裴亀子と天勝と伊藤博文 (後編)
伝説のマジシャン・松旭斎天勝の養女にして朝鮮舞踊家。実は伊藤博文の隠し子? さままざな歴史のスクランブルに立ちながら、21世紀に生を全うした女性エンターティナー・裴亀子(배구자)の波乱万丈
天勝一座を脱走
1926年(大正15年/昭和元年)、天勝一座の平壌公演中、亀子は脱走、そのまま行方をくらませてしまうのだ。一説によれば、天勝の別の養子と恋仲になり、一座に居づらくなったためだともいわれている。子供好きの天勝は一座のレビューを家族で楽しめる健全なエンターティーメントと考えており、そのため一座内の風紀、とりわけ男女関係に関してはやかましかったという。それをよりによって養子(養女)同士が禁を破ったのである。これが、天勝、亀子の間にあった「何か」の、どうやら真相らしかった。
当然、天勝側の捜索の手がおよぶ。そのとき、亀子を匿った平壌のホテルの支配人・洪淳彦(ホン・スノン)とは、3年後の1929年(昭和4年)に入籍している。亀子と洪が幼馴染であるとする資料もあるが定かでない。
当然、天勝側の捜索の手がおよぶ。そのとき、亀子を匿った平壌のホテルの支配人・洪淳彦(ホン・スノン)とは、3年後の1929年(昭和4年)に入籍している。亀子と洪は幼馴染だったともいわれているが、さだかではない。
洪は妻のために家産を整理し、1935年(昭和10年)、京城の西大門近くに東洋劇場という演劇専門の劇場をオープンさせた。東洋劇場は最新式回転舞台と照明施設、スモーク装置を完備しており、朝鮮新派劇の聖地ともいわれ、ここの舞台に立つことは半島の全演劇人の夢とされた、と韓国側の資料にある。客の入り次第、小屋主の胸先三寸で給与が決まる前近代的な劇場経営を廃し、月給制を導入したことも団員に好評だった。これなども、洪が演劇畑の人間でなくホテルのマネージャー出身だったからのことだろう。
同劇場の専属劇作家に朝鮮演劇界のホープ・林仙圭(イム・ソンギョ)がいた。彼の妻は朝鮮初のトーキー映画『春香伝』(1935年)などで知られる銀幕のスター・文藝峰(ムン・イェボン)である。ちなみに、林は親日派演劇人の筆頭であり、朝鮮人志願兵を題材にした芝居を手掛けたことを戦後問題視され、同じく妻の文も戦中、多くの国策映画に出演したことがあだとなり、ともに演劇界追放の憂き目にあう。その後3人の子供を連れて北朝鮮へ渡っている。
裴亀子は結婚を機に京城新堂洞に「裵亀子舞踊研究所」の看板を掲げ後進の指導にあたった。また舞台活動を再開し、「裴亀子舞踊劇団」を設立し、日本と朝鮮を股にかけて巡回公演を精力的にこなしている。
吉本興業と松竹芸能
亀子の舞台は、伝統的な朝鮮舞踊に西洋的なレビューや寸劇を加えたもので、そのスタイルでいえば、かの“半島の舞姫”崔承喜の先輩格といえた(年齢は亀子が6歳年長)。しかし、後世、崔ほどに名声を残していないのは、亀子の日本での活動がほぼ関西に限られていたことや活動期間の短さもさることながら、文人墨客、インテリゲンチャに愛された崔承喜の舞踊が芸術として評価されていたのに対し、裴亀子のそれがあくまで大衆演芸にとどまったためと考えられる。ただし、商業レベルでの成功は亀子の方が上だったという声もある。
吉本興業と契約したのも、天勝との軋轢を避ける意味もあっただろうし、天勝の関西のホームは松竹系劇場なので花月に出演している限りはバッティングの心配もなかった。松竹芸能はその創業にあたり吉本興業の人気芸人を高額で引き抜き、これに怒った林正之助(吉本興業社長)が松竹に殴り込みをかけ脅迫事件にまで発展している。その時は松竹側が詫びを入れて手打ちとなったが、以後、相互不干渉という形で反目が続いていた。現在でも両社の所属のタレントの共演は基本的にNGのはずで、明石家さんまと笑福亭鶴瓶がフジテレビの番組で共演したときは関西の新聞は一面で取り上げたほどだ。この共演も東京の番組だからありえたことで、関西ではいまだこの不文律が生きている。
亀子と朝鮮舞踊
朝鮮舞踊で知られた裴亀子だったが、天勝一座に在籍していた当時は、朝鮮語を片言も喋らなかったという。そればかりか、たびたび朝鮮を卑下する発言をし、身も心も日本人になりたいとまで語っている。彼女の真意のほども、そのことが現在韓国での彼女の過小評価につながっているのかも不明だ。
