「実は妻から電話があってですね、怒られました」。これは江藤拓前農相が「米は買ったことがない」発言の翌日、記者団に語った弁明の言葉。またか、と思った。政治家が失言を弁明する時、「妻に叱られました」「妻に怒られました」と“妻”をわざわざ持ち出すのは、なぜ?
東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の時の森喜朗元会長もそうだった。2021年、「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」と発言し、それが批判された際、「女房にさんざん怒られた」「娘にも孫娘にも叱られた」と語ったっけ。
「妻に怒られた」と言えば“免罪符”になると、永田町ではまだ信じられているんだろうか。家庭内の問題に矮小(わいしょう)化するようで、かえって不誠実な態度に思える。
エッセイストの藤井セイラさんはX(ツイッター)に<男の自分より「目下」である妻に叱られたのでそれに免じて許してという「家父長制ごめんねカード」を切ってきた>と投稿した。なるほど。
米国でも政治家の謝罪に妻が登場することはある。ビル・クリントン元大統領の不倫では妻ヒラリー氏が「夫の行為は好ましくないが弾劾には当たらない」と表舞台で発言。エリオット・スピッツァー元ニューヨーク州知事の買春スキャンダルでは謝罪会見に妻が同席した。かの国では妻の「許し」が夫の再生の切り札なのだろう。
とはいえ、妻が「被害者」の不倫などと、今回の江藤前農相の「米」発言では話がまったく違う。
日本の「妻に怒られた」構文には、「(さして聞く必要もない)妻のお叱りにも耳を傾けるほど真摯(しんし)に反省しています」という言外のニュアンスとともに、「てへぺろ」感が漂う。「てへっ」と舌を出して笑う憎めない仕草で相手を和ませよう、ってやつ。妻の尻に敷かれた夫をアピールすれば愛される、という「昭和仕草」だ。
「うちのかあちゃん(妻のこと)に叱られちゃってさ」と言えば、「そりゃ災難だなあ」と同僚がなぜか同情してくれる、古き男性社会の独特の空気感。「妻に怒られた」構文のルーツの一つはそのあたりじゃないかと思う。
政治家の皆さん、「妻に怒られました」は何の謝罪にもなりません。もうやめにしませんか?(オピニオン編集部)