人に内在する良心神(神言会)

神は言葉なりき。言葉は言霊で構成され、その言霊による神の仕組みを解説する神言会(kamikotokai.com)のプログです。
神言会では人に内在する良心神(この世の閻魔)とは何かを説明しています。

人(霊止)は一体の霊魂の意識に非ず。幾つもの霊の意識が集約される

よく人の字は「支え合う」ことだと説かれます。それとは別に人は霊的には「霊止」とされています。
この「霊(ひ)止(と)」の概念は最初に大本教から出たようで、それ以前にはそうした概念があったのかどうかは定かではありません。
大本教から出された「霊(ひ)止(と)」は、【人(霊止)は霊魂の容器】だと言うことなのです。ですから霊魂にとって【肉体を離れることは霊魂の死では無く】、霊的世界(あの世)に渡って生き続けるなのです。
 
私は【魂】とは【玉型の思惟(意識)】だと述べて来ました。

私は魂は「玉思惟」だとしていますが、スピリチュアル系の人によっては「玉思惟」ではなくて「玉恣意」だと言われる方もあります。
では、「思惟」と「恣意」ではどう違うのかとなります。
 
思惟は「考えること。思考」で、仏教では「対象を心に浮かべてよく考えること。また、浄土の荘厳を明らかに見ること」となっています。

恣意は「自分の思うままに振る舞う心。気ままな考え」のことです。
スピリチュアル系で自分の好き勝手で何をしてもいいのですよ。貴方の「あるがまま」で良いのですと説くのは、こちらの「恣意」なのです。魂を「玉恣意」と考えれば、そうした意味合いに成ります。
 
それに対して明治25年に発祥した大本教は、一貫して「我れよし」は行けない。自分勝手はいけないと批判して来たのは、魂を「玉恣意」とさせない為です。
そして大本教は「節分の炒り豆で追われている【牛頭虎パンツ】の鬼達を「ウシトラ金神国常立尊」としたのは、そこに「牛虎」の「魂」論があったからと言えます。


【玉思惟】と【玉恣意】では、目指す道が違っているのです

人のことを【霊止】と書くことを初めて世に明らかにされたのは、大本教からとなりますが、それ以前のお釈迦様やイエスは人は「霊止(ひと)」であることは何一つ明らかにされていません。それはそこまで詳しいことを御存知無かったとも言えます。そしてもう一つは、日本語の特性です。


霊止(ひと)=人(ひと)は日本語でないと説けきれない


現在のスピリチュアルバカとなっている霊感女子では無い本当の霊能者と言える人達の間では、既に人は「霊止」であることはほぼ理解されています。人は「霊止」であるが故に「憑依」も生じるからです。
私達人類は自分が一つの「意識」から成り立っていると錯覚しています。それは大変な錯覚の中にあったなのです。

人(霊止)は、一体の魂と複数の霊の意識が集合化された存在なのです

私が2番目の師匠の元で2階の道場の祭壇で祝詞を上げていると、その師匠は階下に居てそこに霊媒者が居ると、2階から聞こえる祝詞を上げる私の声に対して、今あの者に懸かって祝詞を上げて居る者は誰だと常にサニワ(審神)をしていました。
私は自分が祝詞を上げていると思っておりましたが、そうではなくて私の肉体に懸かっている霊が私の口を通じて祝詞を上げている。その祝詞を上げている霊が日々違っているでした。つまり、私は自分だと思っていても、私の肉体に懸かっている霊の行動だと言うことなのです。
確かにそれは私自身解ったことがあります。ある時、私は私の母に向かって突然に叱ったことがあります。その時、その叱っているのは私では無くて「不動明王」だと解りました。その声は常の私の声ではなくて、太い声でした。私は母はその声を聞いて、それが私では無いと感じたと言います。私は自分の感情では無い感情に支配されたなのです。そうしたことを「入神」とか「憑依」と言います。
 
この「憑依」は霊媒者に霊を降ろしてしまいますと、その人ではなくて、別の人格がその肉体を完全に支配していきます。世間で言われる蛇憑き狐憑きなどは、蛇霊や狐霊がその人を完全に乗っ取ってしまうのです。それは人が「霊止」であるが故なのです。
優秀な霊媒者ほど、この霊による完全の乗っ取りが起きます。しかし、高い神霊をその肉体に降ろせる霊媒者ともなれば、数的には多く居られません。

