最後の審判は【火の審判】と呼ばれていることはご承知の方が多いかと思います。だが「火の審判」とはどのような「火」なのかと言った時、ほとんど解っていないはずなのです。キリスト教では「煉獄火」ぐらいの概念しかありません。「煉獄」とは天国でも地獄でもない「中有界」のことです。
仏教の三途川の教えでは、もっとも頻繁に「輪廻転生」を起こしているのは中有界で、天国にも行けず、地獄にも落ちていない。再度、現界(この世)に戻れの世界です。
天国に行ったからと言って、まったく「輪廻転生」が無いわけではないのです。天国とは一つの階層ではなく通常三階層と言われて来たように階層がありますので、階層を上がろうとすれば一度この世に降りて来る必要はあるのです。
第2天国界の住人ともなりますと、もうこの世に降りるのは嫌がることになります。せっかく第2天国界まで進んで来ていて、またこの世に出て失敗すれば地獄界ともなります。自動車保険のようなもので事故ればそれだけ自分の階級が落ちるです。第一天国界は如来の智慧が要求されるので難関となるのです。
自分は何度も何度もこの世に降りて来ているなど誇ることではありません。天国に行けるだけの者ではなかったので、中有界とこの世の往復が頻繁だっただけです。
ですから、人は自分の前世など追求する必要はないのです
人は魂を「更生」する為に【甦(更生)って】いたからです
煉獄火とはカトリックにおいて、この世のいのちの終わりと天国との間で、天国に入る前に、その霊が火によって浄化される。神の救いとして【清めの浄化の火の苦しみを受ける】意味合いです。ただ、キリスト教の場合は仏教のように魂の【輪廻転生論】が存在しませんので、この命の終わりの意味の解釈が仏教とは異にします。
またカトリック以外のキリスト教の宗派は「煉獄」そのものを認めていません。基本的にキリスト教はイエス一人だけを神の御子と信じる者は天国に、異教徒は地獄に墜ちるの一点張りで「中有界」の存在など何も解っていないからです。それはイスラム教にも言えます。
【煉獄火】
命の終わり(輪廻転生の終わり)に永遠の天国に入る為の清めの為の浄化火
ある意味は、神の御国(みろく世)に入る切符を持っている人は関係の無いことにはなるのですが、天国とも地獄とも判断が出来ない中有界(煉獄)においては、最後の「審判の火」は浄化の為の「火」であるということなのです。
「火」が霊の浄化の意味を持つことはかなり知られており、神前でも仏壇でも【灯火】をあげるのは霊の浄化の意味もあるからです。神前などで点した蝋燭が一瞬にして高く燃え上がり蝋燭が無くなるがあります。霊に対して何等かの浄化が起きた時です。
日本最大の予言者と言うよりも世界最高の予言者であったと言うべき大本教の出口王仁三郎聖師は、「広島や長崎に新型爆弾(原子爆弾)が落とされて火の海になると予言されて、3年後だったと思いますが広島と長崎は火の海と化しました。
その時、大本教信徒が出口王仁三郎聖師に対して「最後の火の審判」とは広島や長崎のような火の海でしょうかと尋ねたられたところ、広島や長崎の火の海とは比較にならないと答えられた言われています。
広島や長崎が原子爆弾で火の海と化した「火」とは比較にならない「火」が最後の審判の時に来るです。
私はこの「火」は何だろうと追求して来ました。その中で知ったのは、天の岩戸の内に隠された光とは「殺光線」であるなのです。自分の魂に汚れがあると、その汚れが「火」として燃え上がるなのです。
天の岩戸の光とは、日本神話の中にある素戔嗚尊の暴力に姉君の天照大御神が天の岩戸の中に隠れてしまわれたなどという子供騙しの話しではないのです。ただ、そこには非常に重要な意味があるのです。素戔嗚尊が魂の殺人光線に等しい裁きの光の天の岩戸を閉めるなのです。
ですから、前のブログに書きましたように「最後の審判の火の越中は、富(十三)山に逃げる」となります。大本教の出口王仁三郎聖師が救世主は「ス(十三)神の素戔嗚尊」だとされた演技はここにあるのです。
こうしたことを何度も何度も書いておりますが、スピリチュアルの自分に〇〇霊が降りて来たでは最後の審判の時には何の助けにもならないのです。
