仏教ではこの世に起きる出来事は全て偶然ではなくて、必然性があって起きるとします。そこに【縁】起が説かれます。
もう一つとして、仏教では【因果応報】が説かれます。で、この「因果応報」がどれだけ理解されているかとなりますと、ほとんど理解されていないと見られます。この因果応報とは別に、仏教では【輪廻転生】が説かれますが、【因果応報】はその「輪廻転生」と連動している為に、仏教における宗派に見られます【我が宗派に入れば極楽往生】の言葉に欺されてしまいますと、死後は極楽に往生だからでは「因果応報」の意味がなさなくなって来るのです。
因果応報(カルマ)は輪廻転生と連動して現れる
今の世だけを見て因果応報を論ずるのは無意味
イスラム教におけます【目には目を、歯には歯を】も、イスラム教徒は死ねばアラーの神の名の下に天国だと、その意味を間違えてしまいました。為に現世の罪を現世で償わせようとする過ちに入ったと言えます。 泥棒をする者は手が悪いで手を切断するなどは目には目、歯には歯をではないのです。
この「目には目を、歯には歯を」は、輪廻転生において起きる魂の原則【因果応報】を指したものだからです。
私が高校生の頃、府県単位で高校生による【同和問題の討論会】があり、一クラスに一名が代表としてその討論会に参加が命じられました。その当時、全国的に「同和問題」で大きな運動があり、全国で吊し上げと言う糾弾会が催されて、その糾弾会の名の元で何名かの自殺者も出ました。当時は、同和の糾弾会は暴力団より恐ろしいとまでされたのです。現在はさすがに行き過ぎの反省からそうしたことはありません。
当然にそんな討論会に誰も手を上げてまで参加しません。それで、クラスで代表を一名選べとなった時、何故かクラスメイトの一人が真っ先に私がよいと言ったら、誰も行きたくないから賛成賛成で私がクラス代表で行くことになりました。
その討論会、分科会ごとの教室で同和地区出身の高校生が熱く語ります。差別をなくする為には【暴力】を是とする意見です。単に差別は行けないと言っているのは差別の容認であり、差別と戦って差別が間違いであることを相手に認識させるです。その高校生は常に糾弾会の先頭に立っている感じでした。
その頃から、日本では中革派の革マルとか左翼が暴力を持って改革を言い。ゲバ(学生による武力闘争)が盛んになって来た頃です。そうした流れは大学生のみならず高校生まで及んでいました。やがてそれは赤軍の日航旅客機のハイジャック。東京の丸の内でビルの爆破。そうした暴力は浅間山荘事件にと進みました。
その討論会の時、私に霊の声が臨みました。【差別と戦うことは大事なことなれども、だからと言って暴力に訴えてはいけない。人を差別する者は、次は人から差別される立場で生まれる。それは人を差別することはいけないことだと、身をもって差別される体験を魂に積む為である】と言われるのです。
その霊の声はさらに言います。【私はこの世を変える。その時には人を差別するような者は一掃する。今は何事も我慢の時である。】です。
それは、この世は【魂の修学の場】であることからの個別事項の話です。
その当時、その霊の言葉と同じようにことを言ったお坊さんがありました。仏教の【因果応報】で前世で人を差別したから、今生は人から差別される方に回った。その言葉は同和で大問題となり、そのお坊さんは同和の糾弾会で吊し上げに遭われたのです。そして、その言葉は無理矢理に撤回させられたのです。
仏教では、この世に起きる出来事で「偶然」などはない。全て【必然性】を持っていると説きます。全て【因】があって【果】が生じているからです。仏教的に言えば、前世で人を差別したから、今度は差別される方に回ったは仏教の教えとしては正しいのです。
しかしながら、人は自分が前世で何をしたのか?。そうした記憶は持たないのです。いくら仏教には【輪廻転生論】があったとしても、日本の仏教界はそうした教えをしていないからです。誰がそうしたことをきちんと学んでいるのかとなります。そうしたことを教えられるだけの僧侶も居なくなったなのです。仏教では今の世は末法なのです。
現実界に現れる出来事だけを見ているのと、「輪廻転生」の中での出来事だと見ているのとでは、まったく違ったものとなります。その被害者の【過去世】に何があったのかです。つまり、被害者は被害者ではないことが解って来たりするのです。前世では加害者であったりするなのです。
私は現世で霊能力を持っておられる幾人かの女性で、今の人生としてはさほど幸せでは無い数名の方の前世を神から見させられました。その女性達の前世は古代シャーマンでした。そのシャーマンであった時のカルマを背負って苦しんでおられるです。どうしてもシャーマンは役目柄カルマを背負ってしまうのです。シャーマンとしての定めです。為に今生では苦しんでおられるです。