 
大本教と呼ばれる宗教が起きた時、その神旗は【九曜紋】でした。後に【十曜紋】に変更されたのですが、その理由は「神界の都合」により変更で、何の解説もなされずに今日まで来ています。
この九曜紋とは「九つの星」のことで、通常は「太陽(日)、月、火星、水星、木星、金星、土星」に「羅睺、計都」の九星です。占星術や易学で使用される星ですが、「羅睺と計都」は実在はしない星です。
 
私が霊的に見せられたものは、私は私であり一つの自分が存在するのだとばかり思っておりましたがそうではなくて、私と他に八体の神の合計【九体】の神の「総合意識」の元で成り立っているのが肉体の私であるということだったのです。その中心には私の本体たる正守護神が居るなのです。

大本教で世に出した「九曜紋」。



私にはその真ん中に居るのは私の「正守護神」であることは解るのですが、他の八柱の神がいったい誰なのか?。何を語っているのかよく意味が解りませんでした。
私自身の修業に入った当初の頃、自分の肉体に付帯している御神霊は約六千体からの神に及ぶと聞いています。それに従う眷族等を含めてしまいますと、とんでもない数字になってしまいます。その八体の一体一体が「言霊」神かとも思いましたが、それもあり得るのでしょうが、神の働きを意味する神だと捉えると少しは意味が解ります。



大本教が世に出したウシトラ金神とは、綾部藩の殿様「九鬼(くかみ)神道家」の宇志採羅根真。

【九つの魂(鬼と云う)】九鬼(かみ)
*注意 九鬼神道における本来の鬼の字は、上部の点がない漢字。
 
【神人合一】論で自己の正守護神と合一させることは新神道系ではかなり説かれてはいますが、スピリチュアル的なことに走ってしまいますと正守護神が出て来るのではなくて、副守護神と呼ばれる存在が自己の肉体を支配して、動物霊的な存在に欺されて拝み奉るに入ってしまうのです。こうなると「あるがまま」とか「愛」しか言えなくなるのです。
 
私は【人に内在する良心神】を説いていますので、そこには「儒教」で説かれます人の守るべきものとして【五常】の【仁・義・礼・智・信】が含まれます。良心なので、当然に【仁・義・礼・智、信】を持たないといけないわけです。
 
仁は 他の人を思いやること。人は一人では生きられないのです。
義は 私欲にとらわれず、損得では無く人として為すべきことを為す
礼は 仁とか義を行動に移すこと。礼を尽くす。感謝して頭を下げられる。
智は 道理や知識を学び知ること。この逆がスピリチュアルで学ぼうとしない。
信は 真実を告げる。約束を違えない。信頼を得る者となる。
これらは自分の中に「良心神」が発動していないと、なかなか為しえないのです。
 
それだけだと「五つの玉」なのです。そこに滝沢馬琴が書いた「里見八犬伝」の中の「忠・孝・悌」が入るのです。
忠は 主君(真ん中の柱たる心=創造神、主柱神)に誠を尽くす
孝は 自分の親や先祖に孝行を尽くす。延いては究極の先祖の唯一神に孝行。
悌は 兄弟の意味だけで無く、目上の人や年長者の知恵や意見に従う。
 
何故に五つの玉ではダメで八つ玉なのかと言いますと、そこに【八紘一宇】の思想が無いとダメなのです。この「八紘一宇」を言いますと、必ず唯物主義者達は戦争につながる「右翼思想」だと攻撃して来られます。「八紘一宇」は戦前の強烈な「日蓮主義者」であった「田中智学」が持ち出して、太平洋戦争のスローガンに使われたからです。アジアは日本の兄弟だ。一つの屋根の下だ。そうした観念から侵略に入ったからです。
が、元々は日本書紀にある言葉で、【世界を一つの家にする】という意味合いで、明治に出た大本教神諭に世界を一つに丸めて治めるとあるように、天地を結ぶ8つの方位とか玉の存在を意味するのです。
私はその「八紘一宇」の屋根(八根)形は【米】型と言っているのです。

