日本神話の中の【天の岩戸開け】とは、岡本天明氏の日月神示で語られました【一(イ)八(ワ)十(ト)】開けで、そこには百八十度ひっくり返す。クルリとどんでん返しにする意味が秘められています。世の大立替とも説かれます上下の峠だけでなく神の上下を示す「裃」ともなります。
おそらく、日月神示において天の岩戸開けが【一八十(イワト)】開けだと告げられますまで、誰一人として天の岩戸開けに「百八十」度転回の意味があるなど、世に出ておられ神々でさえ気づかれておられなかったでしょう。
ただ、多くの神霊世界に関わった方が語られます【真性天照大御神(男神)】の登場ということは、その全てをひっくり返す時期が同じだと言うことなのです。
この天の岩戸開けの【一八十度】返しとは、意外なことにも共通しているのです。ほとんどの日本人は「仏教徒」なので、仏教の教えとして【六道輪廻】の教えを知ります。知りますと言っても、言葉としては聞いたことがある程度で、その「六道輪廻」の中味まで深く理解しているではなかったはずです。
その六道輪廻の中でもっとも知られるのは【貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)】の「三毒」の言葉です。仏教のお葬式の時など、この「貪・瞋・癡(とん・じん・ち)」とは幾度も僧侶の口から出て来るでしょう。
六道そのものは、それ以前は五道で語られていたように六道であることに特別に意味などありません。厳とした区分けが見当たらないからです。
では、仏教で説かれる【六道輪廻図】を出します。これは一般的に【六道輪廻図】として出されている手のものです。
私達は各自の【三毒】によって、「天道」「人間道」「修羅道」【餓鬼道」「畜生道」「地獄道」の【六道】の何れかに生まれ出ると説かれるものです。そしてその「因」となる要素として「十二の因縁」があるとされることです。
仏教ではこの【六道輪廻】から脱して、その上界とされる「声聞界」「縁覚界」「菩薩界」「仏界」の四界を合わせて「十界」を説くのですが、日本では日本の神々より仏界の仏が神界の神よりも上位と言う誤った考え方が生じたのは、この【六道】の「天」が原因と言えるかも知れません。
外国から入ってきた仏教思想の天の神と日本の神は同じ「天人」たる神と見たわけです。そうでなければ、日本古来の神に仏教界から大菩薩等の称号を贈るなどの行為がなされなかったと考えられるからです。
神の世界であろうと仏の世界であろうと、大本教の出口王仁三郎聖師が説かれた神霊世界は「一八十」階級。行者の世界で説かれる神の高山【十合】説で個々の神霊の段階を見ていかないと、如来や菩薩や明王等と名乗って出て来る霊の名乗りだけでは、その神霊の力がどれほどだか解らないからです。
私が修業時代に不動明王と一体化している御婦人が、私がある方のお祭りに持参した御神酒に対して、どこの馬の骨か解らぬ者(私のこと)が持参して来たまずい酒など飲めるかと私に毒づいて、何と失礼な人だと思っておりましたが。それはその御婦人の口を借りた不動明王が私に毒づいたしだいです。
その言葉を聞いた豊受の神が、「不動明王が如き分際でどなたに対して大きな口を叩いているのだ」と、その不動明王と一体化しているその御婦人諸共金縛りにされる事件がありましたが、先日その不動明王はどこのどなただったのかと、そのご婦人がその不動明王を祭る為に建立されたお塚を見て来ましたところ「成田山不動明王」として祭られていました。
その時の不動明王が成田山の不動明王系だと解って、なるほどそれであの御婦人を不動尊行者達が拝んでいたのかと?。変な納得もしました。
いくら成田山不動明王でも、神の高山の三合目とか四合目当たりの不動明王では話にはならないということなのです。いくら如来や菩薩や明王だと名乗っていても、非常に限定された力しか保有していない如来や菩薩や明王が存在して来るからです。そんな中で、いくら「声聞界」「縁覚界」「菩薩界」「仏界」だと言っても、出て来られる如来や菩薩や明王を見ていると、今もそんな構図を出して論じることそのものがナンセンスとなります。
仏教で説く【三毒】は諸悪の根源
①貪(とん)=むさぼる。飽くことを知らずに物を欲しがる
今+貝(財)=財欲に溺れることですが、我愛(我よし者)も「貪(とん)」に入るのです。
動物に例える時は「豚」となります。食い意地ばかり走って限度をわきまえないでブクブク太る者は豚と言うのと同じ事です。
②瞋(じん)=怒りの心、怒りで一杯になった目、目を見張る
目+眞(真)
これは「諦」の漢字があきらめるではなく、言葉で明らかにする意味であるのと同様に、真(眞)理に向かわない目は「毒」のことなのです。何故ならば、この瞋は動物に比較する時には「蛇」とされているからです。蛇の目は常に真理への道を閉ざすからです。
③癡(ち)=真理に対する無知の心のことです
疑+病
無知と言うのは知らないの意味の無知ではなくて、疑問を持って物事を考えないことが無知なのです。霊的に見えたからと言って、その霊の言葉を頭から信じるでは「癡の者」です。古今東西。霊が「真理」を語ったなどないでしょう。夢夢疑うことなかれでなくて、疑って疑って疑ってかかる必要があるのです。
人がこの世を去って霊的世界に入って蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊や鳥霊等に【身替える】を起こす。そこに仏教で古来より説かれて来た【貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)】の「三毒」が働いている。それらは決して古い教えではなくて「真理」に基づいた教えと言えるのです。
私は自分が少しばかり神霊世界を歩いて来たから言えることですが、私の前に「ミカエル」だとか「ガブリエル」とか名乗って出て来る霊などは捕縛した方がいいかと見ています。そんな名乗りをする霊は驚くほど無知だからです。
スピリチュアルなどは、まず【疑う】をしません。疑うことをしない病に犯されているのです。ですから霊的「痴呆症」となるのです。スピリチュアル系で論理が説ける者が居ないのは、そうした「無知者」として自分が踊っているからです。
この疑うことを知らない病に犯された者は「鳥」をあてがいます。本当の天使に羽根などはありません。羽根の意味の間違いを犯した鳥たちです。
私は大本教神諭が予告した【九つ花に咲く一輪の言霊の火水(秘密)】に基づいて、【ラ(羅)神論による輪廻転生】を説いて来ました。
誰も日本語と呼ばれる言葉で、【五十六億七千万】の仕組みでお釈迦様の悟りを告げる【みろく神】が出て来るなど、言葉的には想像を絶する仕組みになっていると思いも付かないことでした。
その【九つ花】で【六道】を考えると、まったく別の【六道】が出て来ます
そこにあるのは、お釈迦様は【この世は苦(9)界】と説かれました。
この世の【苦(9)】は、天で【禄(6)】になるなのです
私は【太極図】を見た時、最初は「陰陽」の玉の感覚しか持っておりませんでした。しかし、日本語で6を言う時は「六」であり、9を言う時は「九」ですので、6と9が【一八十】度回転に気づかなかったと言えます。
6と9は、霊学の数学としては逆転しているなのです。
天国は【禄(6)】の世界であり、地獄は【苦(9)】の世界です
大本教神諭は【九つ花に咲く一輪の言霊の経綸】を予告しましたが、大本教の出口王仁三郎聖師はそれを紐解くはされませんでした。また、現在の大本教がその重大性を何一つ認識していないもあります。
それではこの世の「9」が
天の「6」と咲く身【禄】になることも
理解出来ないとなります
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