私が子供の頃に臨んだ旧約聖書の神と名乗る声は、私に【日本神話の神代のことはこの私が最後の審判の目的の為に創作させたものであり、神話の部分はそうした事実は存在していない。そなたは何故に私があのような日本神話を創作させたのか学びなさい。特に天の岩戸開けの部分は重要ぞ】と告げられたのです。
私が修業のお世話になった豊受姫様も「日本神話の天の岩戸開けのような事実はどこにも存在していない」と言われておりましたが、神々と言っても「宇宙初発の神々」と、後から後発の枝の枝の枝葉と言うべき神々も居られます。それらは御神名が同じでも神格は違うのです。大本教の出口王仁三郎聖師は神界の階段は百八十段と言われたように、神と言っても同格ではないのです。
枝の枝の枝葉の比較的新しい御神霊だと、日本神話の【天の岩戸開け】のような事実があったのだと頭から思い込んでおられます。根元たる創造神の深い仕組みが解っておられないからです。ですから、その名乗りの御神名だけでは神としての位たる段階が解らないのです。
大本教神諭に【天の岩戸が開いたならば光輝く人と苦しみにのたうち回る気の毒な人がある】とあるのは、自分の魂に汚れがあるとその光の火で自分が内部から焼かれてのたうち回ることになってしまうからです。
私はその天の岩戸に隠されている光を見て、これは肉体を殺す殺人とは違いますが魂の殺人に等しいようなことだです。基本的に魂は死にません。為に死ぬほどの苦しみでのたうちまわることになるのです。その時間が天の岩戸を閉めない限り、延々と続くことなります。はっきり言えば肉体がいたぶりにいたぶりで殺されるよりも遙かに辛いのです。
大本教から【天の岩戸を開ける役】に【閉める役】。【閉める役が難しい】と出されましたが、天の岩戸を閉めることが出来なかったならばとんでもないことになるのです。この【閉める役】が非常に難しいのです。ですから簡単に天の岩戸など開けることは創造神にも出来ないのです。
この天の岩戸の光が出た時、どれだけの人が涼しい顔をしておられるかとなった時、これは難しいの一言です。
その光を見た時に私が感じたのは、この光の中で涼しい顔が出来るのはお釈迦様ぐらいであり、イエスでは無理だです。しかし、お釈迦様の教えは一般的に慈悲とされ、イエスの教えは愛ならばさほど違いはありません。お釈迦様の悟りは慈悲ではなかったはず。悪魔達がよって集ってお釈迦様の悟りをひん曲げたなのです。
そうした中で、曹洞宗から出された小冊にお釈迦様の菩提樹の下での悟りとは、「悪魔は実態を持たない表れで有り、人に良心と呼ばれる神が内在している」に触れて、良心神に気がついたのが最初の気づきです。
そして、大本教神諭予告、五六億七千万で紐解ける「九つ花」と、朝鮮に残されていた予言、最後の審判前に救世の為に「米」一字の教えが出るで、私の「米」の教えは完成して行ったのです。
私が【人に内在する良心神】を宣伝しているのは、天の岩戸開けの時の光から少しでも助かる為です
スピリチュアル系の方達の中には、その時には自分は「宇宙の果てに逃げる」と言われますが、それは無理なのです。何故ならば、
天の岩戸の光とは各自の魂の「核」として存在して天帝の分霊のことであって、宇宙のどこに逃げても無理なのです。では、自分の肉体から魂を取り出すとなると、肉体から魂を取り出しても肉体はやがて朽ちるものであり、魂は半永久的に残るもの。宇宙創造神たる天帝から神罰たる責め苦を魂が火で浄化されるまで延々と受けるのです。
では、自分は悪魔になってやる。魂の真ん中たる核が「空く間」ならば助かるも無理なのです。悪魔とは天帝の「核」が正しい位置に無い「空く間」であっても「核」そのものは残っているのです。
お釈迦様は悪魔は実態を持たない表れだと見抜かれたように、魂が変形しようが魂の真ん中たる正しい位置に居なくても魂に「核」があれば、宇宙のどこに逃げようと地中に潜ろうが火の裁きは出来るのです。
なぜならば、魂の内部から来る「核」の融合による「光」だからです。
スピリチュアルで神は「光」だ!。
