人に内在する良心神(神言会)

神は言葉なりき。言葉は言霊で構成され、その言霊による神の仕組みを解説する神言会(kamikotokai.com)のプログです。
神言会では人に内在する良心神(この世の閻魔)とは何かを説明しています。

悪も時には潤滑油で、許される悪と許されざる悪。自己本位や弱者を虐げるは赦さざれる悪

悪の字は「亞」の心であり、「亞」の字には王(主の神)や司令官を亡き者として墓に葬った意味があります。主の神とは唯一神のことではありますが、私は大本教神諭が予告した「九つ花」を紐説いて出した、お釈迦様の悟りであった人に内在する「良心」神をも意味します。
私達は自己の魂の中に存在する「良心神(主の分魂)」を墓に葬ってしまうと、どうして「悪」の中に入り込みます。ですから、自己の良心神を失う行為を【悪】と言うのです。悪は「愛」を失うではないのです。愛だけを神の概念とすると、まるで道理すら解っていない者となってしまうのです。

しかしながら、私達はこの世を生きて行く為には良心神の働きである「善」のみで生きていけないことを学びます。時には自分の良心を捨てなければ生きていけないなのです。
生きて行くのに必死であれば、人は時には創造たる神の存在も忘れ、良心を失ってしまうこともあります。それは決して責められるものではないのです。この世に生を受けたならば、この世で生きることが第一義だからです。
人はこの世の苦しみに負けて「自殺」することは罪であることは、どの霊能者も語るのはそれは第一の「義」に入るからです。

もしも善だけを主張すれば、他の命ある物を食して生きる行為そのものまで否定されなければなりません。
西洋人が唱える愛とは非常に奇妙で、牛や羊の肉は喰らっても鯨の肉は喰うな。鯨が哺乳類であるのが理由ならば、牛や羊だって哺乳類なのです。事の道理を考えない間違った愛を言う人が世には多いのです。西洋人の場合はそこには白人優越主義等が見られますが、白人世界が考えた主義が正しい神の論理ではないのです。

ですから平気で黒人を人間と見ずに奴隷化し、また肌の色が黒いと差別します。その黒人奴隷商人の先兵となったのが一部のキリスト教の宣教師達でした。神の名を語る人の顔をした獣達の行為です。それは歴史が証明しています。
大本教の出口王仁三郎聖師は「地獄を覗けば牧師や僧侶で一杯だ」と書き残されましたが、神や仏の名を語った者達の卑劣な行為は地獄にしか行けないのです。神を説く者が必ずしも善人とは言えないのです。

日本ではキリスト教を国教として入れさせない為に鎖国制度が実施されましたが、鎖国制度以前に日本人も日本に来た西洋人の宣教師によって奴隷としてブラジルで売られていた記録がブラジルの裁判所で見つかりました。西洋人宣教師に欺されて異国に連れて行かれて売られたのでしょう。
もしも日本にキリスト教を入れていれば、日本も西洋の植民地化されたかも知れないのです。中国におけるアヘン戦争もその一端でした、これは「不義の戦争」と呼ばれています。英国に「義」など無かったからです。これも歴史の証明です。
このアヘン戦争が日本でも知られて「吉田松陰や佐久間象山」等の志士により国体を江戸幕府体制から明治維新への変革の一翼となったわけです。

人が人を奴隷化する。それは良心を失った者達の行為です。

旧約聖書にユダヤ人だけが神の選民で、他の諸国民を奴隷化するような記述がありますが、それらは自分に神が降りた式の預言者の言葉であり、その預言者に本当に神が降りていたのかどうか実は疑わしいのです。それは後の預言者が前の預言者の言葉を疑わしいと述べていることからも解ります。
巷には、自分には天使長ミカエルがガブリエルが降りて来る式の霊感女子が後を立たずに花盛りですが、霊界を見聞すれば蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊だらけの中で、それが本物だと言う証拠はどこにもないのです。

幸いこの日本では蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊も神霊として祀られますので、そうした存在があることは理解しやすいのです。しかしながら一神教の世界では、蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊の存在が説かれていない為に、霊感者に何が降りているのかの吟味がまるでされておらず、そんな存在の言葉すら預言者によって創造神からの言葉式になったきらいがあるのです。

基本的にどこかの民族が神の選民だとしても、それ以外の民を奴隷化するなどは本当の創造神の言葉でないことぐらい自分に「良心」神があれば解ることなのです。


そうした間違った預言者達による行為を正当化させているのがイスラエルと言う国家です。もしもユダヤ人に神は「良心だ!」の意識が少しでもあれば、どうしてあれだけパレスチナの人に無茶な行為が出来るでしょうか?。同じ神を抱くのであれば仲良く出来るのが本当だからです。

