「芳澤さんがすみれとして生きるか、あるいはかすみとして生きるかを選ぶために蓮と対峙することを決めたとき、丸喜先生は何かを言おうとして止めました」
それは芳澤さんが自分の意思で選択することを決めた。過去と向き合い、立ち上がることを決心した姿を見て丸喜先生は何を言おうとして言葉を引っ込めたのか。
「僕の勝手な想像でしかないです。ズルい、と思ったんじゃないですか」
「っ!?」
丸喜先生の表情が歪んだのを見て、僕の勝手の想像はあながち外れているわけでも無いと思えた。丸喜先生は眩しいものを見るように目を細めて僕を見る。その目が、あの時芳澤さんにも向けられていた。強い人と、丸喜先生が称する人を見る目だ。丸喜先生は、すぐに表情を取り繕ったものの、眉間に刻まれた皺は深くなっていた。
「留美さんの、丸喜先生の恋人の話を聞いてその考えが強くなりました。芳澤さんは留美さんのように心が壊れてしまうことが無かった。同じように大きなトラウマを抱えたのに、芳澤さんは救われた。それも最後は丸喜先生の力に頼る事無く。どうして今になって彼女が先生の力から離れることが出来たのか、留美さんと芳澤さんの何が違ったのか」
「やめろ!」
その声は、普段の彼からは考えられないほど強い口調だった。
「彼女が立ち上がれたからって、それは君の言葉があったからだ。それに皆がそうとは……!」
「皆が立ち上がれないとも限らない」
「そんな辛い目に遭う必要がそもそも無いんだ! どうして何の罪も無い人が理不尽な現実に苦しまないといけないんだ! 立ち上がる強さがあろうと無かろうと、心が壊れそうになるほど辛い出来事なんて無い方が良いに決まってるじゃないか!」
言葉を紡ぐごとに、丸喜先生の声は悲痛なものに変わっていった。彼の言葉はどこまで行っても正論だ。そんな理不尽な現実なんて無い方が良いに決まってる。僕だってそう思う。だけど、現実はいつだって理不尽を運んでくる。認知訶学は、そんな人に寄り添うものだと僕は信じているだけ。願いを押し付けるんじゃない、隣に立ち、その背を優しく押す為に一色若葉はこの学問を拓いたのだと。
「君の言葉は、弱い人間には耐えられない理想論だ!」
「丸喜先生の世界は、強い人間を生まない理想論です」
僕と丸喜先生の言葉は互いにコインの表裏のようなものだ。現実というコインを両極から眺める僕と丸喜先生の考えに決着はつかない。ただ暴力的に互いの論をぶつけ合うことしか出来ない。
「でも、こうやって言葉をぶつけ合うことすら出来なくなることに僕は耐えられません。丸喜先生は僕に言いましたよね。僕の言葉で鴨志田先生達や芳澤さんが救われたと。僕の言葉には、そんな力はありません」
「君は自分のことを過小評価しているだけだ!」
「いいえ、僕だけじゃないんです! 僕と丸喜先生の言葉が芳澤さんを支えたんです」
「君と、僕……?」
僕の言葉に丸喜先生の声から勢いが失われる。芳澤さんが芳澤すみれとして立てたのは何故か。彼女自身が自分を見つめ直し、受け入れることが出来たのはもちろんだ。だけどそこに、丸喜先生の言うように僕の言葉が功を奏したというなら、それは丸喜先生がこれまで彼女を支えていたお陰でもあるはずだ。
「彼女がスランプに陥っていても丸喜先生が支えてくれていた。僕が掛けた言葉なんてこれまであなたが尽くしてきた言葉に比べたらちっぽけなものです。認知を歪めるだけじゃない、認知訶学を使って彼女を立ち直らせようとしていたのは他ならぬ丸喜先生じゃないですか」
丸喜先生は以前、不安定になった芳澤さんを見て口にしていた。まだ彼女には受け止められない、と。まだ、という言葉は、いつかは彼女が現実を受け止めることになると思っていたことの証左だ。認知改変による芳澤さんへの対症療法は、いつか終わりを告げるのだと丸喜先生自身がそう思っていたのではないだろうか。
「ち、違う……」
「丸喜先生自身が、永遠に人が夢を見続けられないと心の奥では思っていたんじゃないですか?」
「違う! 君が芳澤さんを救い上げたんだ!」
「どうしてそこまで僕の功績にしたいんですか。どうしてこれまでの丸喜先生の積み上げたものを否定しようとするんですか。今、あなたの手の中にある力はあなたが積み上げ続けた先で手にしたものじゃないんですか?」
そうなのだとすれば、自分の今までを認めることが出来るはずだ。言葉に力が無いと言うのなら、僕が今まで彼女に掛けてきた言葉に彼女を立ち直らせるような力だって無いのだと、丸喜先生の研究が実を結んだ結果が彼女の今だと言えば良い。
「この、この力は……!」
「ある日突然降って湧いたような力が、これまでのあなたを否定しているように僕には見えます。だから嫌なんです。僕はあなたがカウンセラーとしての技術を話してくれるのが好きです。そんなあなたの話を、講義をもっと聞きたいと思っています。あなたが積み上げてきたものは、こうやって誰かに優しいだけの夢を押し付けるようなものじゃない。そんなものに救われたいと思う程、僕が尊敬する丸喜先生は……」
「もう止めてくれ!!」
その言葉と共に、地面から突如生えてきた触手に僕の身体が拘束される。足先から首までぐるぐると巻き付いた太い暗緑色の触手は、丸喜先生の背後に浮かぶ金色の棺から伸びていた。
