この3月末頃から5~6日。まったく同じ夢を見ていました。それどころか、私は年老いたこともあって夜に2度か3度トイレに起きるがあります。その都度、まったく同じ夢が出て来るで、さすがにこれだけ同じ夢が続くと霊界からのものと判断しました。
その夢の中味とは、最初に「風呂」が出て来ます。私はその風呂に適温のお湯をはります。次に場面が変わって、私は殺人者として「指名手配」をされるです。それが寸分違わず幾度も幾度も夢に出て来るのです。
これは【判じ物】の夢で、夢に言葉の意味が秘められているのです。その夢の意味を解読しないと、その夢は終わらないことになります。
私が子供の頃に臨んでいた旧約聖書の神と名乗る声は、「そなた一人にはこの神の仕組みを見せる」でした。一般的には宗教開祖でも霊能者でも御神霊が何事も教えてくれるですが、私は旧約聖書の神と名乗る声が「この神の仕組みを見せるので意味を自分で解読せよ」です。私に意味を教えてくれる神は無いのです。
豊受の神は貴方に教えが出来る神などは居ない。神々は貴方の教えを聞かないといけないと告げられましたが、私が知ることが出来るのは夢の中での光景だけなのです。それを日本語の意味に置き換える変換をするのです。
最初は風呂に適温の湯を張るで殺人罪で指名手配に?と考え込んでいましたが、そこで気がついたのは「禊(みそぎ)」のことか!です。
私は幾度か【禊(みそぎ)】に関して書いて来ました。しかし、その内容が不十分であり、それではどこまでも身体の汚れを洗う暖かいお湯の「風呂」の様なことであって、魂の「禊」には必ずしも繋がってはいないです。それでは未来のみろく世に行く神の選別において、私の教えはみろく世に行けない「殺人者」扱いにもなるなのです。
禊とは、主の神と人類の契約の示し【示・契】であり
身殺ぐ・身削ぐほどの「辛」さを示した厳しい内容です
そうした厳しいものでもあるに関わらず風呂に湯を張るでは、この世で遊んでいたのでは「禊」が出来たにはならないからです。また、カルマを解消したからと言って「禊」が出来たでもないわけです。
一部のスピリチュアルを標榜する人達は、神は愛だから何をしても赦されると説かれますが、それは論理としては破綻したものです。何故ならば私達は個々に魂を持っています。その魂は何をしても赦されるではないので、魂が腐って消えたり、捻れて破砕されてしまうがあります。仏教では為に「カルマ」が説かれ、イスラム法では「目には目、歯には歯」で、自分の所業は自分に帰ってくるものなのです。聖書では自分が播いた種の果実は自分で刈り取れです。
イスラム教においては、一日に5回、どこに居ても決まった時間にお祈りします。それは今の様なビジネス社会においては仕事を中座してまでの厳しい戒律です。それが神との契約の示しでもあり魂の「禊」となります。
もし今の日本人にイスラム教を入れたならば、一日に5回もどこに居ようとお祈りをするなど耐えられないでしょう。その意味では日本人は神から甘やかされているのです。ですから何もしていないとなると神との契約たる「禊」は不充分でもあるのです。
原始仏教の流れにおいては「五体投地」があります。これもかなり厳しい戒律です。日本の仏教僧が仏の前で数回ふれひすではなく、昔、映画「世界残酷物語」に取り上げられたと思うのですが、五体投地しながら聖地に巡礼して行く過酷なものです。
ただ、イエスが出てキリスト教が「イエス一人を神の子だと信ずれば救われる」式の教えを広めた為に、キリスト教徒の目から見ればそれらは全部「残酷物語」だと捉えられてしまったがあります。
日本神道で説く「禊(みそぎ)」は「身殺ぎ・身削ぎ」であり、一面「残酷物語」的な目があります。
私が初めて霊能者の元を訪れた時、私の家系先祖守護霊(日蓮さんの御分霊)と日蓮さんのお弟子さん2体の霊が出られて、自分達が瀧行や断食の様な荒行は積んで来たので、この者にはそうした荒行の必要は一切無いと伝えてくださいでした。
その家系先祖霊と名乗る霊は霊能者の方に、自分が私の家系の先祖霊であることの証明として、「この者の家の窓から凸の形をした物が見える。最近、その者が造った。私は元の場所に居るのではなくてそこに居る。そう言えば解る」と告げられたのです。
その霊能者の方が私に凸の形を手で示されたので、解りましたです。私は前に住んでいた家から引っ越して、その当時に住んだ家の窓からお墓が見えるのです。そこのお寺が家系の宗派と同じだったので、そこに分家となった亡き父のお墓を新しく建てたのです。そのことです。凸の形はお墓です。
