご自身の、大切なご家族にまで降りかかってしまうことを、何よりも、恐れておられるのであろうな……。
鎌倉の時分に、頼朝様がお亡くなりになられた後に、ご子息である頼家様や、実朝様が、悲劇的な最期を迎えられたのは、頼朝様ご自身の、その罪の報いであるのだ、と、そう、深くお考えのご様子じゃ……。この時代へ来て、そのような残酷な結末を、改めて知ることになるのも、どれほどお辛いことであったろうか……」
「…殿は、そのようなことまで……」
牛一は、言葉を失った。
「ただ、秀長殿。聞けば、かの二条晴良殿は、頼朝様の内大臣へのご叙任のために、今も、朝廷内にて、力を尽くしてくれておるとのこと。また、その内大臣叙任の際には、帝と頼朝様との、直接の謁見(えっけん)の機会をも、模索していただいておる、とも聞き及んでおりまする。であるならば、殿は、まずは、帝と、直接お話をされたい、と、そう願っておられるのかもしれませぬ。
そして……此度の、徳川軍への攻略にしても……。家康殿を、血塗られた天下静謐後の後継者とするための、危険な『賭け』に、あえて打って出ておられる……。今の頼朝様は、もしかしたら、ただ、静かに、その結果を見守っておられるのかもしれませぬ……」
「……拙者は……。拙者は、ただ、少しでも、頼朝様が、心から目指されておる、そのお世界の、お手伝いがしたい……。ただ、それだけなのでございます……」
秀長の声は、悲痛なまでに、震えていた。
「あのような、お痛ましいお姿で……もし、万が一のことでもあれば……。それでは、頼朝様は、報われませぬ……」
「秀長殿。わしも、全く同感じゃ……」
牛一も、深く頷いた。
「殿はすでに、この今の時代に、確かな『平和への道筋』を、つけていらっしゃる。まだ、その志の、半ばであるやもしれぬが……。どうか、ご自身が、これまで為されてきたことに、確かな誇りをお持ちになり、そして、一日も早く、お心穏やかに、過ごしていただきたいものじゃ……」
「…そうかも、しれぬのう……」
秀長は、力なく頷いた。
「いずれにせよ、我ら家臣としては、ただ、ひたすらに、最善を尽くすのみでござる。…ところで、牛一殿。実は、一つ、そなたに相談がござるのだが。
先の、荒木村次のことじゃ。
本来であれば、頼朝様にご相談すべきところではあるが、今は、とてもではないが、無用なご心労を、これ以上おかけしたくはない。
相変わらず、荒木軍団の家臣たちからは、あの村次どのに、ついていけぬ、との悲鳴にも似た声が、後をたたぬ。かといって、亡き荒木村重どのの、正式な跡継ぎである彼を、あまりにも早く、こちらが一方的に処罰するのも、その後の摂津国内の混乱を考えれば、得策ではない。
そこで、じゃ。
いったん、先の戦で、我らが織田軍を追い出した、あの丹波国を、そのまま荒木軍団へと与え、村次殿の領地を加増することで、まずは、こちらからの誠意を、お示ししたいと思うておる。…いかが思われるかな、牛一殿」
「ふむ。毛利家が、我らと誼を結んだことで、西国方面は、当面、落ち着き申した。であるならば、今しばらくは、その荒木軍団の様子を静かに見守る、という時間も、でき申したと言えよう。一旦、丹波にて加増し、彼の地の統治を任せ、その上で、改めて、彼の器量を見極める、ということにわしも賛成じゃ。
ただし……
それでもなお、彼の行いが変わらぬ、という際には……彼にとっての『潮時』やもしれぬな」
「ご賛同いただき、感謝申し上げる」
秀長は、少しだけ、安堵の表情を浮かべた。
「…牛一殿。このところ、わしは、何かと城を空けることも多くなり、以前のように、常に頼朝様の、すぐお近くにお仕えすることが、難しくなり申した……。何卒、頼朝様のこと、しっかりとお支えくだされ。伏して、お願い申し上げる」
「いやいや、拙者よりも、むしろ、秀長殿のご息女篠殿が、殿のことを、まことに献身的にお支えしておいでですぞ。その、あまりにも健気なお姿は、傍らで見ておる者の、心を揺さぶらぬことはない。
篠殿のことは、むしろ、父であるそなたからこそ、十分にねぎらっていただきたいものです」
「……我が娘とは言え……。まことに、痛ましい日々を、あの娘にも与えてしもうた……」
秀長は、顔を覆った。
「何とかならぬものか、頼朝様のお身体は……」
「これまでに、京の内外より、幾人もの、評判の名医を呼び寄せ、診ていただいてはおりまするが……。残念ながら、未だ、その原因すら、分からずじまい……。
