スピリチュアル系の全ての方がそうだとは言いませんが、自分には創造神が降りて来る。天使長ミカエルが降りて来る式の方が非常に多いと言えます。
私が修行に入った数年後のことですが、自分には「国常立尊」が降りて来る式の霊能者の方が意外と多く。私の2番目の師匠の御祭神も「国常立尊」と名乗っておられ、それを本物の「国常立尊」様だと信じた時もあります。ですから、
そうした神名に欺されてしまうは私も体験者なので偉そうなことは言えませんが、体験者だからこそ知るのです。
それは、自分には「国常立尊」様が降りて来る式の方の中では、その師匠が出す奇跡的な霊力は他の方とは段違いの実力を持たれていたからです。その師匠以外の霊能者の方達を見ていて、この程度の霊的低さで、よくもまあ「国常立尊」と名乗れるなと呆れておりました。
今の私が自称仏陀とか創造神等と名乗る方の奇跡力にまったく引っかからないのは、その人達が見せる奇跡的霊力が「子供だまし」のような霊的レベルにあるからです。それは私がそうした霊能者達を数多く見て来たからです。
私は霊能者はしていませんし、何の力も与えられておりません。そうしたことで、昔は龍神と呼ばれる存在の攻撃には逃げ回っていた時代もありました。だが、今は龍神が私を攻撃して来ても恐れないようにはなりました。
その頃の私に抜けていたのは奇跡の見聞に夢中になって、その師匠が持っていた霊的な教えがお釈迦様やイエスや弘法さんや日蓮さんのようなレベルに行っていないことの気づきでした。私自身が霊が見えるとか霊の声が聞こえる。そうした奇跡的なことに惑わされてしまっていたのです。
霊界は見せるだけならばどのようにも見せて来ます。しかし、見せるだけで何も起こせない力無しの霊が多いと言うことなのです。
スピリチュアル系の特に霊感女子に見られる現象として、自分には創造神が降りて来る。天使長ミカエルが降りて来る。自分は宇宙そのものだ。そして宇宙だ!。宇宙だ!と言われ、宗教の教えなどは全面的否定で直感!直感!ですが、その霊感者の霊的レベルはお釈迦様やイエスや弘法様や日蓮さんと呼ばれる方達のレベルには遙かに遠いと言えます。
そこに必要なことは、お釈迦様やイエスや弘法様や日蓮さん等の過去の先達に学ぶなのです
私が子供の頃、私に臨んだ声は【私は私であり、アブラハムの神であり、そなたの神であり、旧約聖書の神である】と名乗られました。
と言われても、まだ私が小学校一年生か二年生の頃でしたので、いくら当時の学研社発行の七巻ほどの大辞典を祖母から小学校に入学した祝いとして貰い、それを読破していたといえども、その意味が完全に理解に到るものではありませんでした。
その声は【私の教えは宗教書にはあらず。日本昔話、日本の民話、諺(ことわざ)。それに「わらべ歌」などに秘めた。特に重要なのは「かごめ」歌である。そなたはそうした物から私の教えを学び取りなさい。また、過去の歴史から何が間違っていたかを知りなさい。そして、
過去に世に出た偉人達の足跡からも学び取りなさい】と告げられました。また、
【社会の底辺から学べ】でした。
私は小学校五年生の頃に小学校の図書館に図書委員として図書司書の方のお手伝いとして放課後は図書館に詰めていました。小学校5年生と6年生の2年間です。その間は放課後は図書館にずっと居たので、教えられた類いの本や偉人伝などを読んでいました。また文豪の大作などです。そうした中で一番感銘したのはお釈迦様の伝記でした。
今は年老いて頭の回転は悪くなりましたが、若い頃は「歩く辞書」と言われたこともありました。クイズ番組でしたら、若い頃はほとんど回答出来ました。だが、それは学校の教科書の学びには直接つながらないものです。
人としての養いと言えます。ただ、歴史だとほとんど満点を取っていました。今はそうした内容は忘れてしまいましたが、
学ぶことの大切さです。
スピリチュアルを標榜している方達は学ぶことを否定されて、「直感だ!直感だ!」の一本槍で、特に過去の宗教の先人達の教えを否定され、自分は宇宙からの使者だ式のことを盛んに言われますが、子供の私に臨んだ声が本当に旧約聖書の神であったかどうかのの真偽はいまさら出来ませんが、私が子供の頃に聞かされたいた声の教えとは真逆の方向です。
私はある霊能者から貴方は「第十識界」に上がってくださいと言われて、いくら何でも無茶なことを言うのですか。お釈迦様でも第七識界とされているのに、私が如き者が行ける世界ではありません。天帝の御座所ですよと返答しました。
この「識界」とは、仏教で説かれる全宇宙は「六界」で構成されているとします。その六界とは、「地界」。「水界」。「火界」。「風界」。「空界」。「識界」で、地界・水界・火界・風界・空界は物質界を構成する要素です。「識界」は精神世界を指した言葉です。よく言われる「六根」とか「六道」とは別の「識界」です。
お釈迦様やイエスや弘法様や日蓮さんは、この「識界」レベル上位で語られる存在で、世に出ておられる神々が別格の存在だと言われるのは、世に出ておられる神々よりも識界レベルでは高いのです。
