私は伏見稲荷大社講社で4年間神霊世界を垣間見て来て私の腹から出た声に従って、稲荷大神首座神の豊受様の元を離れて言霊師の師匠を2番目の師匠としてその言霊師の方といた時、突然に私に大本教開祖「出口なお」さんが見えたかと思うと、私の体に火の玉の様なものが背中に入って来て、私はアッチチです。背中が火傷しそうなほど熱いのです。
私がアッチチとやっているので驚いたその師匠がどうしたと言われるので、私に大本教開祖出口なおさんが懸かったと言うと、その師匠は【お前がごとき者に出口開祖の様な高いミタマが降りるはずがない。サニワ(審神)をしてやる】で、側に居た霊媒者通しに入ったのです。
その霊媒者を通して大本教開祖出口なおさんと思われる霊が発した言葉は「大本教はまな板の鯉。その鯉をどう料理するかは料理人の腕次第」と言われたのです。
その霊媒者の口から発せられた「大本教はまな板の鯉。その鯉をどう料理するかは料理人の腕次第」を横で聞いていた私に次に見えて来たのは「回教徒の宣伝使姿をした大本教の出口王仁三郎聖師」。また私の背中に火の玉でアッチチ。
出口なお開祖と思われる霊と会話していたその師匠が「今度はどうした」と聞かれるので、「今度は出口王仁三郎聖師」と告げると、「何!」です。すぐさま霊媒者に転送して会話をしていて、間違いなくこれは「出口王仁三郎聖師の霊だ!」。
私はその師匠と出口王仁三郎聖師の会話の内容は聞かずに、「大本教はまな板の鯉?。鯉をどう料理するかは料理人の腕次第?」と「回教(イスラム教)」と大本教をどう結びつけるのだろうか?。そればかりを考えていました。
【五月五日の鯉】に【アラーの神】をまな板の上で鯉料理?
私は大本教と言うまな板の「鯉」を料理して、「ラ神」と言う結論を導き出した次第です。無論、それには大本教開祖「出口なお」さんや「出口王仁三郎聖師」さんが私の前に出て来てくださったことが要因で、その最大の事柄は私が「五月五日」の鍾馗神の案内で盤古大神に拝謁したことです。
鍾馗神の「馗」は「九方に通じる道の九の道」です。それと大本教神諭予告「九つ花」と何か関係するのだろうか?。大本教が出した「東北金神」は「みちのく」です。東北を「道の九」とすれば、鍾馗神の「九の道」と同じ意味合いになります。
それが「鍾馗神」であることは、最初の師匠が私の母親に豊受様からの伝達として、息子さんの元に「鍾馗神」が行かれましたと連絡をいただいたことからも確かなのです。で、この仕組みの解読をされるはないとしても、豊受神も一枚噛んでおられたわけです。
日本における「五月五日」の端午の節句とは、江戸時代は「鍾馗人形」でした。最近は鍾馗神に代わって「源義経」人形になって来ています。
私が鍾馗神の案内で盤古大神に拝謁して、大本教霊界物語の「大政奉還」に首を捻っていた時、私の家の浴室の前に大きな「漢字」と書かれた浴衣を着用された出口王仁三郎聖師霊が立たれたことです。【漢字(中国語)の変換(返還)】に気づきです。
そして大本教神典と大本教による神の「型芝居」が、私が子供の頃に臨まれた旧約聖書の神と名乗る声が告げられた「どの神も私の筋書きを知らない」の筋書き(シナリオ)読みにと入ったわけです。
そして、私が見せられたのは「五月五日」の鯉が登って「龍」と化すでした。俗に「登龍門」と呼ばれる言葉があります。これは中国の故事、「黄河を登る鯉は龍と化す」から来ている言葉です。日本では縁起物として「鯉の瀧登り」が描かれのですが、本来は黄河を登る鯉は龍と化すなのです。だが私に出て来たのは「五月五日」の鯉のぼりだったのです。
一般的に知られる龍神とは聖書に記載される「霊界の年老いた蛇霊」のことで、霊界で約3000年の修業をした存在とされるものが大部分と言えます。大本教の出口王仁三郎聖師は霊界で龍神と呼ばれてるものの90数%は蛇霊だと記されています。
私は本当の「龍」が何かと知った時、大変なことを気づかされたのです。世界の宗教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のみならず仏教や日本神道ですら気づいていなかった事柄と言えます。
それが表に出ないままに、【言葉は神であった】は理解出来ないのです。日本では【言霊】が言われていますが、誰もそれを具体的に解説していないのです。
無論、私の2番目の師匠であった方は【言霊師】であり、その事柄は解って居られましたが、解っているだけであってそれで語るところまでには行っていなかったのです。
鍾馗神とは「科挙(かきょう)」試験に落ちて自殺した存在とされています。この科挙とは「科目による選挙」を略した言葉です。自分が生まれた家柄とかではなく、公正な試験によって中国で官吏を登用する試験のことです。有能な人材の発掘です。この科挙の試験が「登龍門」とされます。
私が「鯉」の字から導き出したのは右辺の「里」の字です。その田の土から育って立つのが米としての「粒」です。
日本で言う「狸(タヌキ)」霊とは、別に動物の「狸」のことではありません。田から実る物が神の「宝(田から)」であり、そのタカラを「タ」抜きの「殻(空)」にした意味が狸だということは、一部の霊能者達は既に知っていることなのです。
私が見せられた光景に、みろく丸に黄金色の稲穂が山ほど積み込まれて、三途川を意味する港から、新しい世界にみろく丸たる船が出て行くがありました。米(稲穂)として実った者達は新しい未来の世に進むです。
だが、当時は稲穂に「稲荷」しか浮かばず、「米」教には辿り着けていませんでした。米と稲荷の教えは「瓜」二つ。狐の字に「瓜」がある?。狐って何だ?。でした。
五月五日は【粽(米の宗教)の節句】
米として立つが、神の「宝」たる者であり、みろく世に出世する(登龍門)
日本語は【ア門~ラ】まで【みの尾張の41】のアラーの神
もはや偶然では片付けられない「まな板の上の鯉」の大本教
蛇霊とは別に「爬虫類」の蛇のことではないのです。怨念とか執念とか金権的な事柄に走ると「蛇」霊となって行く。全て狼(良心を失って獣と化す)のマツゲで見える姿の話なのです。そうした基本論が解っていないスピリチュアルなど何の意味もないのです。
無論、私も偉そうなことは言えません。私自身は「牛」にされていた時代が長くありました。私自身【牛頭】の時代があったからです。お釈迦様でもその前世には船乗りの時代があり安酒場で酒に酔って人を殺して「猿」にされた時があるという話しもありますので、誰しもそうした誤る時かあっても不思議ではないのです。どれだけ【悔い改めた】かです。
一部の神通力者の方で私が「ウシトラ金神国常立尊」その方だと言われる方がありますが、確かに牛頭ではありましたが「国常立尊」その方ではなくて、「若牛」とか「牛若」とか呼ばれる「口」です。
米教は「みろく世」における「登龍門」の教えでもあるのです。米教は難しいからと逃げた人達は、それは「科挙」の試験を受けることを断念したようなものなのです。
私は大本教と言う戦前の大宗教をまな板の鯉として料理して見せましたが、単に自分に天使長ミカエルがカブリエルが「メッセージ」を送って来るでは、それを本人が何も疑わずに本物だと思っているだけであって何の確証も無い物を間違って出し、多くの人々を惑わした罪は非常に重大なことになります。閻魔庁としても見過ごすことは出来なくなります。
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