3つの名前を持つ女性 終わらない苦しみ

3つの名前を持つ女性 終わらない苦しみ
詔子、ソジャ、ソフィヤの3つの名前を持ち、自分のアイデンティティーについて悩みながら生きてきた女性がいます。

女性は太平洋戦争後もサハリンにとどまることになった「サハリン残留日本人」。

日本への帰国を果たしたものの「戦争は終わっていない」と嘆きます。

「息ができないくらい苦しい。死んでもいいと思ったくらいです」
戦後80年、帰国した残留日本人の切実な声に耳を傾けました。

(函館放送局 国分美穂)

元残留日本人が歩んだ“苦難の人生”

淡中詔子さん
「サハリンに住んでいたときは、ものがなくて、食べていくのに精いっぱいでした」
函館市に住む淡中詔子さん(81)です。
淡中さんは、樺太で日本人の両親のもとに生まれ、1歳で終戦を迎えました。歩んできた人生は苦難の連続だったといいます。

戦前、日本の領土だった樺太南部には、日本や朝鮮半島から多くの人が出稼ぎなどで移り住み、最も多いときはおよそ40万人が暮らしていました。
しかし、太平洋戦争末期の1945年8月、ソビエト軍が侵攻。

以来、現在に至るまでソビエト・ロシアが事実上の統治国となりました。

戦後、1946年から4年間にわたって集団引き揚げが行われ、多くの日本人が北海道に引き揚げました。
ただ、家族や仕事の理由などで引き揚げられなかった日本人も少なくなく、集団引き揚げが中断した1949年の時点で、およそ1500人が「サハリン残留日本人」になりました。

淡中さんの母親は、戦時中に夫と生き別れ、1歳の淡中さんを抱えて日本へ緊急疎開しようとしましたが、道中で淡中さんが病気になり断念します。
その後、炭鉱で弁当を出す仕事を始め、職場で出会った朝鮮半島出身の男性と再婚しました。

母親は日本に帰る機会をうかがっていましたが、小さい子どもを抱えていたことから現地にとどまらざるを得なかったといいます。
淡中さん
「母は畑で仕事をしながら、鳥を見て涙を流していました。鳥はどこでも自由に行けるからいいねって。私はいつ日本に帰れるのだろうって。私は小さかったから、母がなぜそこまで悲しんでいたのかわかりませんでした」
戦後、ソビエト統治下に置かれたサハリンで日本人は差別され、淡中さんは日本人であることを隠して過ごしました。

日本人学校がなくなったサハリンで、淡中さんは朝鮮学校に通いましたが、ハングルがわからないことから生徒や先生から酷いことを言われたり、故意にテストの点数を下げられたりするなどの嫌がらせも受けたといいます。
日本名・詔子、朝鮮半島の名前・ソジャ、ロシア名・ソフィヤの3つの名前を持ち、自分のアイデンティティーについて悩みながら生きてきました。
淡中さん
「日本に来る前まではいつも悩んでいました。私は何人かって。日本人なのに日本の言葉も文化もわからない。韓国に行っても、韓国人ではない。ロシアにいてもロシア人ではないんですよね」
母親は貧しい生活のなか、「日本に帰って親族に会いたい」と帰国を望み続けていましたが、叶わないまま亡くなりました。
淡中さん
「生前、母は私に『あきちゃん、サハリンで苦労させてごめんね。私が死んでも必ず神様に拝んで、あきちゃんは日本に帰れるようにするよ』と言ってくれていました」
母親の死後、帰国事業が再開したことをきっかけに、25年前の2000年、淡中さんは56歳で永住帰国を果たしました。
永住帰国を果たした淡中さん
「本当にうれしいです。ロシアとサハリンと函館が本当に近くなるように、少しでもお手伝いをしたいです」
慣れない生活に戸惑いながらも、日本語を一から勉強し、穏やかに暮らしてきました。

そして、年に1度はサハリンに戻り、現地で暮らす子や孫たちと再会するのが生きがいだったといいます。

戦争はまだ終わっていない 元残留日本人の願い

ところが、3年前のロシアによるウクライナへの軍事侵攻で状況が一変しました。
日本とサハリンを結ぶ直行便がなくなり、家族に会うためには飛行機を乗り継がなければならなくなってしまったのです。

