私が子供の頃、「旧約聖書の神」と名乗る声が臨んでいました。その声は、「私は今の世の幕を引き、嬉し嬉しの永遠の未来の世を創る」と言われたのです。子供心にも途方もないことを言われると聞いておりました。ただ、それはこの地球での話ではなくて、この地球とまったく瓜二つの同型の「宇宙船」だと言われたのです。
私も成人して神霊世界に関わるようになって、その内容は大本教が世に宣伝をした「みろく世に到る大立替論」のことであることが解りました。ただ、大本教からは「新しい地球」の存在は何一つ説かれませんでしたが、一部の霊能者やサイキッカーと称する方達からもその新しい地球の話は聞きますので、絶対にあり得ないとは言えないかと思っています。しかし、通常のスピリチュアルだとそうした話は何一つ出て来ないでしょう。
それは平行宇宙論ではないのです。創造神はその日の為に「バックアップ地球」を用意されていたと言う、とてつもない話なのです。ただ、その話をされる方達は三次元界からは見えないと言うのが一致した意見かと思われます。次元が違うなのです。ですから今の肉体のままでは行けないとなります。為に「魂(鬼が云う)」論から出して行かないと話が解りにくくなるのです。
仮にその話が事実だとすると、創造神はこの宇宙創成の段階で既にそうした事態が来ることを予測されていたともなります。実に恐ろしき存在と言わなければなりません。
今日までの世界の宗教の歴史上、節分の炒り豆で追われた「鬼が云う(魂)」が表に出て来たのは「大本教」以外にはありませんので、どうしても大本教の型演技を見て行かなければなりません。
スピリチュアルで自分に○○霊が降りて来るでは、新しい世に向かう時には取り残されかねません。そうした霊は「立替」そのものを言わないはずです。仕組みそのものが何たるかも解っていないのです。
霊界と呼ばれる世界が解っている方は、皆さんこの世には何の未練もないでしょうし、早く霊界に帰りたいが本音かも知れません。それが理解出来ていないと、この世に執着してしまうことになります。
私の最初の師匠など、この世でどんなに苦しくても惨めでもたかだか50年程度。それよりもそうした苦労を乗り切って霊界に帰って神様にして貰う方がどれだけ幸せか!。と言っていましたが、今ではそうしたことを言える人はほとんど居ないでしょう。
今度が最後の「天人」とか「神」となる道で、取り残されたならばモウ「天人」にも「神」にも成れません。
新しい地球に関しては聖書のヨハネの黙示録に既に予告されていることですが、実際問題として私達はそれほどの力を持った存在の神というものは見ていません。
私は霊的光景としてはモーゼが紅海を渡る時に航海を割った力が何であったかを見させられましたが、実際にその現場に居た者ではないのでその霊的光景だけではそれが真実とは言いがたいがあります。
されど、私はその霊的光景を見た時、それが実際に起きたことだとすると、それはスピリチュアルで神は「光」だ!とか「愛」だ!と言っているような話ではないのです。
自分の前にモーゼ霊が現れたと言うのであれば、その紅海を割ったのが如何なる力であったか、その様をモーゼ霊につぶさに聞いてみればいいのです。そうしたことを何も聞かないで、自分にモーゼ霊が降りて来たでは話にもなりません。霊と会話が出来るのならば具体的に聞けです。
モーゼは【紅海(こうかい)】を渡り
イエスは悔い改めよと【後悔】を迫り
大本教神諭は「この神は北を上にする」で【航海】を告げ
私は新地球への航海を【米型で羅針】を教えられた
ラ神を知らずして、宇宙への旅など出来ない

私自身は何の力も与えられている者ではないので、正直言って私も「新しい地球」に関して推し量ることも出来ません。
ただ、日本語だけにしても言葉の仕組みを見た時、これがどれほど大変なことかと言えば、それは今日までの神社や仏閣に鎮まっておられる御神霊の段階では不可能だとは言えるのです。私も多少は神霊世界に関わり、御神霊達の奇跡の数々は拝見して来ましたが、日本人が使う言葉の数々で仕組みを創るなどは、そうした奇跡力の段階ではないからです。それは桁違いも桁違いの神力が無いと出来ないからです。
