第××項 魂を磨くは、創造神と他の神霊達とではとらえ方が違う
優れた霊能者は【この世は魂の修業場】と言います
これは、私達の魂は本来は別の世界に存在していて、この世には「魂の修行」の為に来ている説です。で、この世での命を終えたら霊界に帰るです。
厳しい方だと、【この世は魂の刑務所・流刑地】とまで言われます。確かに、人が輪廻転生でこの世に来るのは、自分の魂に欠点があり「更生」の余地があるからです。更生の為に「甦り(黄泉帰り)」をします。
黄泉(よみ)の国(地下)に墜ちた魂は
魂の更生の為に、後世の世に甦(更生)り
スピリチュアル等では、自分は何万回も生まれ代わったと誇らしげに言う方が見受けられますが、ならば貴方は「失格者」と言えるのです。お釈迦様は自分は二度とこの世には生まれ出ないと言われ、その後継者として弥勒菩薩を言われたとされておりますが、弥勒菩薩と呼ばれる存在が仏教に取り入れられたのはお釈迦様の死後のことであることは現在の学問では解っています。
私は大本教神諭予告【九つ花】を紐解いて、それが【みろくと五六億七千万】を秘めていることに気がついて、歴史的あり得ないことがまるで本当にあったかのように作為されたのは【祇園精舎の御守護神】の【牛頭天王】によるものだと解って来ました。
祇園精舎の御守護神は牛頭天王 大本教は節分の炒り豆の【牛虎】金神
お釈迦様やイエスなどは通常の神々よりも高い霊界の存在で、人類に教えをする為に出られた存在で「黄泉帰り」の存在とはしませんが、一般的に霊能者として霊力が非常に強い方にはこの「黄泉帰り」の方が多いと言えます。
お釈迦様やイエスが、自分は神霊が見えるとか会話出来ると誇ったでしょうか?。霊的なことではなく、【人としての在り方】を説いて来られたのです
宗教とは、人の胸(宗)に存在するものを教える
大本教の出口王仁三郎聖師は【この世は天人の苗床】と述べておられます。日本神道では人民のことを【青人草】と言います。人類は創造神から見れば如何なる青人草で何の苗?。
日本では人は【米】の苗
西洋では人は【麦】の苗
この世で【魂の更生が出来れば】天人界にと入ります。どの説も間違いではないのです。どの説も当たってはいるのです。
私が子供の頃に私に臨んだ旧約聖書の神と名乗る声は、【そなたの前世は悲劇の武将であった。そなたはあまりにも人が良くて人を疑わず、他人の「魂胆」を見抜くことが出来ずに、そうした者達にいいように利用されて最終的には悲劇の主となった。そなたの今世における修業は他人の「魂胆」を見抜く為の修業である】と告げられました。
それある意味悲しいことです。人を疑わず暮らせるならばそれが一番です。しかし、それは天人界でも行けば誰も疑わなくてもすみますが、この世は天人世界ではなく「魂の修学」の場であり、天人世界に届かない魂が輪廻転生で修行を続け、また地獄界から赦されて出て来ていても、その魂の元来の性質が何度生まれ代わっても更生されずに、他人を妬み恨み、おかしなプライドばかりを持ち、一向に自分自身を見直そうとしない人(魂)達かがいます。
私は【捻れた魂】の存在を見ましたが、捻れた魂とは【魂の汚れではなく、おかしなおかしなプライド、自信過剰】等がその魂を捻らせます。前世からの因果では無く、今生の【今の心】が魂を捻らせるのです。それを知るにはその人の【魂胆】を見るとなります。
私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と称する声は、【人は死んでは生まれ出て来る。生まれて死んで、生まれて死んでの繰り返しである。人が自分の前世を覚えていないのは、前世の失敗を引きずらない為であり、この神の恩寵(神の慈愛)である。過去の自分が神霊として祀られていることを知らずに、その神霊を崇めて祀ることもある】と言われます。
そして、
人がこの世に出て来るのは、魂の世界からすると【修学旅行】に来ているようなものである。その修学先で「何を学んで」で霊界に帰って来るか?。この世に出て、何も学ばずに霊界に帰って来るであれば、何の為に「この世」に出たのかとなると言われます。