ただ、はっきりとしておるのは、殿のお身体が、日に日に、衰弱なされておられる、という、その一点のみにございます……」
牛一の声も、重く沈んでいた。
「頼朝様は……あまりにも、ご自身を責め過ぎておられるのか……。それとも、いつの世も変わることのない、人の、その浅ましき『業(ごう)』というものに、心の底から、絶望なされていらっしゃるとでも、いうのであろうか……」
秀長は、天を仰いだ。
「いずれにせよ、我らは、少しでも、頼朝様にお喜びいただき、そして、未来への確かな希望を、お持ちいただきたい……。ただ、それだけじゃ。
そのためにも、帝との謁見(えっけん)、そして、徳川家康の帰順……。何とか、早いうちに、事を進めたいものよな。…牛一殿、重ねてになるが、何卒、お願い申し上げる!」
「はっ! この太田牛一、微力ながらも、最善を尽くしましょうぞ、秀長殿!」
秀長は、力なく頷くと、二条城を発ち、荒木村次の居城である、摂津の高槻城へと、馬を向けた。
* * *
同じ頃。義経率いる徳川討伐軍は、先の岡崎城開城の後、源宝が立案した作戦通りに、その軍勢を二つに分け、一方は、山沿いの長篠城(ながしのじょう)へ、そしてもう一方は、海岸沿いの浜松城(はままつじょう)へと、それぞれ攻めかかっていた。
長篠城へは、義経隊と、武田梓隊が、これを攻めた。
山城である長篠城には、徳川家の猛将・大久保忠佐(おおくぼただすけ)が、およそ四千あまりの兵と共に、頼朝軍を迎え撃つ構えを見せていた。
「者ども、聞け! もはや、我らに残された時は、無いのじゃ! 一刻も早く、この城を落とし、兄上のもとへ、駆けつけねばならぬ! 道を開けよ! 全軍、ただちに撃ち倒せ!」
義経は、まるで何かに取り憑かれたかのように、叫んだ。昨晩、北条早雲から聞いた、兄・頼朝の、あまりにも絶望的な病状。その衝撃と、そして、兄を失うかもしれないという恐怖で、義経は、もはや、いつもの冷静さを、完全に失いかけていた。
「義経様……! お待ちください! そのような、力任せの攻撃では、徳川の兵が、全滅してしまいます……!」
副将の源宝は、涙ながらに、義経の前に立ちふさがった。
「…宝殿、そこをどけ! ここで、いたずらに足止めを喰らうわけには、いかぬのじゃ!」
初めて見る、義経の、まるで鬼神のような、凄まじい形相に、源宝は、恐怖で腰を抜かさんばかりであった。
そこへ、もう一人の副将、源里が、源宝のもとへと駆け寄り、叔父である義経を、真っ直ぐに睨みつけた。
「叔父上! いったい、何ということを! そのような、ご乱心されたお姿、決して、叔父上らしくございませぬ!」
「……!」
里の、その、あまりにも真摯な言葉に、義経は、はっと、我に返った。だが、すでに一度、暴発してしまった、心の内の激しい感情のうねりを、もはや、完全に抑え込む術(すべ)は、義経にはなかった。
「……ええい! であるならば、敵の足元を狙え! それでもなお、敵が逃げぬ、と申すのであれば、それは、もはや、我らの関知するところではない!」
「…かしこまりました!」
源里は、現場の指揮官として、これ以上は上官からの指示に従うしか無く、すぐさま部隊へと戻り、新たな指示を飛ばしていった。
義経は、ほんの少しだけ、冷静さを取り戻したものの、すぐ横で、なおも涙ぐんでいる源宝に対し、かけるべき言葉を、見つけられずにいた。しばらくして、義経は、ようやく、言葉を絞り出した。
「……宝殿。すまぬ……。許せ」
「い、いえ、義経様……。わ、わたくしの方こそ……。本当に、本当に、申し訳ございません……」
(わしは……。また、以前の里同様、まだ若い宝殿に対し、取り返しのつかないことを、してしまったのではないか……)
義経は、深い罪悪感に、苛(さいな)まれ始めていた。
「宝殿。…今の、この拙者には、もはや、冷静な采配など、できそうにもない。
まことにすまぬが、しばらくの間、里の所へ行って、宝殿の思う、最善の陣立てで、目の前の徳川軍を、追い払ってはくれまいか」
「よ、よろしいのでございますか、義経様……」
「ああ。大将の、その足りなきところを、補うことこそが、参軍たる者の、最大の役目ぞ! …行け!」
「は、はいっ!」
源宝が、慌てて、部隊を指揮している源里のもとへと、走っていく。その後ろ姿を見送りながら、義経は、ただ、頭(こうべ)を抱えていた。
(兄上……。この未熟な、わしのような者では……。とてもではないが、兄上の代わりなど、務まるはずもございませぬ……。どうか……どうか、生きてくだされ、兄上……)
