秀真伝(ホツマツタエ)のオオタタネコについて、
竹内宿禰とも親戚関係のオオタタネコ。
秀真伝の選録者がオオタタネコであり、彼が帰化人であることは隠されていない。
しかし、なぜ、オオタタネコが三輪山の斎主になったのかは、明らかにされていなかった。
三輪山は、かつて御諸山とよばれていた。
この「みもろ」とは「みむろ」のなまったもので、「むろ」とは皇室の室、天皇のいらっしゃるお屋敷のことで、漢字が入ってから「むろ」に「室」を当て、後にスメラのムロ・皇室になったのです。天照大神の孫を尊んでニギハヤヒの住んだ処を敬って「み(御)」をつけて「みむろ」といい、その山を「みむろ山」「みもろ山」と呼んだのです。(『暴かれた古代史』151~152頁)
現在も三諸山の名前は残っているようだが、「御(み)」の意味がわからなくなっている。
鈴鹿から大阪の住吉の海岸までは陸路で行き、そこから瀬戸内海の大三島まで海路を使う、その要所ゝを一族が護り住んでいました。その重要な所が住吉の海端です。御諸山や住吉は飛騨から大三島へ降りて行かれた山下住(ヤマシタズミ)(後には大山住;オオヤマズミ、三島溝咋;ミシマミゾクイという)の一族が住んでいたのです。
その方々と飛騨王朝が相談して、大和に都を移すことにしたのです。大和とは飛騨から見て山の麓に位置するということで、飛騨から見た山の麓がヤマノフモット、ヤマモットとつづまりヤマト(大和)となったのです。……そして天照大神は孫のニギハヤヒに招来大和に都を開くための準備を命じたのです。(『暴かれた古代史』114頁)
「日本書記」では崇神(スウジン)天皇のころは三諸山(みもろやま)としているが、雄略天皇のころには三輪山(みわやま)と書かれており、乗っ取られた後に名前を変えた形跡がのこっている。(『日本書記』編纂は出雲系なので、御諸と書かず三諸とかくしている)
崇神天皇の御代、宮中にお祭りしていたニギハヤヒの御霊代(ミタマシロ)を、ニセの占い師にたぶらかされ、かつてニギハヤヒが住んでおられた御諸山に社を建てお祀りしたところシラギ神崇拝教の手のものによって盗まれ消えてしまった、という。
御霊代がないまま、ニギハヤヒをお祀りせねばならず、その斎主になったのが大田タネコであった。
「記紀」によれば、崇神天皇の世、疫病が流行したとき、天皇の夢に大物主神(オオモノヌシノカミ)が現われ、自分を祀れ、そして斎主はオオタタネコに、という啓示があったという。(『日本超古代文明のすべて』、佐治芳彦著、日本文芸社、平成8年、174頁)
この啓示というのも大陸的な考えで、ニセの占い師に仕組まれたかようだ。
天皇には神通力がなくなったかもしれないので大陸からもたらされた占いに頼ったとも考えられる。
大和の国をひらいたニギハヤヒの呼び名は、大国玉神(オオクニタマノカミ)、大国魂神(オオクニタマノカミ)、大物主神(オオモノヌシノカミ)、とある。
シラギ神崇拝教にとって、
大物主大神(オオモノヌシオオカミ)はイソタケルのことであり、オオクニヌシがシラギの女に産ませた子供である。
『出雲大社由緒略記』に大国魂神、八千戈大神(ヤチホコ)、大地主神(オオトコヌシ)とはオオクニヌシの別名とあり……「天理市史」には、日本大国大神(ヤマトオオクニタマ)、八千戈大神、大己貴神(オオタムチ)は、オオクニヌシの異名同神とあります。(『暴かれた古代史』、184~185頁)
御霊代を盗み、斎主にもぐりこみ、主神をすり替え、その名前をうばった。
このように日本の歴史からニギハヤヒを消し去ることに成功した大田タネコは、秀真伝の選録者として、第二次世界大戦後に発見された写本を研究された方の努力で今日に伝えられている。◆