日本の神智学では「人」のことを【霊(ひ)止(と)】と言います。その人たる肉体に【霊(ヒ)】を【止めて】いる存在の意味です。すなわち人の霊止は【霊魂の容器】の意味なのです。肉体はその霊魂の【服】と言えます。
一般的に節分の夜、多くの神社仏閣では【鬼は外、福は内】と唱えます。が、明治25年に発祥した大本教では【鬼は内、福は内】と説き、多くの人がそれを?、奇異に感じました。何故に「鬼が内」なのかです。
大本教からウシトラ(牛虎)金神「国常立尊」が世に出された時、多くの知識人が大本教は綾部藩主であった九鬼神道の【宇志採羅(ウシトラ)根真】をパクったと見ました。この綾部藩九鬼家(紀州熊野本宮別当)で藩は【鬼は内、福は外】だったのです。鬼と云う魂は肉体の内であり、魂の服たる肉体は外とも言えます。
この【霊止(ひと)】の言葉は大本教霊学から出されましたが、スピリチュアルだと西洋神智学ばかりに憧れて、日本語が持つ言葉の意味がまったく理解出来ていないとなります。ですから、創造神たる神の理解がなされていません。
西洋の神智学では日本語と違って、言葉からそうしたことを基本として学べませんので、そんな論理すら出て来ないのです。
私が霊界修行に入って間もない頃、就寝しようとして寝床に入ると、男の方の声で歌が聞こえて来ます。
【私の人形はよい人形。見かけはどの神様の人形よりも悪くても、私の心を受け継ぐよい人形。私の人形はよい人形】と童謡の「人形」の様な節回しで歌って来たのです。
そして私の目に見えたのは私が人形のようになった状態で、180度ぐるぐる回されている映像でした。私はその声の主の【人形】にしか過ぎないなのです。魂にとって「人の形」は肉体が死ねば終わりです。その後は本来の霊魂となるのです。
だが、私がその声の主の【人形】であったとしても、その【人形】にも自我と呼ばれる存在があり悲しみも苦しみも喜びも味わうのです。魂の服にも自我たる心があるのです。
これを仏教的に言いますと、物質的人間に存在するのは人形たる【自我】であり、その人形を動かしている存在が【本我】とか【真我】と呼ばれるのです。ですから自我を捨てないと、本我とか真我には至らないのです。これを理解していないと、いくら【神人合一】と叫んでも、違う霊魂の容器となりかねません。動物霊の容器と成り下がった人の姿の人間です。
この理論は仏教が優れている面なのですが、日本の僧侶でそうしたことを説けた者が居るかとなると居なかったなのです。ですから小難しい仏教論を振り回すになってしまったとも言えます。
新神道において【神人合一】が出て来ましたが、それも言うならば仏教の自我から去って、自分の本我、真我に至るのと同じ意味合いなのです。そこに出て来るのが自己の魂の本体たる正守護神、本守護神であり、単に守護神とする信仰神とは異にします。霊の存在を知る意味合いでは、新神道の方が理解しやすいがあります。
スピリチュアルで天使だハイヤーセルフだと言っているでは、何も理解出来ていないなのです。
私が子供の頃に臨んだ旧約聖書の神と名乗る声は、【そなたにはボロ服(外見が人より劣った肉体)を着させる。されど、そなたには私の心を授けた。そなたの価値を外見で判断する者はそれだけの者でしかない。外見のそなたではなく、そなたの心が解るような者でないと、この私を見ることが出来ない】と告げられたのです。
それはイエスが説いた【私を見て父を見よ】ではないのです。イエスを見て、父たる神を知るなど不可能な論理です。どれだけ肉体に神力があろうとも、「父」と呼ばれる様な存在とは魂が月とスッポンほど違います。それでは魂の規模が解らないのです。肉体を見てその存在を見ることなど出来ないのです。不可能な論理なのです。
ただ、その「心」は共通しているのです。イエスの私を見よでは、その外見を見させている為に神が実に小さき存在となってしまうのです。
