少し以前ですが、霊能者【宜保愛子】さんがテレビで活動されて2時間特番などが放映されていた時期があります。ところが、突然その「宜保愛子」さんがテレビ界から姿を消されて、数年間音沙汰無しがありました。
亡くなられたのかと思っていると、突然にまたテレビに復帰されて特番などが組まれました。その後、またテレビから消えられたのですが、今度は御本人の口から病気ということでしたが、そのままテレビに復帰されることもなくお亡くなりなっていました。家族のみで密葬されたとのことで、亡くなられたことがニュースとして流れることもありませんでした。
宜保愛子さんはテレビで一躍著名霊能者となり、突然に消えてしまわれた謎の数年間は何があったのかと言いますと、御本人の著書によればその間はまったく霊が見えない。霊の声が聞こえない。普通の人の状態に置かれていたと書かれていました。
当然、霊能者なのに霊が見えなくなる。霊の声が聞こえなくなるでは、自分は霊能者でございますとテレビに出ているわけにはいかないのです。宜保さんの場合は霊能者が出来なくても本来は主婦であったので、別に生活に困ることはなかったそうです。
霊的世界にうとい方は、霊が突然見えたり。霊の声が聞こえて来る。逆に、それまで霊が見えていたのに見えなくなった。霊の声が聞こえていたのに聞こえなくなった。そうしたことが何故起きるのか、はっきり言って理解されていないと思います。
霊が見える。霊の声が聞こえるには二種類あります。一つは自己の中の霊性発動であり、一つは霊の憑依が元で起きるものです。お釈迦様はこの霊性開発は危険だとして「目蓮」尊者以外のお弟子さんには霊的世界と関わることを禁じられたとも言われています。
一方、人類が平和でありますようにのスローガンで著名な五井昌久師などは、逆に霊性開発の必要性を説いておられます。ただ、この霊性の開発に関して言えば大本教の出口王仁三郎聖師が信徒に霊懸かりを起こさせて、結局は手が付けられなくなって幽斎修行の中止に追い込まれた事実があります。
霊懸かりが一人ならば低級霊や邪霊に支配されていても処置は出来ますが、多数の信徒に一斉にそうした低級霊の霊懸かり現象が起きてしまいますと、もう手が付けられなくなるのです。あちらで信者が「わらわは天照大神なるぞ」。こちらでは「われは大国主命であるぞよ」と始まって、サニワなどしている状況ではなくなるのです。
愉快犯霊とか低級霊は、自分は天照大御神だ。素戔嗚尊だ。国常立尊だ。大国主命だ。仏陀だ。○○如来だ。観音菩薩だ。イエスだ。マリアだ。ミカエルだ。カブリエルだ。閻魔大王である。そうした名乗りをしたいのです。
それを本物かニセ物かを見極めるには「サニワ」が必要だとされるのは、多くのニセ物の霊が暗躍しているからです。
そうしたことを一般的には「憑依」で片付けますが、人は「憑依」によって霊が見えたり霊の声が聞けるのです。そちらの方が多いのです。霊性開発だけでは、それは自己の霊性によるものか憑依によるものか区別がかなり難しい面があるのです。
私の最初の師匠は、霊が見える。霊の声が聞こえる。そうした相談者は霊査して、高級霊が降りる素地のない霊感者の霊能力はことごとく封印です。そうしますと、霊が見えるとか霊の声が聞こえていた人にはそうした現象は起きません。
それによって社会人として立派に成られた人達は多数あります。なまじ霊が見える。霊の声が聞こえるは、社会生活に支障を来して、低級霊の餌食に成る可能性があるからです。
その師匠から霊能者としては失格の烙印を押されたある信徒さんが、別の霊能者の元に行ってその方を師匠として、今は不動明王の御代をされていますが、あまり世間の評判はよくありません。外れるが多いのです。私もその方に霊が見えることは知っておりますが、人に霊能者として推薦出来る段階ではありません。それでも信徒は付きます。
多くの霊懸かりのほとんどは軽い憑依によるもので、その人背後に御神霊が見えない場合は封印した方がいいと言えます。その方の背後に御神霊が見えれば、その御神霊が低級霊からその人に対する霊懸かりを防いでくれるからです。
守護霊神の大切さは、ここにあります。それは創造神信仰をしていたから大丈夫ではないのです。個々の人を日々守護しているのは創造神の段階ではなくて、個々の人の守護霊神の段階にあるからです。