体力面でも費用面でも渡航のハードルが一気に上がり、淡中さんは家族に会えない状況が続いています。
淡中さん
「息ができないくらい苦しいんですよ。そばにあるのに行けない、親戚と会えないという昔を思い出しました。再び離散家族になってしまって、死んでもいいと思ったくらいです。私はウクライナへの軍事侵攻が始まる前は『戦争は終わった』と思っていました。だけど、いま考えてみたら戦争は終わっていないんですよ。続いているんですよ」
軍事侵攻は残留日本人の生前の願いにも暗い影を落としています。

札幌市郊外には、9年前、帰国した残留日本人のために建てられた共同墓があり、現在、17人が眠っています。
先月(4月)下旬、淡中さんは、残留日本人だった友人の遺骨を納めるため、納骨式に参列しました。

函館で淡中さんと隣どうしで暮らしていた、老川正子さん(享年90)です。
老川さんは、幼い頃に両親を亡くすなどし、戦前、樺太で働いていた親戚を頼って祖父母と共に移り住みました。

苦労しながらも戦後のサハリンを生き抜き、淡中さんより2年早く、永住帰国を果たしました。
淡中さん
「年上の老川さんを母のように慕っていました。優しくていい人でした」
老川さんと淡中さんは、日本で支え合って生活してきました。

生前、「遺骨の一部は夫の眠るサハリンに持っていってほしい」と話していた老川さん。

ところが、軍事侵攻で遺骨をサハリンに持って行く見通しが立たなくなり、共同墓に納めることになりました。

淡中さんは、老川さんに思いを馳せ、涙を流しながら祈りをささげていました。
淡中さん
「サハリンに住んでいる親戚や日本人の2世3世4世が自由に日本に来られるように、そして、日本の人が自由に行き来できるようにしたいです。『早く戦争が終わってほしい』。願いはそれだけなんです」

“交流を途絶えさせないで” 世代を超えて体験を語る

再び遠くなってしまった日本とサハリン。

そのような中で、淡中さんは先月(4月)下旬、札幌市で開かれたある交流会に意を決して参加しました。

この交流会は、帰国した残留日本人やその家族などが年に一度集い、語り合う大切な場です。
淡中さんは永住帰国後、ほかの帰国者のサポートなどに積極的に取り組んできましたが、ここ数年は体調を崩すなど体力の衰えもあって、活動はことしで最後にするつもりです。この交流会もあと何回参加できるかわかりません。

そうした思いもあって、年々当事者が少なくなっていく中、この日は「残留日本人の歴史を多くの人に知ってほしい」と参加者に自らの体験を語りました。
淡中さん
「私たちは自分が日本人ということを隠して住んでいました。そんな時期があったんですよ。今はサハリンの家族に会えない状況が続いています」
厳しい情勢が続く今だからこそ、淡中さんは、若い世代に日本とサハリンをつなぐ交流を続けていってほしいと願っています。
淡中さん
「平和をつくるのはこれからの若い人の世代だし、戦争のない時代をつくるためには若い人の力がいるんですよね。日本とサハリンが本当に仲良く、行ったり来たりできるような環境づくりを若い人にお願いしたいです」

取材後記

サハリン残留日本人の歴史は、中国残留日本人などと比べて当事者の数が少なかったことから、あまり知られてきませんでした。

恥ずかしながら私も知らずにいた人の1人でした。

外国人の日本語支援をしている団体を取材している時に、たまたま淡中さんと出会い、その歩んだ道の険しさと、今なお「戦争が終わっていない」という辛い思いを知り、衝撃を受けたことが取材のきっかけでした。

淡中さんは「戦争によって一番犠牲になるのは罪のない一般の人々。そして戦争が終わったあとも苦しみは消えない」と訴えています。

「戦後80年」となる今、戦争の恐ろしさがますます風化しかねない危機にあると思います。

若い世代にできることは、限られた当事者から話を聞いて、経験や思いを受け継いでいくこと。

悲劇を2度と繰り返さないためにも、歴史を学び、自分に何ができるのか考え続けなければいけないと強く感じました。

(5月9日 おはよう日本で放送)
函館放送局記者
国分美穂
2024年入局 函館放送局が初任地
主に事件や事故の取材を担当 現場を駆け回り、社会問題や国際問題など、幅広く取材していきたいと思っています
3つの名前を持つ女性 終わらない苦しみ