私は私の前に出て来たイエスの様な霊に対して、それが本物であったのかニセ者であったかは解りませんが、私はその霊に【あなたは道を間違えた】と告げました。
私が霊界修行の中で、ある神霊から聞かされたのは【あなた様は天帝が使用出来る肉体として育成されている存在で、貴方の肉体を諸神が使うことは出来ないようになっています】と言われます。
私が2番目の師匠のところに居た時、その師匠の為に働く霊媒者不足で、私に霊媒が出来ないかと私の肉体に霊の卸しを試みたのですが、ことごとく失敗しました。霊を私に懸けて口を切らせるが出来ないのです。諸神・諸霊の段階では私の肉体を支配出来ないなのです。
私はその当時、その師匠から歩く【浄霊マシン】と名付けられましたが、私の肉体に懸かった霊達を浄化浄霊してしまうので、霊媒者の様に霊を懸けてその霊の意思を言葉として聞くことが根本的に勤まらないのです。要するに霊能者としては失格でした。
私達の肉体とは、「一つの魂と多数の霊」との集合意識から成り立っています。一つの肉体に二つの魂が入っていると「精神分裂」ともなります。また複数の強烈な霊に肉体が支配されると「多重人格」も起こしかねません。それらは希なケースであり、大多数の人の肉体には一つの魂を持ちます。
その魂以外に、その魂や肉体を守護している霊が存在して来ます。それらは守護霊とか先祖霊とか背後霊とか憑依霊とか各種の呼び方がなされていますが、外から来るので【外在神】となります。
それに対して正守護神とか本守護神は自己の魂の元となりますので【内在神】とも成って来ます。
そうした外から懸かって来る霊がどのくらいの数かとなりますと、神霊の取次をしている方や神霊的世界に関わっている方ともなれば万単位から数千体とか数百体ともされますが、そうした霊の関わりが少ない方だと6~7体だの説もあります。だが、ゼロはあり得ないのです。ある方は霊感者からゼロだと言われたと言われましたが、そんな霊感者は霊能者ではないのです。
人が霊を見るのは、自分に懸かっている霊を通して霊を見ているのです。だが、それが霊能者だからと言って、全ての霊が見えているではないのです。そんなものが全て見えていたら、人として暮らせるものではないのです。
霊そのものは霊に憑依とされることから見るのであって、霊的な物が見えるだけでは憑依している存在が低いと、正しいものを見ているではないのです。
実存の人に霊(0)を掛ければ、0(霊)の世界に入る
こうした「言葉と数学」で説明が出来ることは幾度も述べて来ましたが、それすら無視続けるであれば、天からの救いの道は閉ざされます。自分では天国に案内されていると思っても地獄に御案内ともなりかねないのです。
スピリチュアルで宇宙司令官から、宇宙連合とか宇宙評議会からのメッセージとされるものは各種出て来て予言されましたが、今日まで何一つ当たった試しもありません。その手のブログは1~2年で大多数は消えてしまいます。デタラメのメッセージに気づく日が必ず訪れるからです。
それらは宇宙司令官でもなければ宇宙連合評議会の議長でもないからです。霊の言葉に操られて自分が踊らされただけのことなのです。
霊界からのデタラメのメッセージが許されているのは
【嘘を叩いて誠の骨とする】天の仕組み上からです
そうした霊の存在の証拠立てとして、多数の霊が憑依している為に精神不安定の方が居られます。そうした方に憑依している霊を一体一体を剥がして行くと、その人の本当の魂が出て来ます。
精神分裂とか多重人格などの精神症状は、人が【霊止】であることから起きて来る問題でもあるからです。
だが、それらを霊能者が解決できるかとなると出来ません。何故ならば、神霊と呼ばれる立場の存在であっても、その魂の【過去世の罪(因縁・カルマの業)】を取り除くことはかなり困難で時間がかかるからです。