副守護神格は全ての人に存在しますが、本守護神・正守護神は必ずしもその姿は見せては来ません。そうした本守護神・正守護神が出ていない段階では、低級霊の餌食になる危険性にさらされているのです。その段階で霊が見えた。霊の声が聞こえたは間違った方向に走る危険があるのです。
この憑依を受けるを封印できない霊能者は、狐憑きだ。狸憑きだとして、憑依された人を鞭で叩いて出ていけとか、煙でいぶしたり、椅子に体を縛り付けたりで、憑依を受けている相談者を誤って殺してしまう。そうした事件も数々報道されたはずです
しかし、そうした霊の憑依を封印出来る優秀な霊能者の方の数が減り、逆に低級霊を霊媒質者に憑ける悪い霊能者が増えて来ていると言われています。それで霊が見えた。霊とチャネリング出来ると喜んでいると「墓穴」を掘ることなりかねません。
世の中には自分も霊が見たいとか、霊の声が聴きたいという興味で、大金を払って霊的セミナーに行かれる方が後を絶たないようですが、大本教の出口王仁三郎聖師ですら手が付けられなくなった事実は、わらは天照大御神なるぞよと名乗る様な人が続出することになるのです。無論、それらは低級霊に仕業です。
こうした霊性開発は一人の師匠が、これはという弟子をしっかり育てないと難しく、大金を払った短期間のセミナーで付けられるのは、だいたい蛇霊と相場は決まっています。
蛇霊等が憑けば霊的な世界が見えたり、霊の声は聞こえます。蛇霊等が化けた神霊とか天使と名乗る霊とのチャネリングは初歩的なことになるのです。
霊学は数学の問題でもありまして、
実存数(人)に0(霊)を掛け(懸け)れば、それは0(霊)の世界となります
霊的な物が見えるのは、自分に懸かっている霊を通して霊的世界を見ているのです。ですから霊の憑依が消えると、霊的なものは見えなくて正解なのです。
霊学では「人」は「霊(ひ)止(と)」とします。肉体に霊を入れている存在です。全ての人に「霊魂」は宿ります。この場合、「霊」と「魂」は別物なのです。もしも霊と魂が同じであれば、人は自分が「幽体離脱」する様を自分が見るが起きて来ません。不可能だからです。
霊と魂が別であるから、自分の肉体から「霊」体が抜けて行く様を自分で見ることが出来るのです。「魂」は「心」と言いますが、「意識」でもあるのです。では、肉体の自分が自分の魂を見ることが出来るかと言いますと出来ます。優れた霊能者であればその人の魂を離脱させて見させるは可能なのです。その場合「意識」は魂の方ではなくて、肉体の方に重きを持っているのです。
これをよく知らないと本当の「三位一体」の意味は解りません。
私が伏見稲荷山を巡っている時、ふと見ると私が知る女性が伏見稲荷山の「奥社」の側にたたずんでいるのです。あれ!。その知人はその日は地元で会社勤務をしているはずです。その間の距離は数百キロあります。会社を休んで新幹線で来たとは考えられません。だが、間違いなくその人です。そこで、声をかけようと思ったら、スッとーその姿は消えました。
私は基本的に何が起きても御本人に電話するなどはしません。そこで、その方に何時何分頃に貴方はどうしていましたかとメールで問い合わせたところ、その時間は私が伏見稲荷山で修業をされているのを知っていたので、会社の職場から伏見稲荷山のどの当たりに今はおられるのかと御本社から奥社までずっと探して見ていましたが、見つからないので奥社付近で引き返しましたと言われます。その奥社で私はその方を霊的に見たのです。
その女性は千里眼で私を探しに来たのか?。それとも魂を飛ばして来たのかと思い、その間の貴方の状態はどうでしたかとメールで問い返したところ、ほとんど意識朦朧の状態でしたと言われるので、本人自身の魂だったかと判断しました。この女性は千里眼も持っておられるので、どちらかがよく解らなかったのです。
念など場合は、肉体自身の意識は朦朧とはしないのです。だいたい自分が念とか生き霊を飛ばしていることを本人は意識していないからです。念は「想った」が「想念」として動いているのに過ぎないのです。