源宝は、源里のもとへと、たどり着いた。
「宝様! いらしていただけたのですね! 今日の叔父上は、どうかしておられまする。いつもは、お優しい叔父上なのです。どうか、お許しくださいませ」
「い、いえ、とんでもございません、里様。わたくしこそ、出過ぎたことを、申し上げてしまいましたので……」
源宝は、目に涙をためたまま、前方の、長篠城に布陣する徳川勢を、じっと凝視していた。
「あの、里様。おそれながら……。今すぐ、力攻めにて前進するのは、お待ちくださいませ……」
「これだけの兵力差があれば、敵は、死兵と化し、玉砕覚悟で突撃をかけてくるか、あるいは、恐怖に怯えながら、ひたすら防御の態勢を取るか、そのいずれかを選択するはず。
ですが……。今の敵の布陣は、あまりにも無防備であり、まるで、こちらを誘い入れているかのようにも見えます……。もしかしたら、どこかに、伏兵がいるやもしれませぬ……」
源宝は、注意深く、周囲の地形を見回した。しばらくして、源宝は、長篠城の左手、比較的傾斜が緩やかな、山の斜面の、鬱蒼(うっそう)とした茂みを指差した。
「さ、里様……。もし、わたくしの見立てが間違っておりましたら、それこそ、取り返しはつきませぬが……。ですが、おそらくは、あの茂みの中に、敵の伏兵が……
あの、里様。わたくし、これより、左翼を進む、梓様のところへ参りとうございます。里様には、わたくしが、梓様と合流し、何らかの合図を送るまで、どうか、この場で、待機いただけますでしょうか……。
おそらくは……。梓様が、あちらの茂みに向け、威嚇の砲撃をいたしましたならば、潜んでいた伏兵は、耐えきれず、梓様の軍へと、襲いかかってくるものと、そう考えております。
それを目の当たりにした、正面の徳川軍は、おそらくは、死ぬ気で、こちらへ総攻撃を仕掛けてくるか、あるいは、完全に勝ち目を失い、戦わずして敗走するか、そのいずれかとなるかと、愚考いたします……。
仮に、こちらへ徳川軍が、玉砕覚悟で向かってまいりましても、我らが、断続的に、その足元へ向け、斉射を繰り返せば、多くの徳川軍の兵たちは、致死的な負傷は免れたとしても、その戦意を、完全に喪失させるには、十分かと……。そうなれば、多くの命を、無駄に失うことも、ありますまい……」
「宝様! 本当に、そうですね!
あなた様のお考え、まことに、皆、理に適っております! さすがは、叔父上が、あれほどまでに感心されておられただけのことはあります! これからも、わたくしに、いろいろと教えてくださいね!」
里は、心からの称賛の声を送った。
「では、急ぎ、梓様のところへ、行ってくださいませ! わたくしが、腕利きの者を、護衛につけますので!」
「あ、あの……里様……。まことに、申し訳ございませぬが……。わたくしは、その……。馬が……。馬に乗るのが、少々、苦手でございまして……」
「ええっ!? もしかして、馬に、乗れないのでございますか……?」
源宝は、恥ずかしそうに、うつむきながら、小さく頷いていた。
「もう! ご心配なく、宝様!」
里は、宝の護衛として、近くにいた、屈強な騎馬武者を呼び寄せると、その背中に、有無を言わさず、宝をひょいと乗せた。
宝は、必死に、その騎馬武者の背中に、ぎゅっとしがみついた。騎馬武者が、馬に、ぱん、と鞭を打った、まさにその瞬間に、宝は、恐怖のあまり、可愛らしい悲鳴を上げていた。
「きゃあああーーっ!」
いささか無様な姿を、衆目に晒(さら)け出しながらも、源宝は、武田梓隊へと向かっていった。
その、あまりにも滑稽な後ろ姿を、源里は、思わず吹き出しそうになりながらも、温かく見送っていた。
(…ふふ。まことに、とっても無様で、そして泣き虫な、我が軍団の、若き大軍師様……。頼みましたよ……)
「各隊に告ぐ! 隊列を整え、梓隊の今後の進軍に合わせ、我らはゆっくりと前進を開始する!」
源里の、張りのある檄が、長篠の山々に、響き渡っていた。
* * *
武田梓隊と義経隊(源里隊)は、源宝の策に従い、ゆっくりと前進を開始した。
まず、左翼を進む梓隊が、やや先行し、正面の徳川軍・大久保隊を捕捉(ほそく)せんとするかのように、間合いを、少しずつ、慎重に詰めていた。
突如、武田梓隊の先鋒、およそ二百あまりの鉄砲隊が、隊列の側面へと回り込み、宝が指摘した、山あいの茂みに向け、一斉に、威嚇の鉄砲を斉射した。
