人に内在する良心神(神言会)

神は言葉なりき。言葉は言霊で構成され、その言霊による神の仕組みを解説する神言会(kamikotokai.com)のプログです。
神言会では人に内在する良心神(この世の閻魔)とは何かを説明しています。

魂を磨く①/そもそも魂とは?

天の岩戸開けなどあるのかと12回に渡って書きましたが、天の岩戸開けがあろうがなかろうが、大切なことは【自分の魂を磨く】なのです。その度合いによって、自分がこの世を去った後の霊界での行く先が違っているからです。

大本教神諭に世の立替では、各自の魂を審査して【上・中・下】の三段階に判定され、下から上に行くもの、上から下に行くもの等の入れ替えが起きると予告されました。これまで神社の御神霊だと思っていた霊も、創造神の最後の判定次第では下の階(界)に落とされるなのです。

​しかし、それは【立替】があっての話にしか過ぎません。立替など無かったとしても、魂を磨いておかないと既存の霊界でも高い世界は目指せません。


ですから、立替が起きようが起きまいが、自己の魂を磨くが必要なのです。それが【鬼に金棒】なのです。

古来より、自分の【魂】を磨けとは言われて来ました

しかしながら、これまで【魂】とは何ぞやとは詳しく言われて来ませんでした。単にこの世を去って、あの世とやらの【霊界】に旅立つ【命の源】です。だが、その魂とはレントゲン写真にも写らず、死体を解剖しても見つからないことから科学者や医学者等の学者達は魂の存在を認める方は数少ないと言えます。
何でもかんでも物質化したもの以外は認めないと言うのであれば、非常に頑迷な人とは言えるでしょう。

私達は【創造】する時、創造の前に【想像】という画面を創ります。その「想像」は脳内スクリーンの中で「絵」を描くことが出来ます。では、そのスクリーンは脳内のどこにあるのでしょうか?。人の脳を解剖してもそんなスクリーンは見つからないのです。
私達はそのスクリーンに想いという映像を創り出すことが出来ます。その空想の「絵」は物質化出来ているから映像が生じるのです。だが、それは科学で追求しても見えないけれども、誰しも存在しない霊的スクリーンにそうした映像を創り出したはずです。つまり皆さんは霊的世界の実証に触れてはいたのです。

【想像】から【創造】へと解れば、創造神の意味も解る

だが、頑迷だから自分の目には見えないものを認めようとはされないのです。

学者のみならず、日本の仏教界の某宗派は、公然と死後の世界など無い。人は死ねば土に還る等と平気で説いておられます。では、その宗派は何を拝んでいるのかと言えます。ならば、死んだ方の供養など言うべきことではありません。死ねば終わりならば天国も地獄も存在していないことになるからです。仏を拝する必要すらないのです。
大本教の出口王仁三郎聖師は、地獄を覗けば牧師や僧侶でいっぱいだと残しておられますが、イエスだけを神の一人御子と認めれば天国と説く牧師や、死後の世界など無いと公言する僧侶であれば必然的に地獄行きとなります。一般人ではなく宗教家が看板だからです。罪の度合いが違うのです。

さりとて、霊が見える霊と会話が出来るであっても、古来より狐や狸に騙されたと言うように、蛇霊、狐霊、狸霊、猫霊と称される霊が貴公子や姫神様や天使に化けて出て来ます。そんな霊をいくら見ても会話しても自分の魂の磨きにはさほどつながりません。それらの蛇霊、狐霊、狸霊、猫霊等は霊的世界の実証論止まりなのです。

そうした霊が【魂】に関して詳細に語ったなど、ほとんど聞かないからです。

日本の神智学では、【愛】ばかりを言う者は「蛇霊」だとされますが、万物は愛で成り立っているのではないからです。
愛の教えは非常に片寄った思考に入ってしまいます。欧米人の一部にある牛や羊の肉は食べても、【鯨】肉は食べてはいけないなどはその典型です。愛ばかりを言えば、生きとし生ける物を【食】する行為そのものが【罪】を創って行くことになります。すなわち、この世に生きることそのものが【罪】となります。

愛ばかりを言う者は、偽善者と成る

愛と言う言葉さえ言っていれば、自分は立派な者だと思う勘違いなのです。ですから、愛ばかり言っている方で愛をいくら実践しても、第2天国界から先には進めない。仏教的に言えば「菩薩」界から【如来】界には行けないとなるのです。
お釈迦様の逸話に【捨身飼虎】があります。愛を言うのであれば、自分の身を捨てて他の命の為に犠牲となる。そこまでしないと「偽善者」と判定されかねません。スピリチュアルの欠点は、言葉で愛を言っても自分自身は愛の行動を実践している人が少ないことなのです。
スピリチュアルは大金に成るで、スピリチュアルに走ってしまうからです。講習会に大金を払い、その大金分を取り戻そうとする。その目的に金の「欲」が生じているからです。人に愛を説いて、自分は相談料として大金を得る。それが「愛」かです。