スピと呼ばれるセミナーなどにいくら参加しても何の解決にもなりません。カルマを消すのは本人の神に対する信仰心や罪の償いたる行動によってのみ解消されるからです。自己努力が要るのです。スピを催している御本人が外から来る霊の憑依だけで、霊学の無知から脱却出来ていないからです。
人が悪業をするのは悪業を喜ぶ霊に憑依されているからであり、人の魂の本来の姿は【完全無欠】のものだと言う考え方が存在します。論理的にはそうなのですが、だからと言って自分が犯した罪は全てそうした悪業霊の仕業によってしたことであって、自分には何の罪も咎も無いとはなりません。自分の魂を磨いておけば、そうした悪業霊に憑依されなかったからです。また人の魂には「良心」神と呼ばれる存在が天から賦与されているからです。自己に良心神があれば、その罪を逃げようとはしないでしょう。
人は自己の中に【良心神】を確立しておけば、常に悔い改めに入れるからです
そこに、自分の魂を磨かなかった罪。悔い改めしょうとしなかった罪が発生するのです。仏教用語になりますが、良心を備えないと自己の魂の本我・真我に到達出来ないのです。
つまり自分の本我・真我を出すには、人は【霊止】であるが故に、自己に憑依して来る霊を祓いに祓い、清めに清めて行かなければならないのです。神社に言って祓い串で祓ってもらえれば、微細なチリやホコリ的な存在の霊は祓えますが、カルマまで解消できるではないのです。前世の罪が消えるではないのです。
祓いたまえ、清めたまえで、神主にお祓いしてもらえば全て解決はないのです
自己に【良心神】が働いて来ると低級霊は懸からなくなります。またスピリチュアルと呼ばれる低級霊界との関わりからも遠ざかります。自分はスピリチュアルと言うバカげた事に惚けていたと解って来ます。それよりも真面目に働こうです。
スピのセミナーに大金や時間をかけているよりも、実際の神社に参拝している方がまだ霊的チリやホコリの類いは祓えるので有意義なのです。
さらに自己の魂が向上して行くと、もはや神社や仏閣に鎮座される神霊は絶対神でないことも理解出来て来ます。本我・真我の中に創造神の存在を実感して来るなのです。
聖書の【神は、汝と共にあり】だからです
聖書では【偶像信仰】を禁止しています。それは、偶像も人と同様に【霊止】であり、偶像には霊が宿っているからです。私達の肉体が魂の「人形」であるのと同様に、偶像も霊の宿り木・依り代の人形となるからです。
実際に仏像を見ていて、そこに本当は何が宿っているのか解るような方は非常に優れた一部の霊能者の方ぐらいで、一般的なスピ霊感では自分が何を拝しているのか解らないのです。ですから、そこに偶像禁止が説かれて来たのです。
人は偶像化出来ても、創造神は偶像化出来ず
イエスは偶像禁止を言ったと思われますが、キリスト教牧師によって自分自身が偶像信仰対象にされてしまったと言えます。お釈迦様も同様なのです。
人は誰でも霊が見えるではありません。普通の私達の目には見えない霊の存在を説く為には、人の目には見えた形の【偶像】も必要があったとは言えます。
私は【言葉】とは何かと知った時、それまでの神観は「百八十」度吹っ飛んでしまいました。もはや神社仏閣ですら、私の信仰対象ではなくなりました。私の前では既存の神々も単なる霊でしかありません。そこにあったのは
神は言葉なり(言葉によって命は芽生えた)
信仰は、人は言を仰ぎ見よ
神は(言葉)で【示し申す】存在
そこに出て来たのは【言葉の仕組み】と言えます
日本神道は曲がりなりにも、言葉を霊の依り代とするお札を出します。それらの神名は言葉の働きの意味であって、個々の存在の霊を意味しているのではないのです。
霊に「礼(れい)」を持って拝するは必要ですが、その霊とは別に創造神を意味するではないのです。
聖書における偶像禁止。それが何故だったのかは【魂】論に入っていれば、それらの点は線として繋がっていたと解ることなのです。
にほんブログ村
この内容がよければ、応援のクリックをお願いします。