源宝の見立て通り、その音は、天然の森林が、ただ鉛玉を受けて上げる、乾いた悲鳴とは、明らかに異なっていた。肉に弾がめり込む、あの鈍い音。そして、鎧(よろい)か何かに当たったのであろう、金属的な反響音。それらが、熟練の狙撃兵たちの耳には、はっきりと聞き取れるほどの、確かな手応えがあったのである。
武田梓は、傍らに進み出てきた源宝の頭を、優しく撫で、
「さすがは宝様。全ては、あなた様のお見立て通りでございましたよ」
と、心からの感謝の言葉を伝えた。
当の源宝は、自らが進言した通りの事態が、実際に目の前で確認できたことに、ようやく、ほっとしたような、安堵の表情を浮かべていた。
「では、軍師殿。この後は、いかがいたしましょうか?」
武田梓は、悪戯(いたずら)っぽい笑みを絶やさずに、源宝に声をかけた。
「は、はいっ、僭越(せんえつ)ながら……!」
宝は、再び表情を引き締め、答えた。
「次もまた、あの伏兵が潜んでいると思われる方面に向け、今度は、さらに大規模な威嚇射撃を行えば、おそらくは、潜んでいた伏兵も、もはや辛抱しきれず、我らへ向け、撃って出て来るものと思われます……。
その際、我らは敵の足元を狙い、直接の損害を避けつつも、本隊の狙撃隊が間断なく斉射を行うことで、すでに追い詰められている敵の戦意を、完全に挫(くじ)くことができるかと、そう存じます。大地からの跳ね返りによって、多くの敵兵に、弾が当たってしまうやもしれませぬが、それでも、直接狙撃するよりは、命を落とす敵兵の数は、遥かに少なくなるはず……。そして、戦意を喪失させるには、それで十分かと……。
正面の大久保隊につきましては、里様が、うまくご対応なされるはず。梓様には、ただ、この伏兵を潰走させることのみに、集中していただけましたなら、おそらくは、この方面の徳川軍は、戦意を失い、早々に潰走するかと……」
「もう……! あなた様は、本当に、素晴らしい軍師様ですわね!」
武田梓は、この、あまりにも健気で、それでいて、底知れぬ智略を秘めた、若き源宝のことが、可愛らしくて仕方がない、といった様子で、思わず、その両手を、宝の頬に、優しく添えようとした。
だがその時、武田梓は、源宝のその両目が、激しく泣きじゃくった後なのであろう、一目見て分かるほどに、赤く腫(は)れ上がっていることに、気が付いたのである。
(……宝様……。もしやまた義経様が…!)
梓隊が、伏兵が潜んでいると思われる山あいに向け、威嚇射撃を行ったところ、果たして、源宝の見立て通り、鬱蒼とした茂みの中から、完全に追い詰められた徳川軍の伏兵部隊が、わらわらと姿を現した。
武田梓の、鋭い檄が飛ぶ。
「側面の別働隊 後ろに下がりましょう!ご苦労様でした!
本隊の鉄砲隊、第一列、第二列、第三列! 間断なく、茂みから出てきた敵部隊に向け、撃ってください!
ただし、決して、直接の狙撃は避け、敵の足元、手前に着弾させるように! それでもなお、敵が間合いを詰めてくるようであれば、その時は、一切の遠慮はせず、ただちに撃ち払ってください!」
およそ二百あまりの、別動隊の鉄砲隊による狙撃や、散発的な威嚇射撃とは、全く次元が異なる、眼前に整然と隊列を組んだ、武田梓隊本隊からの、圧倒的な数の鉄砲による、間断なき集中砲火を浴びた。徳川軍の伏兵隊は、もはや恐怖のあまり、戦意を完全に喪失。負傷した味方を、その場に放置したまま、蜘蛛(くも)の子を散らすように、潰走していった。
その、あまりにも無様な伏兵隊の姿を見ていた、正面の大久保忠佐隊もまた、急遽、その陣形を、一点突破を試みるための鋒矢(ほうし)の陣へと変え、最後の抵抗として、玉砕覚悟の突撃を試みようとした。
だが、彼らが、わずかでも動けば、即座に、源里が指揮する義経隊の狙撃隊の射程圏内へと入ってしまう、という完璧な布陣がすでに整えられているのを、目の当たりにした。
(もはや、これまでか……!)
決死の突撃を敢行したとて、それは、一矢(いっし)報いるどころか、ただの犬死ににしかならないことを、大久保忠佐は、瞬時に悟った。
彼は、無念の思いを噛み殺しながら、麾下の部隊に、力なく指示を出した。
「…もはや、これまでじゃ! 長篠城は、潔く捨てる! 生きている者は、速やかに、奥居城(おくいじょう)にて集結し、再起を図るのだ!」
大久保隊が、戦わずして退散した後、長篠城は、頼朝軍の前に、直ちに開城した。
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