が、人の前世はまったく出て来ないのかとなりますと見える場合も存在しました。但し、霊能者で人の前世が全て言い当てられるかとなった時、それはかなり「嘘」があると言わざるえません。一つに、人には他の霊の憑依があります。この霊の憑依を見抜けずに、その憑依霊をその人の前世にしてしまわれる霊能者の方も多々見られます。また、他の霊の意識の流入も前世と間違われる一つです。どれほど評判の霊能者でも、全て当たっているとは言えないのです。
私は自分の前世が長く解りませんでしたが、その前世を知ることが出来ました。だが、霊能者でそれを言い当てられた方は未だ存在はしていません。私にそれが解ったのは自分の【正守護神】が出て来たからです。
私は霊能者をしていませんので、人の前世に関しては解りませんが、必要があると思われた時だけ、私の守護神からその方の前世を見せて貰えるがありました。ただ、むやみに見せるのではなくて、その前世に犯した罪により起きている重大な【カルマ】があった場合だけです。
人は自己の【前世】を調べる必要はありません。何故ならば今の貴方は【過去の前世】を全て引き継いでいるからです。その前世で犯した罪は全て【カルマ】で存在し、今の世でその【カルマ】を消しているからです。
大切なことは、今の世で将来に残す【悪しきカルマ】の種を残す行為はしてはいけないのです。
この世は【魂の修学の場】で、死後は霊界に帰る
魂の本籍は霊界なれども、この世は魂の旅の宿泊所
仮に貴方の魂の本籍が第3天国界で、目指すのが第2天国界であれば、この世に出てその修学の結果で上の界にと進めるなのです。それはこの世が魂の修学の場であり、その【修学の結果】だからです。だが、その旅先で何かを起こしてしまいますと、地獄界にも落とされるのです。修学の落第です。
されど、地獄に墜ちた魂も永遠に地獄界ではなく、この世に出して「魂の更生」をすることによって、天国界の門も開くなのです。為に「地獄界」もあり、地獄界など無いと言うのは見聞不足と言えます。だが、これまでは【永遠の地獄界】は存在しなかったのです。
最後の審判以後に、【永遠の地獄界】が起きて来るのです。現状の地獄界は「輪廻転生」のチャンスがあるなのです。
正神界は、魂を磨く為に【この世での修学】を語り
邪神界は、魂を磨く為の【この世での修学】をさせないようにする
日本神道には審神(サニワ)と呼ばれるものがあります。この審神(サニワ)をする為には、あらゆる知識が必要です。そうでないと、邪神が邪神であることを見破れません。その為に、邪神はその神が見せる世界、語る世界だけが絶対的世界だと思わせる必要があり、他から別の知識を得ることを非常に嫌うのです。自分達が見せる物以外は、【見ざる、言わざる、聞かざる】をさせるのです。
自分の魂を磨くとは、古来から先人訓として言われて来たことです。スピリチュアルを標榜する女性の中には「魂磨きは辛いから止めましょう」の言葉が出て来ます。この手の女性は元々魔女系で魔界からこの世に赦されて出て来たような魂が多いので、どうしても魂を磨くことよりも魔女的な奇跡力に目が行きます。
そうした魂の持ち主が帰って行く霊界とは魔界なので、自分の魂を磨いて【高天原(天人界)】を目指されているわけではないと言えるでしょう。
一方、霊的修業に修業を重ねて行くのが【神仙界】とされています。まさに、神の様な仙人達の世界です。一般に天人達が住む【高天原】よりも、神仙界は高い世界とされます。
しかし、豊受姫の御代をされていた私の最初の師匠は、【神仙界】には行かないようにと注意を受けました。一度神仙界に入ると、モウ二度と高天原には戻れなくなるからと告げられました。
霊界に帰ってからも、まだ修行に修行を続けている神仙界では、仲間達との楽しく語らい暮らす世界ではないからです。何事も自分が一番と競う世界ですから、為に終わりがない修業に日々明け暮れるなのです。そんな世界が理想郷かなのです。