そのようなわけで、天勝一座では一度も朝鮮舞踊を踊ったことがなかった亀子だが、天勝が自伝の中で「朝鮮舞踊が得意」としたのは、せめてもの親心の表れか。
元号が昭和に代わるころ、天勝一座も座員100人を超える大所帯になっていた。アメリカ公演で知り合ったハワイのジャズバンドと契約し日本に連れ帰ったかと思うと、支那人の女剣劇のグループを入団させるなど、プログラムも国際色豊かになっていた。やはりアメリカでスカウトしたジー・ヴァージニアという少女が娘子連の新しいスターとなっており、裵亀子の脱退はさほど痛手にはなっていなかったのかもしれない。
ちなみに、ジャズバンドは、新聞に黒人バンドと紹介されているが、おそらくポリネシア系だろう。おりしもアメリカは禁酒法の時代で、メンバーは「日本に行けば酒が飲める」と口説かれての訪日だという。
※但馬駐・今回、この稿を補完するため、改めて資料を探ってみたところ、天勝が引退興行中の昭和12年、都新聞(4月26日付)の取材に答えて、裵亀子についてこう回顧している記事を発見した。
「随分私も種々(いろいろ)な子を育てて来て、どの子が可愛くない、といふやうなことは無論ありませんでしたけれども、あの子位、可愛かつたことはありませんでしたよ。風呂を私が入れて上げたりしたのはあの子だけぢやなかつたかしら」。
おそらく師に限っては、愛弟子との決別に関するわだかまりは残っていないものと思われる。
冒頭にも記したとおり、1936年に思わぬ火災事故にみまわれた亀子だが、同年には音楽コメディ映画『唄の世の中』(監督・伏水修)に裴亀子楽劇舞踏団の名義で出演、渡辺はま子や藤原釜足、岸井明、神田千鶴子といったそうそうたる顔ぶれと共演している。エンターティナーとしての彼女のピークもこのあたりであった。
翌1937年(昭和12年)に夫・洪淳彦が急逝すると彼女の運命も暗転する。良心的経営ゆえに、東洋劇場はその成功に反し建設のための多額の負債を残したまま、人手に渡ってしまう。劇団は解散、裴亀子も表舞台から一切姿を消してしまうのである。
伊藤博文の隠し子?
『天勝一代記』に戻る。この中で天勝は亀子を両班の娘と紹介しているが、実際の彼女の出自は謎が多い。現役時代、まことしやかに流れた噂では彼女の生母は裴貞子(はい・さだこ/ペ・ジョンジャ)で、伊藤博文との間にできた隠し子だというのである。
さて、ここに出てくる裴貞子が本項の第三のキー・パーソンということになる。
安重根に暗殺された伊藤博文だが、実は、彼は日韓の併合に最後まで反対の立場にあったし、朝鮮の自立を誰よりも願っていた。むしろ、当時の日本の大物政治家の中で、伊藤ほどいろいろな意味で朝鮮を愛した人物はいなかったのではないか。その証拠に伊藤は統監時代、閔氏一派に父を処刑され身寄りを無くし流転の果てにあった一人の朝鮮人女性を養女に迎えている。それが裴貞子である。
現在の韓国では、この養父養女の関係は擬装であり、実質上の愛人であったとするのが定説だが、色好みで知られる伊藤のこと、さもありなんという程度にここではとどめておこう。「いろいろな意味」でと含みをもたせたゆえんである。玄映運(ヒョン・ヨンウン)という夫がありながら、伊藤との養子縁組と同時にこれと離縁しているというのも、愛人説を裏書きするものだといわれているが。
ちなみに貞子は玄映運との間に、玄松子(ヒョン・ソンジャ)という娘がいる。この松子も尹致旿(ユン・チオ)という官僚で政治家の妻という身で音楽家の李哲(リ・チョル)と不倫沙汰を起こしゴシップの種を撒いた。松子はのちに李哲と結婚、朝鮮人経営の初のレコード会社オーケーレコード(テイチク傘下)を創立、朝鮮の流行歌発展に多大な貢献をしている。余談ついでに書けば、尹致旿は大韓民国第4代大統領になる尹潽善(ユン・ボソン)とは遠縁にあたる人物で、玄松子との年齢差は30歳、父・玄映運とほぼ同年であった。
女スパイ・裵貞子
一口に流転と書いたが、貞子は少女時代、妓生に売られたり、尼寺に逃げこんだり、はたまた妓楼に身を沈めたりなどの辛苦を経験したらしい。その彼女がいかにして金玉均(キム・オッキョン)や安駉壽(アン・ギョンス)、高永根(コ・ヨングン)といった革命活動家たちの知遇を得、日本公使館や王宮に出入りするまでにいたったかは謎である。そもそも、裴貞子は生年も定かではない。一説によれば1870年生まれ。となれば、伊藤博文と出会ったときは30歳を越えていたはずである。その出会いは、1905年(明治38年)11月、伊藤が「日韓保護条約」締結のための来朝のときのもので、場所は京城のソンタクホテルだった。この一夜で宿した伊藤の胤が裴亀子だというのだ。