私が神霊世界に修行に入った時、私の側には常に三体のお坊さん姿の方が居て、私に対して何を言われるでもないのですが、私を守っていてその様子を見ていて真ん中の方は「日蓮」らしき方。だが「日蓮」さんでは意味が解らずに居ましたが、後日それは「日蓮」さんであったことが解りました。
どうして私に「日蓮」さんが出て来ておられたのかの理由は後に解りましたが、私の師匠であった方が「日蓮」さんは特別の方です。自分とは比べようもない存在と言っておりましたが、スピリチュアルの方達とは段違いの霊能力を持たれていた師匠でも、日蓮さんと師匠自身の識界レベルの違いを認識されていたようです。
本来ならばこの世に降りて来ないほどの霊界の方達が、この世に降りて人類に教えを説いたのです。スピリチュアルでお釈迦様やイエスや弘法さんや日蓮さんが自分と同等だと思っているような存在の方達ではないのです。
巷で自分の過去世は「お釈迦」様であったと名乗っている方は多数居られますが、どの方も識界レベルで見ると、あり得ない低さなのです。別に
スピリチュアルで言う「神は光」などで判断する必要はありません。なまじ光の判断で行きますと、自分より光の強い存在を見ると、その方の前世がお釈迦様でもなんでもないのにお釈迦様であった方などと、誤った判断を犯してしまうからです。ほとんどのスピリチュアルの方達は、そうした誤りに陥るのです。
十数年前、ヤフーの掲示板に某宗教を語ろうの板がありました。アンチ派も大歓迎と言うことでスレッド主とかなり議論しました。そのスレッド主は自分には霊能力があり、自分の霊能力では教祖様は金色に光輝いておられるです。その教祖様の自称名を言えばほとんど知らない方はいないでしょう。その霊能力がある方にはその教祖様が光輝く金色に見えたのでしょうが、その方が自分は霊能者だと言うのにはあまりにも霊界レベルが低い。行者の世界に入ると通用しないレベルです。単なる霊感者レベルです。
そのレベルだと、白狐から【下郎の分際で頭が高い】と一喝されてしまうレベルなのです。
稲荷行者の中にも、白狐霊程度にこき使われている方達があります。それでも「人助け」が出来ているならば、それはそれでいいわけです。だが、それをもってして「神の世界」が解っているようなことを言ってはいけないなのです。
そうしたレベルで、教祖様は光輝いておられると言われてもです。私の過去のブログに光かと思ったら天狗さんを書いておりますが、かなりのレベルの霊能者の方でも「光」に欺されるは起きます。
だが、その方の霊界レベルが高いとしても、「霊能者ならは見抜けるかと」言いますと。そうは行かないのです。一人一人が見る「光」の範囲とは限定された光の世界であり、自分とかけ離れた世界の光だと逆に見えないのです。非常に霊界レベルが高い存在の方だと、光を見て判別するは不可能に近いのです。
私はへぼ碁を打ちますが、自分と碁を打つ方は上は2~3目の石を置く方。私が石を置かせる方は2~3目程度下の方。それを外れてしまうとどちらも打ちづらいのです。光の世界も同様なのです。あの人の光は凄いと言っていても、それは自分より少し上程度の方。段がかけ離れてしまいますともうその光は見えないのです。
なまじ霊能力があると、自分が持つ光を物差しにして、それに当てはめようとするから誤ってしまうのです。ニセ創造神。ニセ仏陀に引っかかるのは、自分の光がそれほどの光でないことを自覚せずに、自分は高い光の者と思い込んでいる錯覚から生じます。
これらのことは、私は「神名機関説」として述べて来ています。
イエスの教えに有名な【幸いなるかな貧乏人】があります。これは完全に舌足らずの教えです。「貧乏人で幸いだった」などはあり得ないのです。それはその前の「金持ちが天国の門をくぐるのは針の穴に駱駝を通すようなものだ」に並べてしまったからです。
確かに「金持ちが天国に渡るのは至難の業」です。それを逆手に取って、金持ちでは天国に行けないから、我が教団に大金を寄進しない。それが公然と行われています。
日本最大級の某宗教団体の大幹部の講演テープを聞いていましたら、「地獄に落ちたくないのであれば教団に大金を差し出せ。差し出せ」と何回も何回も脅迫的に言っておりました。逆にそれが庶民のなけなしの財産をむしり取る教えになってしまっています。
そうした金で大金を集めて教祖様や幹部達の贅沢な暮らしに使われているとしたならば、その教祖や幹部達は「幸いなるかな貧乏人ではあらず、天国に行けない人」となるのです。それが「道理」だからです。
今の日本で億万長者など、どうということもありません。野球選手でドラフト会議にかかれば契約金だけでも1億円貰えるでしょう。それで地獄に行くなどあり得ません。アラブの王様ともなれば、何百億円のジェット機をポンと買います。何兆円もの資産を持つ人がけっこう居る時代です。毎年毎年億単位の収入があるような人は金持ちでセレブと言えますが、金持ちの意味が違うのです。金に執着の金を持つの金持つの意味です。ですから、