私が霊界修業時代、ある女性と少し付き合っておりました。その本人から自分は殺人者ですと告げられて、何事かと詳しく話を聞きますと、ミニバイクで交通事故を起こして相手の車を運転していた男性を死なせて、交通刑務所に一年間入ったと言います。私は罪を償ったのだからと、その女性を慰めました。
ところが、私が教えを受けていた当時の2番目の師匠が、私に、【お前、付き合っている女性がいるだろう。その女性は人を殺している。神に仕える者がそうした殺人者と付き合ってはいけない】と言います。 私はそれは単なる交通事故で罪を償ったのですからと言葉を返すと、その師匠は言います。【そうではない。その女性は過去世でその交通事故で死なせた相手の男から強姦されて殺されている。無論、今の肉体はその出来事を覚えてはいない。しかし、その魂は過去世の出来事を覚えていて、その時の相手の男の魂を見つけて、今生で交通事故の形で相手を殺した。それは過失ではなくて復讐の殺人を犯したのだ】と言います。
私はその女性と直接出会っていてもその過去世を見るなどは出来ませんでしたが、その時の2番目の師匠は私がその女性と付き合っていていて、その女性の過去世まで見ていたなのです。
それはイスラム法典にある【目には目を、歯には歯を】が時代を超えて吹き出したなのです。相手の男性も若かったそうですが、自分が過去世で強姦で殺した相手に殺されたことで、本人の【カルマの消滅】には繋がったと言えます。
今生においてのその事件は、両方の魂の【カルマ】を解消させたのです。それをどう取るかは、個々の人の考えが感情的に溺れた目で見るのか、それとも輪廻転生の中で起きた出来事と冷静に判断出来るのかで違います。個々の人の取り方です。
私はそうした事例を幾つも見て来ましたので、スピリチュアル的な考え方はしません。
この世に起きる出来事は、単に【気の毒だ。可哀想だ】の論理では解らないのです
因果応報(目には目を、歯には歯を)を悪い意味で捉えてはいけないのです。自分が過去世で犯した罪(カルマ)の罪状が消えて行く姿だからです。
因果応報は過去世のカルマ(罪)の解消の側面を持つ
自分は今生でどうしてこんな目に遭うのか!
そうした嘆きは誰しもに起きます。しかしその多くは、自分の魂が過去世で犯した罪(カルマ)が消えて行く過程なのです。
このことをどれだけ理解出来ているかなのです。今の自分の不運ばかりを嘆いて、どこに神や仏がいるのか?。そうした文句ばかり言っているならば、そのカルマは解消して行きません。
これらの現象は自分の魂が過去世で犯したカルマの解消かと受け止めることによって、カルマが未来に向かわずに今生で消えて行くとなるのです。
人の魂は、何故にこの世に甦(更生)るのか?
魂の【更生】の為に、甦る
私は何度もこの甦(更生)を説いて来ました。どうして、自分はこの世に出て来たのかなのです。
そうしたカルマの解消のことを説かれた宗教家としては、【世界人類が平和でありますように】のスローガンで知られます【白光真宏会】の教祖であった【五井昌久】師がおられます。
因果応報(目には目を、歯には歯を)、カルマ、輪廻転生は、全て同一線上から起きることが理解出来れば、自分の身に起きる出来事も【縁起】からだと解って来るのです。
仏教における「縁起」とは、一切の事物は固定的な実体をもたず、さまざまな原因(因)や条件(縁)が寄り集まって成立しているということ、仏教の根本思想。因縁。因果。
スピリチュアルのように因果応報の意味を間違えている間は、いくら霊能力かあってもダメであり、また霊能者だから人の前世が見えると豪語していても、その人のカルマの【因】となった行為そのものが見えなければ、その霊能者に見えていると言う前世など無意味な話なのです。
今、救いを求めている人の原因となっている【カルマ】が解った時、本人には可哀想であるけれども、今生で【カルマ】を消そうとしなければ、その【カルマ】は来世に持ち越される。来世で、また文句たらたら言うことになってしまうのです。こうしたことは曹洞宗の修証義の【三時(過去・現世・未来)】の教えとしてありますが、カルマと連動していることの認識としては薄かったのかも知れません。
どこかの人生で【カルマの膿】を出さなければならないのです
今の時を同情するのが神ではないのです。そこに【神の非情】さはあるのです。
過去世のカルマの解消は、この世で【世の為人の為】に役立つ行為をする
それが世根としての【米】の実りであり
それは【損】と思わずに、魂の【徳】と考えよなのです
どこに、スピリチュアルの何をしても神の愛で赦されるがあると言うのでしょうか?。
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