「これ以上……、もうこれ以上君と話している時間は無いんだ……!」
「言葉で決着を付ける、それが僕とあなたの間の約束だったんじゃないんですか」
「君の言葉は、君の意思は僕には眩し過ぎるんだ。目を開けていられないくらいに……!」
丸喜先生の言葉に合わせて、彼の背後に浮かぶ金色の棺は揺ら揺らと動く。それはまるで、丸喜先生の背後でその棺が彼自身を操り人形にしているようにも見えた。
「丸喜先生、自分だけじゃ救えないとしても、僕だっています。一人で手を伸ばすより、誰かと一緒に手を伸ばせば支えられる人も増えるはずです」
「ダメだ、それじゃ理不尽な現実に反逆するにはあまりにか弱いんだよ。そんな空虚な理想論じゃ……」
丸喜先生は独り言のように呟く。それと共に、触手が首から顔にまで上ってきて、僕の視界が徐々に塞がれていく。
「やはり君は一番危険だ。怪盗団と決着を付けた後、僕の力を示した後に君に見せることにするよ。僕が理想とする世界を」
頭の先まですっぽりと覆われて暗くなった視界に、丸喜先生のくぐもった声が響く。首を絞め上げる触手の力が強くなり、酸素が欠乏した僕の意識は目の前の暗闇に吸い込まれるようにして深い眠りへと沈んでいった。
僕の意識が完全に無くなってしまう直前、僕の名前を呼ぶ蓮の声が聞こえた気がした。
「徹!」
丸喜の認知世界と接続したメメントスを潜り抜け、丸喜の下まで辿り着いた怪盗団。彼女らの前には、徹が暗緑色の触手に包まれ、地面へと沈んでいく光景が映っていた。
蓮が徹に呼びかけるが、徹は何の反応も示さないまま、触手と共に地面に消えていった。
「徹に手は出さないんじゃなかったのか……!」
蓮の隣で、明智が怒りに震える声で丸喜を問い詰める。
「……戦いから避難させただけだよ。ここに居たら、余波で彼が無事に済むとは限らないからね」
そう答えた丸喜は、怪盗団を前にしても力無く、悲しみに項垂れていた。避難させた、その言葉は怪盗団よりも自身に言い聞かせようとしているかのよう。
「君達がここに来たということは、そういう事なんだろう?」
「……私達はあなたの世界を認めない」
「辛くても立ち向かうと決めました!」
「それが、私達の歩んできた道よ」
蓮とすみれ、そして真がそう言って一歩前に歩みでる。彼女らの表情に、丸喜が創り出す理想郷への未練は見られない。それを丸喜も悟ったのか、痛みを堪えるかのように目を閉じたかと思えば、次の瞬間には決意に満ちた表情を浮かべていた。
「それなら、
そう言いながら、丸喜は怪盗団の方へと一歩ずつ、踏みしめるように歩く。
「理不尽な現実に泣く人達を僕が救う。クリスマスイブのあの日、手に入れたこの力で。これが、この世界に対する僕の反逆だ」
反逆という言葉を口にした瞬間、丸喜の足下から蒼い炎が吹き上がりその全身を覆い尽くす。その炎が収まると、白いスーツ姿から金色の甲冑と同じく金色の縦に長い仮面で鼻から上を覆った丸喜が姿を現した。その手に持った金の錫杖が、床を打って済んだ音を立てる。
「その姿、それに後ろのそれは……」
「君達がペルソナと呼ぶ力。だけど、君達と同じだと考えない方が良い。今の僕は、大衆の認知と接続した状態だ。僕の創り上げた
そう言って床から生える暗緑色の触手に手を触れる丸喜。彼の背後には、先ほどまで薄らとしか見えていなかった金色の棺がハッキリとした輪郭で佇んでいた。頭部に開いた二つの眼窩の奥からは、青白い光が目のように怪盗団をギョロリと睨みつけている。
「あれがマルキのペルソナ……」
モルガナが頬に汗を浮かべながら呟く。イゴールによって生み出された存在だからこそ分かる。丸喜の言葉がハッタリではないことが。目の前のペルソナに秘められている力は、間違いなく怪盗団一人一人のそれを容易く越えるものだ。
「いこうか、アザトース。これが最後の戦いだ」
アザトースと呼ばれたそのペルソナは、丸喜の言葉に呼応するように地面から次々と触手を立ち上げる。
「ハッ、徹に言い負かされて、最後は力尽く。あんたのやってることは理想でも何でもない自己満足だってハッキリしたね」
そんな丸喜とアザトースを前にしても、明智は強気な口調を崩さない。しかしその表情は、口調とは裏腹に怒りに満ちたもの。
「俺の親友に手を出したんだ。後悔させてやる……! ヘリワード!」
「絶対に連れ戻すわ、待ってて、徹。アグネス!」
「今度は私が助ける番です、エラ!」
明智、真、芳澤がそれぞれのペルソナを呼び出す。丸喜の創り出した世界に一度は囚われ、それでも絆を紡いだ仲間との思いで更なる覚醒を果たした彼らのペルソナ。その力は、大衆の認知による後押しを受けたアザトースには劣るとはいえ凄まじいもの。
「あなたと私達は似ている。どっちも理不尽な現実に直面して、それでもと立ち上がった。どっちが正しいとかじゃない。ただ、私達は私達の信じたものを貫き通す」
蓮がそう言いながら自身の仮面に手を掛ける。
「ペルソナ」
その言葉と共に彼女の背後に現れたのは、見上げるほどに巨大な蛇。真っ白な鱗に覆われたそれが鎌首をもたげ、金色の瞳が敵対者を射貫く。
「ヨルムンガンド」
世界を取り巻く蛇の名を冠したペルソナが、白痴の夢の主と対峙する。