金に執着していれば貧乏人でも天国には行けません。
自分の全財産を神界の御用に吐き出せという教えはあります。私が豊受様から現在地に家を建てて移れと言われた時、そんな費用は無いと抵抗していたら、私の母親の預貯金の利子まで計算して、母親にこれだけの金があるから吐き出せでした。で、その時には私と母親の全財産を吐き出してスッカラカンになったことはあります。でも、私自身は会社勤めをしていましたし母も年金が貰えるで先は別に心配ないので、そこで一度財産を「ゼロ」にしてしまうをしたわけです。
その時、その豊受様が私の母親に面白いことを言われました。
金はあの世に持っては行けぬ。新しい家を建てて、その新しい家で残りの人生を楽しむが良いです。それは確かに「道理」なのです。
だが、スピリチュアルで自分に懸かった神霊を名乗る霊から、あちらに行け。こちらに行けと命じられて、貯金も財産も全部使って、
借金してまでの神界の御用などはあり得ないことです。私は借金してまでの神界の御用を言われたら、即座にお断りします。 神界の御用で、サラ金地獄に叩き込むなど正神がすることではありません。それは邪神と言えます。金を一度捨ててしまうは、金には執着しない心の養いです。
また、自分が働いて自分を養えないも、その段階においてはその方には「正神」が降りている状態とは言えないのです。自分に神の世界の御用があるとしたならば、その人がこの世で生きて行く為に必要な財とは神がキチンと授けて来る物なのです。
お釈迦様の教えに有名な【貧者の一灯】があります。だが、どれだけの人がこの意味を理解しているかとなりますと、かなり危ういのです。
今日の食べ物に困るような貧者が居て、手元に数百円程度しかお金が無い。それを使えば明日の糧にも困窮する。その中から買ってくれた一つの灯火の油代、それは何千億円の大金を持った大金持ちが一億円寄進してくれた金額よりも尊い価値の物の意味です。
何千億円の大金持ちにとって、一億円寄進したところで痛くも痒くも無いでしょう。しかし、数百円しか持っていない貧者にとっては、それは自分が食べる物を削って差し出す話です。
自分が払う【犠牲の割合】が違っているのです。こうした場合の貧乏人が【幸いなるかな貧乏人】の貧乏人なのです。
この日本には【神は乞食の姿で現れる】があります。それ自体は「素戔嗚尊(武塔神)」が貧しい身なりに一夜の宿を乞うた「蘇民将来」の話しに根はあるのでしょうが、
神が試しているのは、その人に「誠」が有るか無しかなのです
貧乏人とは、自分の財(貝)を他の人に分け与えて乏しくなった人(分・貝・乏)
これが日本の昔話になると「月にうさぎ」の話しになるのです。自分には神に対してて何も差し出す物がない。為に我が身を捧げましょう。
神が望んでおられるのは、神に捧げ物として我が身を捧げたうさぎの心意気です。これを私が説くと、
神の祭壇に「牛と羊の血を捧げなさい」です
牛と羊で構成する【犠牲】という言葉。
「牛」は「和魂」で「和とか睦」を意味して、五情では「悔いる」です。
「羊」は「幸魂」で「愛とか恵」を意味して、五情では「畏れる」です。
自分は何時も何時も「命」ある物を食して生かして貰っている。ならば、時には自分の命を食べてください。これがお釈迦様の教えでは【捨身飼虎】になります。だが、それは金銭に換えて「社会福祉」に使っていただくがあるわけです。弱者に奉仕です。
金持ちであっても「社会福祉」に大金を投じている方達が地獄に行くなどはあり得ないのです。貧しい人の為の病院を創ったり、学校を創ったりで社会貢献が出来るのは、貧乏人ではなくて金持ちほど出来るからです。
それを誰に対して何を差し出すかの話なのです。【世の為に人の為に尽くす】とは、金持ちの方が出来るのです。世の為に人の為に尽くしたということは、【神様に対して尽くした】というこです。
だが、自分の魂磨きをせずに、自分の外形を飾る為だけに大金を浪費して、弱い人達のことを考えずに自分だけが豪華な食事を毎日しているであれば、これは死後に地獄に叩き落とすしかないのです。
そこに、閻魔が何故にこの世の【良心】神となるのかです
人が「誠」を貫けるのは、そこに「良心」神が存在する時なのです
羊の言葉は善(譱)であり、それは「万人に対する愛」と結びついた時「愛善」となって行きます。自分の家族だけに対する「愛」は愛善ではなく、それはお釈迦様の弟子であった目蓮尊者の母親が「餓鬼地獄」落ちたが例題として説かれたわけですが、盲目の愛を引き起こすだけのことなのです。
盲目の愛は地獄行きです
こうしたことは、これまでに出られた先人達が説かれたことです。先人達の苦労の末の結果を今、享受出来る私達にはその学びを得ることで「天国門」が開かれるのです。
人に【甘い言葉を囁いて】、地獄に導くは邪(蛇)神
人に【厳しい叱りで】、鬼と言われても悪に導かぬは正神
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