私はインターネットのHPもブログも広告が入らない有料版でしています。こうして神を説いても費用的には持ち出すだけです。広告を入れると目障りであり、広告を入れて金儲けするもしていません。神の世界を金儲けの道具にしたくはないからです。

​神を利用して金儲けをしたことで、死後の世界で地獄に墜ちるのが怖いからではないのです。金儲けに入ると金持ちだけを大事にして、貧しい人達をおろそかにする。そんな地位や金で人を差別をする宗教家が大嫌いだからです。

​スピリチュアルで自分に大天使が降りて来たの短い短い愛のメッセージと違い、こうした長い文章を一つ書き上げるだけでも大変な労力を必要とするのです。どこの神様や天使がここまで説明して来たかなのです。多大な費用を使って霊界見聞をして来た学びを、そうした費用を使わないでも皆さんが無料で学べるようにしているだけです。


私はHPやブログの中で【故・田響降仁氏】が撮影された魂の写真を引用させてもらっています。霊視で魂を見ますと、この様な玉で見えるからです。魂が写真に撮影されたものとしては非常に珍しいと言えます。魂が【玉】であることがはっきり解ります。
 

魂とは【玉形の思惟】
 

私がヤフーの掲示板で長らく論陣を張って、魂は「玉思惟」だと説きだしてから、魂を「玉思惟」だと説く人達が増えて来ました。そうすれば魂は大本教の【鬼が云う】だけでなく、魂にはもう一つ意味があったことがより解りやすくなります。
 

 

 

魂の「写真」が出て来る前も魂とは丸い玉だとはされて来ましたが、霊能力がある者には霊視で見えたとしても、その詳細が理解されていなかったと言えます。

大本教からウシトラ金神国常立尊が盛んに宣伝されましたが、大本教の出口王仁三郎聖師が「鬼は厭じゃ」で【王仁(鬼)】としたぐらいで、【鬼が云う】の魂論が大本教からはさほど展開されませんでした。

それでは【節分の炒り豆】にも花は咲かないとなります。

 

上記写真は「故田響降仁氏」が撮影されたもので、お釈迦様の巨大な涅槃像と一緒に写っており、かなり大型と推察されます。人の肉体にある魂は心臓に宿ることから心臓程度の大きさとされており、この大きさは神霊の玉と推察出来ます。

下記の写真の玉も霊能者によれば神霊の玉と言われています。私は伏見稲荷山の【白菊姫】様の玉を幻視しましたが、もっともっと大きなものでした。 今は亡き某著名教祖様の背後に巨大な玉が写ったものがあり、その信徒さんから教団では【御神体】とされる写真で、外部に流出させないでくださいと言われた写真も所持していますが、それは信義上出せません。それも「白菊姫」様と同様の大きさはありました。
で、肉体人間に入る魂はその一部分であり、【分魂】とされるわけです。


それ自体はスピリチュアルでも、【コップ一杯の水(魂の本体)】とスポイトの一滴(肉体に入る魂)論として一部では説かれているでしょう。そんなことも知らぬスピリチュアルとは看板だけのスピリチュアルと言えます。

​そのコップ一杯の水が、私達の魂の正守護神・本守護神と成るのであって、スピリチュアルの単にハイヤーセルフでは魂の大小論が出て来ないのです。

 

​今回のブログ上の魂等の写真は、いろんな方が写されたものを提供していただいたものです。

 

 



 

魂本来の写真は珍しいのですが、似たような物としてスピリチュアルで盛んに出してくる【オーブ玉】の写真は、日本では魂ではなくて【思念】とされているようです。
上記2枚の写真は玉に陰影が生じており、球体であることがはっきりと解りますが、オーブと称される玉はあまり玉に陰影が見られません。 俗に言われる【オーブ】は私自身も何枚もの写真に撮ってはいます。霊媒質者であれば比較的に撮りやすいと言えます。

思念とは【喜怒哀楽】の思いとか念で、この世に【残留】しているとなります。この世での出来事を恨んでいると、【思念】が生じて来るのです。
人も霊も想いを持つことから、生きているのです。
 
霊の世界で想いを捨てれば、それは魂の死です
仏教の【無】を何も無い【空】だと捉えてしまうと、大きな間違いに入ります。それだと魂も神も存在しなくなるのです。色即是空、空即是色、受想行識というように【識】という物事を知る【思惟】が意味を持つのです。

実際に現れた霊に願いを聞くと、何々を叶えてくださいと言われたりします。その願いを聞き届けてあげると、満足して消えて行くがあります。思念(死ねん)で生きていたわけです。それらは霊能者でも魂と間違いやすい事柄と言えます。

念は【今の心】。その生きた時の今の心が消えるまで生きる

よく古戦場や戦場で戦っている兵士の霊が見られるがあります。それはその時、戦うことに必死であった心の念が時代をいくら経過しようと現れて来るからです。非業の死を遂げた霊とか自殺した霊は浮かばれないとされますが、その時の【今の心】が消えないと成仏させるなどは非常に困難と言えます。そうした念が強いと、魂も浮かばれないのです。
そこに来るのが仏教で説かれる【執着】から離れよです。