学者は神が見せる霊的世界が見えませんので、必ず誤った解釈に入ります。私は豊受の神に見せられた物。伊邪那岐尊から見せられた物に基づいて、この「八紘一宇」の解釈に入ったわけです。
 
で、そこに何故に「里見八犬伝」を持って来たのかと言いますと、大本教神諭に「大の字逆さま」という不思議な内容があります。だが、大本教神典にそれが解説された物が見当たらないのです。
私がそれに関して見せられたのは「犬の逆立ち」でした。犬の逆立ち?。それがどうして大の字逆さま?。大の字の右上に点を打ったのが「犬」。逆に左下に点をすれば「太一の太」です。太一は宇宙の真柱神を意味しています。今の世は創造神を神と仰がずに人間が神より偉いと思っている逆さまの世なのです。
で、犬が「お家再興」に走るのが「里見八犬伝」となります。
 
私は子供の頃、旧約聖書の神と名乗る声から、【この国(日本)は私の教えで満ちあふれた世界で唯一つの国であり、私の教えは日本昔話や日本の童歌や日本の物語に秘めた】と告げられました。その中には「里見八犬伝」も入っていると考えられるのです。

 
人には自己の魂の中に「正守護神」か、あるいは「副守護神」が存在し、他に背後霊守護霊等と言われている先祖霊とか指導霊とか動物霊とかのみらず、愉快霊とか浮遊霊などの未成仏霊等を含めて憑依霊として付随して一体化しています。これらの諸霊は私達の肉体が【修行】を積むことによって、自己の霊界での地位を高めることが出来ます。
 

人は自分一人に非ず。自分が努力することで多くの霊をも上がらせてもいるのです

肉体の修行とは、自己の本体たる正副守護神のみならず、自分に懸かっている霊と一緒に修業しているのです。

それらの霊の総合した【意識】が、私達の【意識】として自分を支配するのです。

この人に付随する霊体は何体かと言いますと、人によって【千差万別」と言えます。私の元にメールをくださったある方は、その方の背後に居る霊は「八千体」だとその方を支配する霊から言われたと言っておられましたが、私の最初の師匠はその師匠を見た某霊場の管長さんから、この方には「一万五千体」の霊が付随していると言われておりました。霊能者をしている方ですとかなりの霊の数になります。
ある霊能者の方は自分には「三千体」の霊が付随していると言っておられましたが、そうした霊によって霊界を見ているのです。優秀な霊能者はその方に従っている霊の数が一般の人とは完全に違うのです。

無論、そうしたことは自分に付帯憑依する霊の数ではなくて、その質が高いか低いかが重要なのです。いくら霊の数だけ増やしても烏合の衆の集まりになってしまうからです。

人には最低「六体」の霊が憑いていると言う説がありますが、自分は霊能者から一体も居ないと言われたと言う方がありました。それはその霊能者と言う方がかなりおかしいのです。本物と言える霊能者段階では無いと言うことなのです。本人が霊能者だと言っていても霊的世界はピンキリです。人に憑いている霊を全て見るなどはかなり難しい作業なのです。
人にはそうして無数の霊が付随しているのに貴方の「前世」等と言っているのは、まったく意味を理解していないとなります。重要なことは前世云々ではなくて自分に付随している霊達の影響力の方が強いからです。

ある不良少年を霊視したある霊能者が、その不良の原因になっている霊を背後霊から外したところ、その少年は劇的に変化して更生したがあります。人の背後の居て、その人に障害になっている霊を除去した方がよいわけです。それは人は「霊止」だからです。この子は悪いと言ってその前世を云々しても意味が無いわけです。
だがそれがカルマから生じている場合は、外してもカルマが解消出来ないのでそのままに行かせるとなります。
 
神は愛だから何をしても赦されるのですと説く者の背後に必ず邪神が存在するのも、人は「霊止」であって、それらの霊の影響を受けてしまうからです。
 
自分の魂を向上させるには、仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌の働きを示すことは非常に重要なのです

 
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