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特集
3つの名前を持つ女性 終わらない苦しみ

詔子、ソジャ、ソフィヤの3つの名前を持ち、自分のアイデンティティーについて悩みながら生きてきた女性がいます。

女性は太平洋戦争後もサハリンにとどまることになった「サハリン残留日本人」。

日本への帰国を果たしたものの「戦争は終わっていない」と嘆きます。

「息ができないくらい苦しい。死んでもいいと思ったくらいです」
戦後80年、帰国した残留日本人の切実な声に耳を傾けました。

(函館放送局 国分美穂)

元残留日本人が歩んだ“苦難の人生”

淡中詔子さん
「サハリンに住んでいたときは、ものがなくて、食べていくのに精いっぱいでした」
函館市に住む淡中詔子さん(81)です。
淡中さんは、樺太で日本人の両親のもとに生まれ、1歳で終戦を迎えました。歩んできた人生は苦難の連続だったといいます。

戦前、日本の領土だった樺太南部には、日本や朝鮮半島から多くの人が出稼ぎなどで移り住み、最も多いときはおよそ40万人が暮らしていました。
戦前の樺太南部
しかし、太平洋戦争末期の1945年8月、ソビエト軍が侵攻。

以来、現在に至るまでソビエト・ロシアが事実上の統治国となりました。

戦後、1946年から4年間にわたって集団引き揚げが行われ、多くの日本人が北海道に引き揚げました。
函館港に着いた引き揚げ船
ただ、家族や仕事の理由などで引き揚げられなかった日本人も少なくなく、集団引き揚げが中断した1949年の時点で、およそ1500人が「サハリン残留日本人」になりました。

淡中さんの母親は、戦時中に夫と生き別れ、1歳の淡中さんを抱えて日本へ緊急疎開しようとしましたが、道中で淡中さんが病気になり断念します。
淡中さんの母親 キノさん
その後、炭鉱で弁当を出す仕事を始め、職場で出会った朝鮮半島出身の男性と再婚しました。

母親は日本に帰る機会をうかがっていましたが、小さい子どもを抱えていたことから現地にとどまらざるを得なかったといいます。
淡中さん
「母は畑で仕事をしながら、鳥を見て涙を流していました。鳥はどこでも自由に行けるからいいねって。私はいつ日本に帰れるのだろうって。私は小さかったから、母がなぜそこまで悲しんでいたのかわかりませんでした」
戦後、ソビエト統治下に置かれたサハリンで日本人は差別され、淡中さんは日本人であることを隠して過ごしました。

日本人学校がなくなったサハリンで、淡中さんは朝鮮学校に通いましたが、ハングルがわからないことから生徒や先生から酷いことを言われたり、故意にテストの点数を下げられたりするなどの嫌がらせも受けたといいます。
淡中さんの3つの名前(直筆) 右下は朝鮮学校在籍時の淡中さん
日本名・詔子、朝鮮半島の名前・ソジャ、ロシア名・ソフィヤの3つの名前を持ち、自分のアイデンティティーについて悩みながら生きてきました。
淡中さん
「日本に来る前まではいつも悩んでいました。私は何人かって。日本人なのに日本の言葉も文化もわからない。韓国に行っても、韓国人ではない。ロシアにいてもロシア人ではないんですよね」
母親は貧しい生活のなか、「日本に帰って親族に会いたい」と帰国を望み続けていましたが、叶わないまま亡くなりました。
淡中さん
「生前、母は私に『あきちゃん、サハリンで苦労させてごめんね。私が死んでも必ず神様に拝んで、あきちゃんは日本に帰れるようにするよ』と言ってくれていました」
母親の死後、帰国事業が再開したことをきっかけに、25年前の2000年、淡中さんは56歳で永住帰国を果たしました。
永住帰国に伴い函館市役所で手続きする淡中さん(2000年)
永住帰国を果たした淡中さん
「本当にうれしいです。ロシアとサハリンと函館が本当に近くなるように、少しでもお手伝いをしたいです」
慣れない生活に戸惑いながらも、日本語を一から勉強し、穏やかに暮らしてきました。

そして、年に1度はサハリンに戻り、現地で暮らす子や孫たちと再会するのが生きがいだったといいます。
サハリンにいる淡中さんのひ孫

戦争はまだ終わっていない 元残留日本人の願い

ところが、3年前のロシアによるウクライナへの軍事侵攻で状況が一変しました。
日本とサハリンを結ぶ直行便がなくなり、家族に会うためには飛行機を乗り継がなければならなくなってしまったのです。