その旧約聖書の神と称する声が私に告げられた内容に、【新しい世で上に行く為には、今の世では誰よりも人の下座に座りなさい。未来の世に向かって下座に座る競争ぞ!。今の世で上に行きたい者は上に行かせてやればよい。今の世で下座に居た者ほど上の世界にと行ける。それは新しい世は百八十度ひっくり返した世だから】でした。
世の大立替論から見ますと、百八十度の意味が「一(い)八(わ)十(と)」の一八十(180)であることは既に日月神示で明らかにされていることですが、誰もそこに【言葉の仕組み】という概念が無かった為に、ほとんど「イワト」の意味が理解されていなかったと言えます。
上と下を「一八十度」で返すから、これも「峠」の意味ともなるのです。
他の人より下に座す行のことを「下座行」と言います
人は誰でも他の人より上に行きたいと願って、学びも努力もします。今の世で出世したいと思っても何の不思議もないのです。かえって怠けて遊んでいれば、そうした人達の様な良い環境や暮らしに恵まれることもありません。逆に劣悪の環境に置かれてしまうのです。
イエスが言った【幸いなるかな貧乏人】などはどこにもないのです。逆に貧しさ故に犯罪者と成るのが現実なのです。貧しい国ほど殺人や強盗や泥棒が出るのです。神が言われる【下座行】とは自分が貧乏人に成ることではないのです。
この「下座行」とは、自分は偉い者だとか優れた者だと思わずに、世の中からいくら低い者と思われていても、それに何等不平不満を言わずにやり抜くことです。そこに出て来るのは他人に対する優しさと感謝と謙虚さなのです。
ただ人によっては、「下座行」の意味を力の強い者(長い物)には逆らわず巻かれて、下に居ることだと思われる方達もあろうかと思います。そうした意味でもないのです。自分より能力が劣った者達が自分より上に座っていても、それに耐えるといことなのです。地位などは気にしないなのです。あんな程度の奴が自分より上かと思えば腹も立ちますし、怒りも起きて来るでしょう。
みろくの世が開けたならば、ひっくり返るからそれまでは我慢ですよと言うことなのです。
それは私が子供の頃に臨んだ旧約聖書の神と名乗る声から、下座でも違う意味が告げられたからです。それは【私はそなたを社会の底辺に置く。そなたは社会の底辺で「人の心の在り方」について学びなさ】と告げられたことです。
単に人の下座に座るではなくて、【社会の底辺に自分の身を置いて、他人から人の心の在り方を学ぶ】なのです。この人の「心の在り方は」社会の上に立っていると学べないのです。そこにあるのは「武士は食わねども高楊枝」なのです。
その武士は食わねども高楊枝とは、見栄を張っている意味ではないのです。やせ我慢をする意味でもないのです。たとえどんなに貧しい境遇にあっても、貧しさを表に出さず気位を高く持って生きることなのです。ポロは着てても心の錦、どんな花より綺麗だぜのことです。
悪をすれば面白く生きられる、で悪を選ぶよりも、貧しくても清く正しく生きる
中国の故事(詩経)に「他山の石をもって自分を磨く」がありますが、「他人の生き方や誤りを見て、それを教師として自分を磨く、成長させる」意味ですが、社会の底辺ほど人の素直な心情が出て来ます。
私は社会の底辺に身を置いている時、人の優しさや親切は上の社会に居る方達よりも底辺の人の方が強いと学びました。人は社会の上に立つと、地位や身分に執着して、自分の地位を守ろうとして実に卑怯な行為に走る方があります。上司が責任を取らずに部下に責任を押しつける。表面は善人ぶっていてもそうした人が多いと言えます。だが、社会の底辺の人は自分を善人面の様な装いはありません。「素」のままです。
私は社会の底辺で「表面は善人、魂は真っ黒け」を見て来ました
小さな欲に負けている人が多い
社会の底辺の者にとってはそんな守る地位や身分は何もないのです。ありのまま、素のままで行けるのです。ですから底辺の人の方が本来の優しさや親切が出て来るのです。
それは薄っぺらいスピリチュアルで「愛」だと言っているものとはまるで違うのです。自分の【良心であり義であり素】から出て来るものだからです。
そうでないと、その人の魂から発する光など無いのです
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