肉体から魂が抜けると「腑抜け」と言いますが、魂が抜けた場合は「我れ、そこにあらず」と言います。肉体がボケッとしていて誰かに声かけられてハッと我れに帰る。その間は精神(魂)が抜けているわけです。
ただ、私は霊能者をしている者では無く、私が持つ霊能力とは霊界体験をする為だけのものであり勉学の為だけのものです。私自身も千里眼で見たことはありますが全て勉学の為の体験の範疇です。為に念に対しては少し間違った解釈がありましてもお許し願いたいと思います。
私は別に霊能者商売をしている者ではありませんので、別に霊が見えなくても、霊の声が聞こえなくても、何の差し障りもありません。霊界に関しては子供の頃に旧約聖書の神と名乗る声が私に命じられた「この私(神)が日本に仕組んだ神の仕組みを解読して、それを人々に告げる」ことをしているだけです。それ以外は、人として社会人として、生きることを第一義としています。
だが、霊能相談のようなことで生計を立てているとなると、霊が見えない。霊の声が聞こえないとなると、自分がこの世で生きてて行く為の生活の基盤がガラガラと崩れることになってしまいます。これは霊能者商売で食べている人にとっては致命的な死活問題になります。
あるスピリチュアル系のミニ教祖さんですが、最初はよく当たっていました。そうしたことで相談者が信徒となり、中規模の組織のミニ教祖をされていました。だが、突然に霊が見えない。霊の声が聞こえないとなられたのです。宜保愛子さんと同じ症状です。
で、この教祖さん何をされたか。嘘つきの霊能者となられたのです。霊が見えていないのに霊が見えている素振り。霊の声が聞こえていなのに聞こえている振りです。だが、そうなると当たらないが起きて来るので評判は落ちて行きます。だが、教会をそれなりに大きくしていてその借金もあり、後は嘘を出して悪の道を転げ落ちて行くです。
こうしたことを、
霊に【梯子(はしご)を外される】と言います
霊に梯子を外されない保証など、どこにもありません。この嘘つきと追いかけても、相手は霊なので捕まえることが出来ません。保証が受けられないのです。霊的世界に足を突っ込まなければこんなことにならなかったのにと、悔いてもその時には遅いのです。
自分の前世は仏陀だったとかイエスだったとかを名乗るニセの仏陀。ニセのイエス・キリストがあちらこちらにおられますが、たまたまそれに大勢の人が引っかかってくれたなどは、そのバックボーンが巨大な霊団であったからで、それが嘘であっても大教団になるはあります。が、そこで知っておかなければならないのは、まだ本当の創造神は現れていないなのです。ですから【ニセ霊も暗躍が出来る】なのです。もしも本当の創造神が表に立っておられたならば、それらのニセ者を擁立する霊団はことごとく粉砕されているからです。
それを単に「ニセ物」と解って、いくらけなしても意味がありません。あまりにもそれに狂う人が多いからです。何故にそのような「ニセ物」の神霊達が次々と輩出して来るのか?。そこまで智慧が回っていなければなりません。
霊能者の看板に上げていて、どなたも自分に「名乗りがニセ物」霊が懸かっているとは思ってもおられません。最初からニセ物霊だと解っていて、それを利用しようという図太い方は滅多には居られません。
自分が修行を積まれて霊能者になった方。また、生まれながらに高い神仏から守護されている霊能者の方は単なるスピリチュアルとは違う面が出て来ます。
私の最初の師匠は霊媒型で豊受様の御代をしていましたが、時々、その師匠を見ると豊受様がその肉体に入神されていることがありました。ただ、その信徒の中には後に霊能者として独立された方達も幾人かおられましたが、入神された時にそれに気づいている方はなかったようです。入神されると骨格や人相がまったく別物となります。
霊能者は金儲けになるで踏み込むと、霊界は危ないのです
私の最初の師匠は幼児の頃から遊び相手は「白狐」でしたので、やむなく霊能者をしておられましたが、私に常々「神の御代などせずに普通の人で居たかった」と言っておられましたが、本音です。
普通の人生を送れるほど幸せなことはないのです
霊能者は霊から梯子(はしご)を外されたならば、惨めなことになるのです
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