 
下記の写真の玉は「オーブ」に分類されるかと思われます。ゴミやチリや水滴等も写真では似たような写り方をしますが、この写真はゴミやチリの類いとは別なのです。写真的には見えませんが、ある大身の神霊が元の大きな写真には写り込んでいるのです。それを言い当てることが出来たら一流の霊能者の方で、何人かの霊能者の答えが一致しているものです。 オーブ写真はさほど珍しいものではありませんので、そのオーブそのものが誰かなどの詮索などする必要も無いものと言えます。某霊山にて。
 

この写真のオーブも上記写真と同様のものと解ります。



下記の写真は私が雨の日に【雨】を撮影したものです。オーブ玉と同様であることは解りますが、【霊】の字に「雨」の字が入る要素ともなるのです。ただ、こうしたオーブ玉は【魂たる玉】ではないのです。

 
雨の日には、こうしたものが天に向かって上がっているなのです。内部に光があるのですが、現実界では光として捉えることは出来ません。人間の目は節穴になっているからです。

同様の霊的な玉として一種の【気】ではないかと思われるものがあります。境港の鬼太郎ロードの目玉おやじの像からですが、被写体の人物と撮影者の両名が霊媒体質者だったからでしょう。誰でも撮れるとはならないのです。

 
こうした丸い気玉のようなものは、少し見難いのですが下記の【香取神宮】の写真の中央部にも写っています。非常に神気が強い神社等に行きますと、写真に写り込むものなのです。写真の縮小の関係で屋根は波打ったように見えます。この撮影は私です。だからと言って、それを神霊扱いするのはどうかとなります。

 
下記の写真は心霊パワースポットで全国的に知られるスピリチュアルのメッカの某神社の御神木で、ビデオからのものです。二つの色が違った玉が見られます。神社の屋根の下には小さなオーブ玉も見られますが、神木などには「気」が見られます。樹(木)には「気」が宿るものなのです。

 
この玉が動いているのをビデオで撮影して、かってインターネット上で出しましたが、解ろうとする人は皆無だったと言えます。写真は証拠になるのですが、霊が見えたとか声が聞こえただけでは証拠としては弱いと言えます。

 

上記写真と同様の存在が【光の玉】として飛んでいます。飛ぶスピードが高速なのでシャッターの関係で連続して写るのです。日本神道系では魂は【光の玉】とも説かれますが、下記の写真は玉(球)が光を持っているが端緒に解るものです。写真は提供していただいたものです。



 

しかし、こうした写真の存在は目視上ではほとんど見えません。ラップ音がなっている場所を写真に撮ると、意外に「オーブ」写真は写ります。それはこの世と一般霊界は共存しているからです。

 
【玉思惟(魂】の思惟とは「しい」とも「しゆい」とも読みます。仏教用語で、心を集中させて対象を分別すること。すなわち、深く考えること。思考することです。 哲学で思惟は、感覚、知覚以外の認識作用。分析、総合、推理、判断などの精神作用を言います。
 
すなわち【意識を持った玉】が【魂(玉思惟)】です
 
意識の意は【音(言葉)の心】で、日本語の並びのアイウエオ・イロハ・ヒフミ等の言霊を祝詞とするのはその為なのです。
 
一方、【思念】は心に思うことや考えることでは同じですが、思惟の様に【深く考える】洞察作用ではなくて、【喜怒哀楽】に作用されることで【私怨(しねん)】を生じたりさせるのです。 仏教においては【この世の執着から離れる】が説かれましたが、「喜怒哀楽」に支配されると【仏陀】の様には成れないなのです。
 
この世に起きる出来事一つ一つに【深く考える】でなければ、【魂磨き】にはつながりません。
そこに、この世は【魂の修学場】としての価値があるのです。
 
私は子供の頃、旧約聖書の神と名乗る声から、【この世に起きる出来事は思慮深く見つめて、その要因を探りなさい】と告げられましたが、ニュースは非常に勉強になるのです。バラエティーばかり見ているのでは、魂磨きにはつながりません。
私はいくら霊が見えても会話が出来ても、そこに洞察力がなければ、いくら神社に参拝しても魂の点数は上がらないと言っているのです。
ここに参って来い。ここに参って来いと言う神霊が自分の魂の点数を上げてくれる存在とは行かないからです。そうした神霊が人に私が説いているようなことなど語りもしないでしょう。
お釈迦様やイエスが霊界でも非常に高い方であったというのは、【識界レベル】が高かったからです。
 
自分の魂の点数を上げるのは、自分の修学しかないのです
 
自分が楽しければそれでよい、自分さえ良ければそれで好い。そうした行為で、どれだけ魂に修学が出来たのか?。霊界に帰ってそれが問われるのです。

 

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