これからの時代は、「あえてAIを使わない力」も大事になる
AIによってクオリティの高い成果物を効率的に創造できるようになった一方で、実は人間の能力は縮小していっているのかもしれない。
「あえてAIを使わない力や、そのタイミングの見極め」 こそがこれからの時代に価値を持つのではないか。
そんなことを最近考えています。
日進月歩で進展するAIブームの只中で「AIをいかに使いこなすか」という議論ばかりが注目されていますが、「AIを使わない選択」について語られることはほとんどありません。
しかし、「デジタルデトックス」のように意識的にテクノロジーと距離を置くことで得られる価値があるように、AIとの関係においても「あえて使わない」という選択肢を考えることには意味を見いだせるかもしれません。
「完璧すぎる文章」に足りないものは何か
「AIをあえて使わない選択」を考える上で、身近な例としてまず「文章」というのものについて考えてみましょう。
大規模言語モデルの進化速度は著しく、最近では「論理的に破綻がなく、誰でもスラスラと読みやすい文章」を生成することは簡単にできるようになっています。
「よくできた文章だな」と思う反面、どこか物足りなさを感じることはないでしょうか。
それはなぜか。
生成AIの活用術でしばしば語られるプロンプトテクニックとして、「この文章を80点として100点に修正してください」というものがあります。AIはそれを忠実に実行し、文法的な誤りを直し、表現を洗練させてくれます。
しかし、本当にそれが「100点の文章」でしょうか?
そもそも「100点の文章」とはなんでしょうか?
論理的な文章は、読みやすく理解しやすいでしょう。一方で読みやすさや破綻のなさを追求すればするほど、その過程で角が取れていき、どこか均質なものになってしまいます。
言い換えると、生成AIで書かれた文章は滑らかすぎて、引っかかりのない文章になりがちです。
文章に引っかかりがないというと、一見それが理想のように思えますが、実はその「引っかかり」こそが読み手の思考を促し、共感や反発といった感情を呼び起こします。
AIの表現が「滑らか」なのに対し、人間の表現はときに「ゴツゴツ」しています。粗削りでも強い信念や感情が込められ、熱量の高さのある表現と言い換えてもいいでしょう。
この人間らしい「ゴツゴツ」とした表現こそが、文章に個性を与え、読み手の記憶を刺激し、心を動かす力を宿しています。
AIには伝えられない「コンテキストの力」
人が何か情報を伝えるとき、それは「内容そのもの」と「コンテキスト」に分けられます。
コンテキストとは、その情報が生まれた背景や、語り手と聞き手の関係性、場の空気感といった文脈のことです。
AIは「内容そのもの」を生成することは得意ですが、「コンテキスト」の理解や生成は苦手です。
コンテキストは特定の人や場所、時間に紐づいた体験や関係性に根ざしているからです。
たとえば、結婚式のスピーチを考えてみましょう。
AIは「結婚式でのスピーチ」という型に沿った、一見すると感動的な文章を生成できます。しかし、そこに新郎新婦との関係性や歴史などのコンテキストに深く根ざした内容を織り交ぜていくことは難しいでしょう。
「この人がこのスピーチをするからこそ感動する」という説得力の背景にあるのは、コンテキストの力です。
その人の人生経験、価値観、感性がにじみ出て、「なぜあなたがそれを語るのか」が明確になっていればいるほど、心を動かす力を持ちます。
現代は感受性が失われがちになっている
現代人の多くは、手紙を書かなくなりました。
手紙を書く文化が衰退したことで、自らの心情を適切に言葉にして伝えたり、季節の移ろいを繊細に感じ取ってそれを言葉にする能力は大きく衰えているように思います。
「季節」を例に取れば、私たちが季節を感じ取る解像度は以前に比べて格段に低下しています。
「四季」というのは相当に大雑把な分類であり、元来中国から輸入した日本の伝統的な暦には「二十四節気」があり、さらに細かい「七十二候」という概念が存在しています。「七十二候」ではおよそ5日ごとに季節が変わると捉えます。
恐らく、このように72の単位で季節を捉えている現代の人は少ないでしょう。
私自身も含めて、現代人はそれだけ季節の解像度が下がっていると言えます。そしてそれは、テクノロジーの進化によって手紙を書かなくなったことも大いに影響しているでしょう。
このように、テクノロジーの進化は、人間のある種の感性、言い換えると「解像度」を確実に低下させます。
私たちはテクノロジーの便利な側面は享受しつつも、それによって失われるもの達のうち、大切なものまで失わないようにしっかりと守ってあげる必要があります。
あえてAIを使わない場面とは
AIの価値を享受しつつも、あえてAIに頼らない場面を想定するとしたら、それはどこにあるのでしょうか。
1つの指針として、「コンテキスト」こそが重要なシーンでは「あえてAIを使わない」方が良いと言えそうです。
例えば文章を例にとれば、議事録やマニュアル、報告書など「内容そのもの」が重要なシーンでは均質で明快な文章を生成できる積極的にAIを活用すべきでしょう。
一方で、エッセイやスピーチ、ブランドの世界観を表現するコピー、サービス概要やミッションステートメントなど、コンテキストが重要な文章では、書き手の「ゴツゴツ」した感性が表出されるようにAIに頼らない方が良いでしょう。
実はこうしたコンテキストが重要な文章でも最近のAIでは適切なインプットをするとある程度の完成度の文章は作れてしまいます。さらに、今後モデルが進化していく中で、特別にAI利用スキルが高くなくても出来るようにもなるでしょう。
しかし、それは使い手である人間の解像度を長期的に下げる劇薬です。
しっかりとそのリスクを認識した上で、AIという技術に向き合うことが重要です。
「早く移動できること」を絶対正義とする危険性
AIはたしかに便利です。しかし、それに依存しすぎることで失われる能力があることも事実です。
こうした議論において「馬車や自動車が発明されて人は早く移動できるようになったが、足腰は衰えた。しかし、足腰が衰えても道具を使って早く移動できるのだから良いのではないか」ということが言われます。
しかし、「その衰える能力」が人によっては、豊かな人生を送る上で決して手放してはいけないものである可能性もあります。
毎日すさまじいスピードでAIが進化し、周りの人がAIを使う中で、「あえてAIを使わない」という行為は勇気が要る行為です。そして、それは今後AIが進化すればするほどより顕著になるでしょう。昔に比べて「スマホを持たないという選択」が大きな決心であるように。
しかし、自分にとっての「豊かな人生*」を送る上で、自らの大切な感性、解像度、能力を守ることは大変に重要であり、そのために「あえてAIを使わない勇気」を持つことが、これからの時代に求められる新たなリテラシーなのかもしれません。
*「豊かな人生」という言葉に違和感を覚えるのであれば「心地の良い状態」と言い換えてもらってもかまいません。
正直自分はAI活用を推進する立場なので、この問いは現在進行系で考えを深めているテーマです。
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