【人は言葉や肌の色は違っても、胸(宗)を開けば皆同じ】
 宗教の宣伝使達は、その宗(胸)の教えを間違えているのです


私が2番目の師匠の元に居た時、私の元に立派な羊の姿をしたものが幾体かやって来ました。その名乗りは3000年ほど前のユダヤ民族の族長であったヤコブとかヨハネと名乗る羊の姿をした者達でした。
彼らは霊界に渡って、霊界からイエスの登場を見たとも言います。だがイエスの登場でユダヤ民族は救われなかった。事実です。それから二千年。初めて目にする「緑光」を放つ魂に、もしかしてこの人は旧約聖書に預言されている方ではないかと思い、皆で揃って私を訪ねて来たと言います。
これまでにも緑色の光を放つ魂の人は何人か出て来られたが、それらの方の緑光とは違っており、イエスが出していた魂の光ともまるで違う。イエスが出していた光と同じ方はこれまで幾人かおられた。貴方は初めて見る緑色の光を放つ魂の持ち主だったからと言うことでした。

私は子供の頃に私に臨んだ声から「私は旧約聖書」の神との名乗りを受けておりますが、旧約聖書は暗号書の様なもので表面通り読むとその意味を間違えると聞かされているので、本気で読んでいなかったのです。
その旧約聖書の神と名乗る声は、「そなたが本当は何者なのかは、それは神々に解らないようにしてある。そなたも自分が誰だかを知らない。されど、そうであってもそなたが誰か解らぬ神であれば、その神は使い物にはならない」と告げられたのです。
自分が持つ魂の色とは隠しようがないものです。しかし、誰でもその魂の色が見えるではないのです。逆に自分の魂の色を見せびらかしていると、強い力を持った邪悪な霊に取り込まれてしまうにもなるのです。

私はその「羊の姿」に注目したのです。当然、それは蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊などとは意味が違うのです。

羊の言とは「譱(善)」です

それは善(譱)だけでは天国には行けないなのです。世の中にはくそ真面目だけが取り柄のような善人がおられます。そうした人は「悪」を何一つされようとしません。しかし、その反面非常に小心なのです。それは神の罰が怖いから悪事をしないなのです。それでは魂に成長が見られません。

私は常々言っています。

泥水をすすったことがない「エンジェル」など使い物にならないです。私は私の前にエンジェルなど出て来ても可愛い可愛いなどはしません。私はそんなエンジェルならば泥池の中に叩き込んでやります。糞まみれ、泥まみれになって来いです。エンジェルから脱皮しろです。


人の苦しみ、悲しみ、涙などは自分が体験して来ないと解らないからです


私が子供の頃に臨んだ旧約聖書の神と名乗る声は、「そなたは社会の底辺を便所のウジ虫のごとく這ってでも【人の心の在り方】に関して学べ」と命じられました。

ですから、言葉の道として社会の底辺を「這」ったのです。

私は根っからの悪党ではありません。だが、「悪」をしたことなど一度も無いとは言いません。軽い法律違反の行為もしています。だが、今生では自分がした悪と善とを天秤にかければ善が遙かに上回っています。時に悪もしたけれども、それ以上の善もしたなのです。
私は自分が悪的なこともした人間なので、悪人だからと言ってそれを強烈に批判するだけの資質は持ちません。どうして他の人を批判出来るかです。



巷ではいろんな事件が起きます。そうした時、些細な事件であってもそれが有名人であればすぐに「バッシング」にいく人達が後を絶ちません。その「バッシング」する人達は、貴方に人を「バッシング」するだけの善行があるのかです。そんな人ほどその魂は汚れていたりするのです。まず、起きた出来事を学びとして自分を反省せよなのです。他の人の悪が自分を育てくれるのです。
だからと言って、私は悪を無条件で赦すなどの考えも持ちません。自分が犯した罪分だけは、キチンとその償いをする。支払いをするです。


ですから「悔い改めなさい」を説くのです。悔い改めて、自分の罪の償いをする。神の愛で何をしても赦されると説くのは、その言葉を信じた者達を地獄に叩き落とすことにしかならないからです。

悪には殺人や強盗や強姦などの凶悪があります。こうした悪は誰しも許されざる悪と心得るでしょう。

キリスト教で言われる十戒とは、カトリックとプロテスタントとで少し違いがありますが。

①主のみを唯一の神であると認めること。
②偶像を造って拝してはいけない
③神の名をみだりに唱えてはいけない(口に出して神の名を言うではない)
④安息日を守りなさい(働くだけでなく休むことも大切)
⑤父母を敬いなさい
⑥人を殺してはいけない
⑦姦淫をしてはいけない(姦淫は不倫を含む)
⑧盗んではいけない(強盗・泥棒をするな)
⑨偽証してはいけない(正直者でありなさい)
⑩隣人の財を欲してはいけない(他の人の幸福を妬んではいけない)