その霊能者の方は、私の背後には霊能者の段階とは桁違いの背後霊団があるのが見えた関係上か、私に「貴方の御先祖霊は瀧行や荒行は一切必要が無いと言われていますが、何事も勉強です。私は年老いていて今は瀧行が出来ませんからご指導出来ませんが、瀧行を指導してくださる先生を見つけて経験してください」と言われます。
次に出会った方が最初の女性師匠で、隣市の稲荷神社で神主と伏見稲荷大社講の支部長をされていました。最初に出会った時、「貴方には能勢の妙見様の御使者神が2体も従っておられる。これは尋常の方ではありません。すぐに貴方の家系と能勢の妙見様との関係を調べてください」と言われます。能勢の妙見様とは日蓮宗の関西別院です。
能勢の妙見様と自分の家系の関係を調べたのですが詳しいことが解らずに次に訪れた時、「貴方の本守護神様は国常立尊様と解りました。侍の姿をした方から、この者を預かって面倒を見て欲しいとのことなので、私は弟子を採らないことにしていますが、弟子として預からせていただきます」とのことで、その元で瀧行も含めての修業となったのです。
その時に、私の本家には朽ちた稲荷祠があり、そこで祀られていた稲荷さんが豊受様と豊川様で、奇しくもその師匠が御祭神とされている御神霊と同じ神であったと聞かされたのです。確かに本家に誰も祀らずに朽ちた祠はあったのです。叔母によればお稲荷様が祀られていたでした。
私がその師匠と伏見稲荷山で修行をさせて貰っている時、その師匠は当時伏見稲荷大社講務本庁の婦人部長ということもあり、師匠はその用務で山を下りて、貴方には九字も印も要らない。神様お願いしますと言っていればよいで、師匠無しで一人で清瀧で瀧行をしていると瀧の水が脳天ばかりに来て、逃げても逃げても瀧の水が私を追いかけて来ます。
そのことを山に帰って来た師匠に報告すると、「瀧の水が追いかけて来たのは、貴方は瀧行や断食などの山の行は必要が無い方だったからです。貴方に必要なのは逆の里の行。瀧行や断食の山の行は辛いように見えますが自分一人なので逃げ場がありますが、里の行は対人関係なので逃げ場がありません。より厳しい行です。もう貴方は山の行は一切必要がありません」と言われます。
私の先祖守護霊が告げたのと同じ内容です。しかし、瀧の行が面白くなって来たので、瀧の行もすることにしたのです。その瀧場で摩訶不思議もずいぶん体験できたので、決してムダな修業ではありませんでした。
その最初の瀧行によって、私はヴェーダ典「人の中に眠るコブラ(蛇)が目覚めて走り上がる時、その人は真理に目覚める」を体験したのです。だが今日までの宗教では「真理」などはあまり追求されていません。その時にお釈迦様とイエスの教えの違いに「真理」は隠されていると感じて追求に入ったのです。お釈迦様は正しくて、イエスは間違えた。それが何かです。
私がスピリチュアルで「ミカエル」に欺されるのが解るのは、言葉の仕組みで解る「巳(蛇)帰る」があったからです。
行者の世界では「里行」は軽く見られていますが
お釈迦様が、バラモンの荒行から里行にされたのも人の世界の試練の行の大切さです
ですから、「人には良心と呼ばれる神が内在する」を悟られたのです
良心神は神々の世界からは知ることが出来ません。人間のみが保持しているのです。
里行は対人関係なので逃げ場が見つからずに、より厳しい修行なのです。
だが、里行の場合、全員が全員。対人関係で自殺を考えるほど追い込まれるなどはありません。それは一部の方のみです。だが対人関係で苦しむのは魂の磨きの荒波で、サウンドペーパーで魂をゴシゴシ掛けられるように辛いのです。そは【みそぎ】と同じなのです。
世の中には、この世は天国式の方が多数おられます。我れよし。自己本位。やりたい放題です。この世は魂の修業の場で在り、魂の「禊(みそぎ)」の場です。で、そうした方の魂を拝見させて貰うと汚れから真っ黒け。毛物状態なのです。悪くすれば魂が腐ったり捻れたりです。
瀧行は、一種の「禊ぎ」です。だが、瀧行をしていたら自分の魂が磨かれるかと言いますと、必ずしもそうではありません。瀧行も厳しい瀧場をこなすと「法力」的な霊力は備わって来ます。だが、それで魂が磨かれた人に成るのではなくて、自分の「法力」ばかりを誇る卑しい行者に成ってしまわれる方も多々あるのです。
私は【里の行】の集大成として、【米】の教えを出させてもらいました。だが、米の教えは【実れば実るほど頭を垂れる稲穂(頭部)かな】に成るまでには時間も掛かります。最低でも一年ぐらいの目安は要るのです。それも特急で走った場合です。
私がぬくぬくした暖かい風呂を用意していたのでは、私は殺人者に成ってしまう夢は、もうさほど残された時間が少ないことになります。