神仙界は高天原よりも上でも、修行に修行の孤独の世界
私が説いているのは「天人界」に進む為の道です。
聖書で【神の御国】とされる世界は別名【分かちの国】と言います。住民同士で何物もかも分かち合う精神世界で、【実に穏やかで平安の心の世界】と言えます。その世界の【宝】とは、住民の一人一人の心であり、各自が【良心】を【心の宝】として備えているのです。博愛の精神はその良心の中に含まれます。別物ではありません。
一方、金銀財宝で輝いている宮殿があるような世界も存在します。しかし、その入り口には大きな蛇が陣取り、俺達の宝玉を持って行くなと威嚇して来ます。金銀財宝に目が眩むよう人は、その世界を目指せばいいのです。金銀財宝に囲まれていても孤独な世界がいいのであれば、そうした世界もあるということです。
国常立尊様は元は創造神でありながら、反国常立尊派から「邪神」の汚名を着せられて表舞台から退かざる得なかった神とされます。そして【鬼門の金神】と呼ばれて来たです。
しかし、この仕組は道理で考えればかなりおかしいのです。今の世に出ておられる神々は若い神霊達で、超太古の国常立尊との接点があるのかとなります。今の世は【神代七代】とされる世です。だが、国常立尊の名が出て来るのは【神代初代】です。
鬼門の金神は、創造神の作為か?
私達の半永遠の命である【魂】は【鬼が云う】となっています。一部の人達は魂は永遠だと叫ばれますが、現実には魂も腐ったり捻れたりしている魂が存在し来ます。腐った魂は仏教系では【ダニキ天】に食されるとなっています。元に戻すことが出来ないほどの捻れた魂は、霊能者の間では破砕されるとします。
私の最初の師匠は豊受姫の御代さんでしたが、私に【鬼門の艮金神】など存在していない。見たこともない。人が勝手に作り上げたものと言います。つまり、豊受姫はそう言っておられるとなります。その師匠自身は子供の頃、大本教の少年少女体に所属しており、出口王仁三郎聖師を見たことがある方でした。
私はそれを聞いた時、鬼門の金神とは「陰陽道」が作り上げたものなのですが、大本教では鬼門の【艮(ウシトラ)金神・国常立尊】と大宣伝して来ました。これは【国常立尊】その方が創り上げた神の舞台の仕組だと断定が出来ました。その答えは、腐った人の魂を食べるとされるダキニ天の存在にあるのです。
私は子供の頃、旧約聖書の神と名乗る声から次のようなことを告げられました。【この神が見せる神の芝居の筋書きは、この私以外の神達は知らない。また、神の舞台に上がらせるそなた達役者もその筋書きを知らない。そなたはそうした舞台の筋書きを知らずに最終幕まで演じなければならない。舞台の幕が降りた時、この私の神の舞台の筋書きは神々にも人民にも解る。その時、神々も人民もこの私が演出した舞台に大拍手となるであろう】と言われます。
その舞台は、ダキニ天が本当は誰なのかが解らないと、この答えは出せません。そしてそのヒントは大本教霊界物語の大江山の【鬼獄】稲荷にあるのですが、おそらくそのことは私以外の方には紐解けない仕組だったと言えます。
大本教霊界物語に、【国常立尊様の世の大立替に、白狐は下郎(稲荷)の役で奉仕する】があります。私は最初、これは伏見稲荷山の白狐達のことかと思っておりましたが、豊受姫は伏見稲荷山の稲荷神の半分は反国常立尊派だと言われます。するとそれは伏見稲荷山の白狐達ではないなのです。大本教霊界物語を読まないと、解らないようになっているのです。
これは国常立尊の壮大な構想の下に練り上げられた仕組と言えます。
世に出ておられる神々の魂を磨くは、魂の表面に付着する【チリやホコリの類いを祓う】ことだと思っておられる節があります。で、この神の元に参拝して来れば、そのチリやホコリを祓って進ぜようです。日本神道で使用する【大麻(祓串)】がそれです。皆さんが神社で受ける祓いの儀式です。
魂の表面に付着するチリやホコリを祓えば、磨かれた魂???