ソンタクホテルは、仏アルザル・ローレーヌ地方出身のミス・ソンタクという女性の経営する朝鮮初の西洋式レストランホテルである。ミス・ソンタクは本名マリー・アントワネット・ソンタク。高宗や閔妃からも信篤く、彼女のホテルは列強や朝鮮要人の社交政治の場であり策謀渦巻く奥の院であった。山風山人(おそらく著名人の変名)なる京城日報の記者は、裴貞子、ミス・ソンタク、そして真霊君(チルリョングン)を朝鮮の三大女傑と記している。真霊君は閔妃の寵愛を受けた巫堂(ムーダン)で、閔妃は彼女の祈禱(クッ)に湯水のように金をつかい、あまつさえ政(まつりごと)にまで口を出させていた。本来、王族にしか名乗れない君号を彼女に与えたのも閔妃である。朝鮮亡国の原因のひとつに、閔妃のこの巫堂狂いがあったともいわれている。裴貞子の名はこれら怪女と並んだのである。
現在、韓国で語られる裴貞子伝説では、貞子は国を売った反逆者であり、日本、朝鮮を股にかけた女スパイ、大悪女といったキャラクターで、彼女を主人公にしてフィクション作品(映画・演劇・小説)も複数作られている。少女の頃から伊藤博文に射撃や乗馬、暗号術などの密偵教育を叩き込まれ(前述したとおり、二人の出会いの時期から考えてそれはありえない)、長じて明石元二郎配下の諜報部員となって、王宮に参内し高宗を色香で篭絡して日韓併合に導いたという。伊藤の死後は満州に渡り馬賊を率いてさまざまな諜報破壊工作及び抗日勢力狩りに励んだということになっている。
なお、松旭斎天勝は天一一座時代、海外巡業中に、伊藤博文と一度だけニューヨークの地で会っていた。エール大学創立200周年記念(となれば、1901年ということになる)の式典に参加のために訪米中の伊藤の前で奇術を披露する機会を得たのである。「花吹雪」という奇術を実演中、投げテープが伊藤の顔を直撃するハプニングがあったが、女好きで知られる伊藤はかえって相好を崩し、そのテープを記念に所望したという。
裴亀子、アメリカに眠る
さて、裴亀子だが、実際のところ、裴貞子との関係はどのようなものだったのだろう。伊藤博文の隠し子というのは噴飯ものとしても、何らかの血縁があったと思われる。現在有力とされているのが、貞子の姪という説だ。天勝一座に亀子を紹介したのが貞子だともいわれている。天勝にしても伊藤公の息のかかった女傑の頼みならばと、亀子を門下に迎え入れたのではないか。
面白いのは、亀子自身が伊藤と貞子の間の隠し子という噂にまんざらでもなく、それを捨て置いていたふしがあることである。つまり、当時は裴貞子に「悪女」という評価はなく、伊藤博文も朝鮮民族の仇敵でもなかったということだ。いわんや安重根が「英雄」に祀り上げられるようになったのは戦後のこと。むしろ、『戯曲安重根』を書いた谷譲次(『丹下左膳』の作者・林不忘の別名)のように、日本人インテリの方が安に同情的だったと思う。
亀子に関しては古い雑誌では、「朝鮮の警視総監の娘」であるとか、「先祖は代々朝鮮の王宮に仕えていた」とか、あるいは「明の皇帝の血筋」だとか、さまざまな紹介がなされている。挙句が前編で触れた「明治天皇のご落胤」である。それらの”経歴”がすべて彼女の口から発せられたものと考えると、ある種の虚言癖の持ち主とみてもいいだろう。
その亀子だが、夫・洪淳彦の死後、すぐさま再婚しており、夫の喪が明けたときには、その相手の子を妊娠していたというから、どうもこの人、根っから惚れっぽい女性だったようである。その夫とも別れ、戦後、日系アメリカ人の軍人と再再婚、しばらく日本に居住していたという。晩年は夫ともにアメリカに渡り、2003年、98歳で亡くなったことが確認されている。
舞踏芸術家として最高の地位と名声を得ながら戦後、北朝鮮に渡ったために不幸な死を迎えることになった崔承喜。彼女ほどの評価は得られなかったものの、異国の地で天寿をまっとうした裴亀子。果たしてどちらが幸せだったのだろうか。
▲裵亀子の歌う『天安の三叉路』。♪フンフンというハミングに不思議なコケトリーを感じる。
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