早くから「米」教に辿り着いた方は、確かに魂磨きが進んだ方が見受けられます。だがそれは先に入ってよく学ばれたからです。当然にそこには本人の努力もあります。後から入った者がそれに追いつくは簡単ではありません。そこに出て来たのが暖かい風呂ではダメだと言うことです。それは残された時間が米の実りの育ちをもう待っては要られないところまで来ているなのでしょう。
禊ぎ(身殺ぎ・身削ぎ)の役割を持つのは瀧行だけではありません。瀧行はそれなりの指導者が必要です。素人で瀧に入ってしまうと危険なのです。特に瀧場は行者が印を切りまくっているので、その印が霊的な剣となっていて指導者が印を結ぶ者でないと危ないがあります。私の様に印無しで瀧場に入るのは無茶筋か、よほどの神霊の守護化にある者です。
一方、日本の神道での「禊ぎ」は川や池や海の水に浸かるがあります。高野山などでも修業僧は奥の院の川で浸かるがあります。それと同様の働きをするのが「水行」となります。
大本教の出口なお開祖にウシトラ金神が懸かった時、開祖の水行がありますが、神霊世界に関わった最初の頃の水行と呼ばれるものには瀧行と同様の効能があります。神霊から水行を命じられてされた方は多いはずです。水行は体の汚れを洗うのではなくて、魂の汚れを洗うなのです。
水行とは風呂場でのシャワーではありません。風呂場で頭から水を被る。こうした水行は古来より多くの宗教者・行者も取り組んで来たことです。一部の神社の神主さんは、水行による潔斎を済ませた後に神主として任務に就かれます。水行は瀧場と違って心臓に病を抱えていなければ危険性はさほどありません。
私も年老いて、若い頃の様に霊山に登り瀧に打たれるが出来なくなって来ています。それでそうした行からはここ数年は遠ざかっておりました。
だが自宅の風呂場での水行ならば老いても出来ます。毎日でなくても、時には水行の潔斎をする。丁寧な方は自宅の神前で祝詞を上げる時にも、自宅でも必ず潔斎(水行)をして祝詞を上げられる方もあります。
確かに、水行をすれば【魂の磨きが遅れていてもその分を取り返すことが出来る】かも知れません。
元々、日本神道で行われる水行は、祝詞の【祓詞(はらへことば)】にあります。
【祓詞(はらへことば)】
掛けまくも畏(かしこ)き伊邪那岐(イザナギ)の大神
つくしの日向(ひむか)の橘小戸(たちばなのをど)の
阿波岐原(あわぎはら)に御禊(みそぎ)祓へ給(たま)ひし時に
生(な)りませる祓戸(はらへど)の大神たち
諸々の禍事(まがごと)罪穢(つみけがれ)あらむをば
祓へ給ひ清め給へと白(まを)すことを
聞(き)こし食(め)せと恐(かしこ)み恐(かしこ)みまをす
すなわち、水行は伊邪那岐大神から始まったなのです。神である方がなされた行です。
神がなされたのに人間がしないでは、思い上がっているともなります。この【祓詞(はらへことば)】は神社によって少し違っておりますが、御祈祷を受ける時の最初に神主(祭主)が上げる祝詞です。
その中の御禊(みそぎ)とは水に浸った水行のことです。それによって現れた祓戸(はらへど)の大神たちには諸説ありますが、黄泉の国から(輪廻転生)の汚れを洗うと言う意味ならば「住吉龍神」ということになります。
私は全国一の宮巡りの中で、筑前国一の宮たる博多の住吉神社に参拝させて貰ったところ、御本殿は「龍神」さんの姿でした。
私がこれまで見て来たのは「祓戸の大神」と言うと「祓い串」が見えておりましたが、私も水行にすることにして風呂場で蛇口に向かって2拝2拍1拝で水道水に向かいましたところ、蛇口に龍神さんを目にしました。住吉龍神と見ました。
大本教の出口なお開祖の水行は井戸水です。だが今はどの家庭も井戸ではなくて水道水です。水道水が出て来るのは【蛇口】です。瀧場の水と同じことです。
私はかねてから何故に水道の口を【蛇口】と言うのか疑問に思っていました。流水を出す場所だからです。
私は初めて家庭の風呂場の水道の蛇口に龍神さんを見たことで、この水行は霊山とか瀧場とかでしなくても家庭の風呂場でも出来るです。
暖かい風呂でなく、水行の【禊】によって魂の汚れを取る。
この記事を書き終えると、私の夢にこの夢が出なくなりました。
スピリチュアルの自己啓発とかセミナーなどでは、魂の汚れは取れないなのです。逆に蛇霊を憑けられてしまう可能性が高いのです。
スピリチュアルの世界でなされているのは、蛇霊を剥がしたり、逆に蛇霊を憑けたりなのです。蛇霊を剥がしたからと言って、魂の【禊】には何等なっていないのです。
よみがえりの黄泉の国を出て、黄泉の国に帰るでは【輪廻】から抜けきれず
よみがえりの黄泉の国を出て、魂の【みそぎ】が出来れば神の御国(みろく世)
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