カトリックの場合は、姦淫してはいけないと隣人の妻を欲してはいけないと2つに別れてありますが、【不倫は文化】などの論理は唯一神には一切通じません。
②と③に関して言えば、貴方の魂の中にある天帝の分魂である良心神に対して、貴方はそれを偶像として拝みますか?。また自分の良心神に対して、みだりにその名を口に出して言いますか?。なのです。
神名を唱えるだけでは【お題目主義】から抜けきれないのです。

自分の口に出してみだりに神名を言わなくても、主の神は私達人の魂の良心神として【汝と共にあり】なのです。人が自己の良心に従って進むのであれば、【人は神の子・神の宮】なのです。

ただ、こうした【戒律】を守っただけでは【天国門】は開かないなのです。何故ならばそこにある「十戒」などは、人としては当たり前のことだからです。

聖書と違い「仏教」では【五戒】が説かれます。
①不殺生(ふせっしょう)戒 人を殺すなだけでなく、命ある物を殺すな
②不妄語(ふもうご)戒 嘘をついていけない
③不偸盗(ふちゅうとう)戒 他の人の物を盗むな・泥棒をするな
④不邪淫(ふじゃいん)戒 聖書では姦淫。性を乱すな。不倫はするな
⑤不飲酒(ふおんじゅ)戒 酒を飲んではならない

不倫は他の人の物(妻・夫)を盗むと不邪淫が重なってしまいます。また人は生きて行く為に他の命ある魚とか鶏肉とか食べることまで禁じられていません。また、酒を飲んでもいけないはないのです。現実に僧侶達はお酒を【般若湯】と称して飲んでいます。酒は飲み過ぎなければ【百薬の長】でもあるのです。
つまりお釈迦様が本当にそんなことを説かれたかどうかは別として、宗教はもっと【道理】に沿って物事を見ることが要求されるのです。古い文章に書かれているからと、後生大事にしても意味はないのです。



【水清ければ魚棲まず】のことわざがあります

水道水は一見すると綺麗に見えます。だがその水をコップに汲んで電解すれば、コップの上にはオラオラが大量に出て来ます。それらは不純物であっても「ミネラル」なのです。もしそのミネラルが無ければ水を飲んでも人はやがて死滅します。魚もそこには棲めない水だからです。
そうした不純物を取り除いた水は「純水」と呼ばれていますが、人の飲料には適しません。工業用の精密機械の洗浄などに使われるわけです。純水で洗うとは機械を動かす「潤滑油」の部分まで洗い落としてしまうのです。

悪も人の魂を育てる「ミネラル」の要素であり

時には人の間をギスギスさせない潤滑油なのです

自分は過去世で罪を犯しました。それを恥じて「悔い改める」ならば、その悪はその魂を育てる栄養素でもあったのです。

悪は切り払うよりも、自己の魂に取り入れて良心で魂の栄養素にした方ほど魂は大きく成長したのです。


私は小心の善よりも、悪の大悟が勝ると言うのはそこにあります。

人は誰しも創造神は【正義の権化】だと思いたいし、そうだと信じたいのです。だが、この世のどこに正義があるのだ。悪ばかりが栄えていると憤る方もあるでしょう。
石川五右衛門の句とされるのは、「浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きまじ」ですが、悪の種は尽きることなどはないのです。
ですが、悪が栄えているから【創造神】が存在しないではないのです。悪に魂を育てさせるです。



悪には悔い改めれば即座に赦される悪と、償いをしなければ赦されない悪が存在して来ます。その悪によって、被害者をどれほど苦しめたかです。ですから、殺人罪などは大きな罪となります。
また、弱者を虐めて自殺に追いやったなどは、この世では罪に問われなくても霊的世界では罪人と見なされます。
自己本位とか我れよしの者などは、神の裁き以前に自分で自分の魂を破砕する方向に向かって行くのです。それを救うとすれば、本人がどれほど神に対しての信仰心や感謝心を持っていたかになるのです。

自分は目には見えないが大宇宙・大自然を支配する万物の創造神によって生かされている。その存在に対しての感謝。自分を生かしてくれている命ある存在に感謝。自分1人では何も出来ない造れない。他の人達の協力があって生きていられる。それらに対すして感謝するであれば、貴方自身が変わっていけるのです。


 

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