実に異な言葉です。面白いのですが、私は神社の神主ではなくて霊界の神主から祓串の修祓をいろいろと受けて来ました。特に霊界の伊勢神宮においては、私の魂が宇治橋に飛んで橋の上で正座をして、霊界の伊勢神宮の神主姿の霊から同じ時間に一週間に渡り祓串による修祓を受けました。その後に万体にも及ぶであろう絢爛豪華な大神霊行列を見せて貰いました。実にきらびやかなものでしたが、私に伊勢神宮の威力を見せる為だったのでしょう。
単に自分の前に伊勢神宮の天照大御神が出て来られたではないのです。大神霊行列を伴っていたのです。
私の2番目の師匠の御祭神は「国常立尊」と称しておられました。私は最初は別に疑ってはいなかったのですが、いくら表舞台から退かれたとされる国常立尊様であっても、その部下霊があまりにも少ないなのです。何万体とか何十万体とまでは言いませんが、主立った幹部でも何十体何百体と並んで出て来ないのではおかしいと疑いを持ちました。
私が鍾馗神の御案内で盤古大神に拝謁した時、数千霊に及ぶ将軍霊達。そして宮殿の外には何万という兵士霊が見えたからです。それに引き替え、自称創造神と名乗る方達の背後は数十体とか数百体程度です。それでは本物ではないとなります。
魂の表面にチリやホコリの汚れがこびりつくと、その表面には【毛物】が出て来ます。そうなると、魂の【獣】化が起きる可能性が強くなります。それをさせなければ魂の表面は汚れません。しかし、それをもって美しい玉・磨かれた玉ではないのです。
魂の表面をいくら磨いても、魂の中味が腐っていたり汚れていれば、どうやって磨くのですか?。
魂は鉱物ではなくて、中味は生ものなのです。 だから、魂が腐るも起きるのです。
魂の表面に汚れがつかないと、【素直】な玉とはなります。
しかし、素直は神を疑わないので邪神に簡単に欺されるなのです。特にプライドが高い人ほどやられてしまいます。プライドそのものが「ホコリ」の類いなのです。
魂を磨くとは、この世は魂の修学の場であり、修学なのです
人はこの世の修学において、本当の【善悪】の意味を学ぶ
この世の多くの人と交わって、多くの人の思いを知ることなのです
私は魂に点数が出るのを見て来ました。それは私以外にもそうした現象を見てこられた方はありました。
単に魂に汚れがないのは【プラマイ0】であって、それ以下でもそれ以上でもないのです。神社に参拝したからと言って、魂の点数は上がりません。例え、神社に参拝していなくても、世の為人の為にと働いて来た人の魂とは磨かれていて逆に高得点が出るのです。天国上界行きはそうした人達に多いのです。
それはこの世は魂の修学の場であり、よく【修学】を治めたからです。だから、世の為に人の為に尽くした方は死後に第2天国界等に進む様な人が出て来ます。菩薩クラスの天人となるのです。さすがに第1天国界ともなると、如来界なので知識が必要となるので勉学しないと難しくはなります。
生前は、なまじ神様神様とやっていた方は、死後の霊界でそれほど高い世界には行けません。単に神霊に告げられたことだけを素直に信じて何も考えようとはしなかった。自分の思考能力を発揮しなかったからです。
この世は天人界からも地獄界からの魂も混じって暮らしますので、魂の学びの場としては最高の場所なのです。善人は悪人達から悪を学び、悪人は善人達から善を学ぶを得るのです。
私は常に泥を被ったことがないエンジェル等は使い物にならないと言います。魂の表面が汚れていないだけでは、そうした泥を被ったことがないエンジェルと同じなのです。それでは箱入り息子、箱入り娘で終わってしまうのです。親元(神の園)を離れて、私達が学ばなければいけなかったことは何かなのです。
人はこの世の「艱難辛苦」を体験することで、その魂に【色】が出ます。その色によって、魂が放つ光がいろんな模様を写し出します。そうした魂の美しい物を神界は【瑠璃玉】と呼びます。但し、これは石の「ラピスラズリ」のことではありません。
本当の神界は人の心が「宝玉」であって、鉱物の石で着飾るではないからです
続く


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