シャロンの行方不明が呼び起こした恐怖は、彼女が死んでいるかもしれないということだけではない。それも恐ろしいことにはちがいないが、あの子供たちみんなにも、いつ死が訪れるかわからない-
(中略)
そうした暗い影がじわじわとわが町をおおいはじめたのだ。ほかにも誰かが行方不明になるのではないか?それに、この影が醸し出す疑惑や恐怖が、どんな暴力を誘発しないとも限らないではないか?
死せる少女たちの家 (Hayakawa novels) | |
スティーヴン・ドビンズ(著) 高津幸枝(訳) | |
早川書房 |
このところ、本を読むペースがすっかり落ちてしまったので、ペースを取り戻すために小説を何冊か続けざまに読んでおります。
やっぱり、小説はグイグイ引き込まれていいですねぇ・・・。
と書いてはみたものの、実はこの小説、前半はかなりダラダラしたペースで何度かギブアップしそうになりました。途中で別な本に手を出したりしたのですが、やっぱりどこか気になってやめられなかったんですよね。
ニューヨーク州の片隅のオーリリアスという町で、一人の少女が行方不明になる。
プロローグで、少女が3人死んでいる部屋の様子が語られているので、彼女がすでに殺されていることは間違いない。犯人は誰で目的は何なのか。
というミステリー小説ではあるのですが、この小説の肝は、犯人探しではなく、冒頭に引用した文章にあるとおり、少女行方不明事件から、町を覆い始めた疑惑の影が、いかに暴力に結びついていくかと言うところにあると思います。
お互いさほど親しくなくても町に住む人の顔や素性は分かっているような規模の町。
その町で、地域として守るべき”少女”が行方不明になった時、次は自分の娘が犠牲になるかもしれないという不安から、人々は結束して、警察に協力する。
それでもなかなか犯人は特定されず、そうこうするうちに、別の少女が行方不明になる。人々の不安は恐怖、そして怒りへと変わり、町の中の変わり者、”マルクス主義者”、”外国人”、”ゲイ”などに、その矛先が向けられるようになる。そして、それらの人々に疑いの目を向けるだけではなく、自分たちの手で制裁を加えるべきだというムードがだんだんと人々を覆っていき、実際に殺人事件へと発展するのです。
一人一人の登場人物について、生い立ちやら、性格やらを地域との結びつきで説明してしまうので、ちょっと話が間延びするのは否めないのですが、でも繰り返しになりますが、そこがこの小説の肝だと思います。
実際に自分が被害者でなくても、コミュニティ全体が被害者感情で一体感を持ってしまい、結束しやすく、そして、正義感という”善”の過剰で暴走していく。
最後の犯人が捕まるクライマックスは、”エンターテイメント”の要素たっぷりになっていて、ちょっと現実離れしてくるのですが、そこに到るまでは、きっとこんな町どこかにありそうという現実感を持って読ませてくれるのは、キャラクター設定の巧さにほかなりません。
ストーリーテラーである、この町で育った生物の教諭。
地域の新聞記事を書いている、記者とその娘。
イスラム系のマルクス主義者である大学教師とその崇拝者たち。
オーリリアスという架空の町を舞台に、非常に現実感を持って読ませるんですよね。
図書館で、何の予備知識もなく選んだわりには、なかなか当たりな作品でした。
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