体力面でも費用面でも渡航のハードルが一気に上がり、淡中さんは家族に会えない状況が続いています。
淡中さん
「息ができないくらい苦しいんですよ。そばにあるのに行けない、親戚と会えないという昔を思い出しました。再び離散家族になってしまって、死んでもいいと思ったくらいです。私はウクライナへの軍事侵攻が始まる前は『戦争は終わった』と思っていました。だけど、いま考えてみたら戦争は終わっていないんですよ。続いているんですよ」
軍事侵攻は残留日本人の生前の願いにも暗い影を落としています。

札幌市郊外には、9年前、帰国した残留日本人のために建てられた共同墓があり、現在、17人が眠っています。
日本サハリン協会が建てた共同墓
先月(4月)下旬、淡中さんは、残留日本人だった友人の遺骨を納めるため、納骨式に参列しました。

函館で淡中さんと隣どうしで暮らしていた、老川正子さん(享年90)です。
老川正子さん
老川さんは、幼い頃に両親を亡くすなどし、戦前、樺太で働いていた親戚を頼って祖父母と共に移り住みました。

苦労しながらも戦後のサハリンを生き抜き、淡中さんより2年早く、永住帰国を果たしました。
淡中さん
「年上の老川さんを母のように慕っていました。優しくていい人でした」
淡中さんと老川さん
老川さんと淡中さんは、日本で支え合って生活してきました。

生前、「遺骨の一部は夫の眠るサハリンに持っていってほしい」と話していた老川さん。

ところが、軍事侵攻で遺骨をサハリンに持って行く見通しが立たなくなり、共同墓に納めることになりました。

淡中さんは、老川さんに思いを馳せ、涙を流しながら祈りをささげていました。
淡中さん
「サハリンに住んでいる親戚や日本人の2世3世4世が自由に日本に来られるように、そして、日本の人が自由に行き来できるようにしたいです。『早く戦争が終わってほしい』。願いはそれだけなんです」

“交流を途絶えさせないで” 世代を超えて体験を語る

再び遠くなってしまった日本とサハリン。

そのような中で、淡中さんは先月(4月)下旬、札幌市で開かれたある交流会に意を決して参加しました。

この交流会は、帰国した残留日本人やその家族などが年に一度集い、語り合う大切な場です。
交流会で体験を語る淡中さん
淡中さんは永住帰国後、ほかの帰国者のサポートなどに積極的に取り組んできましたが、ここ数年は体調を崩すなど体力の衰えもあって、活動はことしで最後にするつもりです。この交流会もあと何回参加できるかわかりません。

そうした思いもあって、年々当事者が少なくなっていく中、この日は「残留日本人の歴史を多くの人に知ってほしい」と参加者に自らの体験を語りました。
淡中さん
「私たちは自分が日本人ということを隠して住んでいました。そんな時期があったんですよ。今はサハリンの家族に会えない状況が続いています」
厳しい情勢が続く今だからこそ、淡中さんは、若い世代に日本とサハリンをつなぐ交流を続けていってほしいと願っています。
淡中さん
「平和をつくるのはこれからの若い人の世代だし、戦争のない時代をつくるためには若い人の力がいるんですよね。日本とサハリンが本当に仲良く、行ったり来たりできるような環境づくりを若い人にお願いしたいです」

取材後記

サハリン残留日本人の歴史は、中国残留日本人などと比べて当事者の数が少なかったことから、あまり知られてきませんでした。

恥ずかしながら私も知らずにいた人の1人でした。

外国人の日本語支援をしている団体を取材している時に、たまたま淡中さんと出会い、その歩んだ道の険しさと、今なお「戦争が終わっていない」という辛い思いを知り、衝撃を受けたことが取材のきっかけでした。

淡中さんは「戦争によって一番犠牲になるのは罪のない一般の人々。そして戦争が終わったあとも苦しみは消えない」と訴えています。

「戦後80年」となる今、戦争の恐ろしさがますます風化しかねない危機にあると思います。

若い世代にできることは、限られた当事者から話を聞いて、経験や思いを受け継いでいくこと。

悲劇を2度と繰り返さないためにも、歴史を学び、自分に何ができるのか考え続けなければいけないと強く感じました。

(5月9日 おはよう日本で放送)
函館放送局記者
国分美穂
2024年入局 函館放送局が初任地
主に事件や事故の取材を担当 現場を駆け回り、社会問題や国際問題など、幅広く取材していきたいと思っています

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