それはバカの一つ覚えです。私達が言うところの光とは太陽が起こしている「核融合による核爆発」から来ている光だからです。ですから私は光は「火仮(ひかり)」とも言っているのです。
スピリチュアルと称して、「光」の存在に欺される人は後を絶ちません。私の以前のブログにある「観音菩薩として自分を祀れと言った大白蛇」霊も凄い光を放っていたそうですが、自称釈迦の再来と称されていた某教祖様の背後には光を放つ龍神がいて、その光に騙されている霊能者達もありました。光に騙されるは珍しくもなんともないのです。それは神は「火水(かみ)」であって正神であれ邪神であれ「光」を放っているからです。
では、そうした諸神諸霊達が放っている光と、【天の岩戸の光】は同じではないのかと言いますと、まったく違う光なのです。諸神達が放つ光は「七光」で、天の岩戸に隠れた光とは「八光」だからです。
天の岩戸の光とは、汚れた魂の汚れを焼く光
だが、その光を浴びた人達は「神は何と非道のことをされる」と言うかも知れませんが、その光によって魂の汚れが尽く焼かれる。それに耐えきれば、その人の魂にはもう汚れが無くて、【みろくの世】にと向かえるわけです。
そこにあるのは「全員がみろくの世」に行くことも条件付き可能なのです
が、それには天の岩戸の光に自分の魂が耐えきることが必要となるのです。為に今日まで魂を磨けと言われて来たのです。焼かれる魂の汚れは過去から自分が積み上げて来た罪や業(カルマ)であり、新しい永遠の「みろくの世」に過去のカルマを一切持ち込ませるわけには行かないからです。
さて、下記の写真には大量の小さな「オーブ」が映り込んでおりますが、オーブなどは別に写ったからと言って、さほど重要な事柄ではありません。またそれは一々詮索しなければいけないような事柄でもありません。
その写真の右下に「火炎」を上げた存在が写っています。金色の線が出ているのはその火炎を上げている存在が高速で飛んでいることで、写真上にはカメラシャッターのスピードの関係で線が出ているのです。
通常こうした火炎を上げている魂を【火の玉】と呼んでいます。これはたまたま写ったのだと思われます。私自身は新聞の地方版でニュースになった【幽霊列車】と言われていた幽霊が出る列車に乗ってしまい、車窓からこうした「火の玉」と遭遇してご供養したことで、以後幽霊騒動は起きなくなりました。
オーブ写真は珍しくもなんともない写真ですが、こうした「火の玉」写真は珍しいので大きい部分写真も出しておきましょう。この写真を皆さんが見たからと言って別に問題はありません。私そのものが本守護神を「国常立尊」様とする「閻魔庁」の使いでもあるからです。
魂が「火と燃えて光を出している」なのです。
神は「光だ!」は大間違い
光だから正神ではなく、邪神も同様に光は出すのです
光は正神で、闇は邪神も大間違いなのです。私の以前のブログに書いておりますが、寝ようとすると霊界の太陽が現れて眠れない。それがどれほど辛いことだったか。
闇があるから眠って休めるのです。
スピリチュアルと称して甘い言葉を発する者達の言うことを聞いていれば、最後の審判の【火】は簡単には乗り切れません。いくら宇宙だ!宇宙だ!と言っても関係ないからです。ですからこれまでの人類史上最高の大予言者の大本教の出口王仁三郎聖師は、「三千世界の大立替」。「宇宙開闢以来」と予言されたのです。
私は単なる「言葉の解説者」なので予言は出来ませんが、スピリチュアルで自分に創造神が降りて来ると公言出来るのであれば、大本教の出口王仁三郎聖師以上の予言をして数々当てることが出来るはずです。私の最初の師匠は豊受姫の御代でしたが、阪神大震災や普賢岳爆発などを予言しています。
高い御神霊が直に降りている方であれば、本当の予言は出来るのです。それが物の道理なのです。
創造神がなされる仕組みなど、諸神諸霊や人智で解るはず無し
【自らを悔い改めるより道は無し】
【人は自分がいと小さき者と知る】
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