今はそのブログが諸般の事情により更新されなくなっていますが、ある人気ブロガーさんが拙宅まで2回も来られてお話をしていると、【霊は嘘つきだ】とおっしゃいます。霊は嘘つきだと言えば嘘つきなのです。
そこで私が【霊の言葉の百の中で一つでも当たっていればよしとしなければと】返答したところ、そのブロガーさんは【百に一つも無い。万に一つぐらい】だと言われるので、さすがに苦笑するよりありませんでした。かなり霊界での霊の欺しに遭遇されて痛い目をされた体験が「豊富」なのでしょう。
霊が出す言葉は全てが嘘ではないのです。だが全てが嘘だと言いたい意味は霊界体験すれば理解出来るのです。
それは、
巷には自分の前世は釈迦でした。イエスでした。弘法大師でした。自分は天照大御神です。素戔嗚尊です。救世主です。メシアです。そうした名乗りをされる方は「ごまん(巨万)」といらっしゃいます。無論、そうした名乗りをされる以上、霊的なものが見えますし、霊の声が聞こえる。そうした霊能力は確かにお持ちの方です。またその方に従う信徒もそれなりにお持ちでしょう。
自分の霊能力で相談者に告げる内容が当たるから、その人が自分の前世は釈迦だと言えばお釈迦様であったと信じてもくれる人が出ます。自分が天照大御神だと言えば、そう信じてくれる人も出るのです。
最初から、まったく何も当たらないでは誰も信じてはくれはしないでしょう。その意味では霊が出す言葉が全て嘘ならば、誰もそうした名乗りをすることもしなったでしょう。ですから、霊の当て物的なことはよく当たるのです。
霊界と関わると非常に便利なことがあるのも事実なのです。
しかし、
そうした「自称」達を100人集めれば、100人が100人とも【自分だけが本物であり、他の99人は蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊達に欺されている者達】と言われます。それはどなたも霊的世界が蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊と呼ぶような存在ばかりだということは理解されているわけです。
そうなりますと、100人中の一人だけが本物であり、他の99人はニセ物となりますが、そのことを言う自分は他の99人の自称者からすると、やはり「ニセ物」の一人だと他の99人からは言われているのと同じです。それは結果論として、全員がニセ物だとなるわけです。そうなりますと、
そうした自称は霊に欺されているのであって霊は嘘つきだとなります。
今の世の現象は、あまりにも霊の言葉に踊らされている霊感者が多いのです。
昔は少々の霊感。霊が見える。霊の声が聞こえる程度のことであれば、優秀な霊能者の方はそうした霊感を消されていました。なまじその程度の霊感で霊界に関わると危ないからです。そうした霊感を消しても消しても残る。そうなると修業をなさいだったのです。
そうした修行を積んで、ようやく霊能者のタマゴと言えました。
だがそれが出来る優秀な霊能者の方の存在が無くなり、逆に少しばかり霊感者を大金でセミナーを催して低級霊の容器とする。そうしたことをする人が増え出したということなのです。
豊受様は○○○○○をすれば、将来は廃人になると言われておりました。私の2番目の師匠も同じ事を言っていました。その○○○○○をすれば幻影が見えて来ます。自分は体外離脱したと思うのです。だが、本当の霊界でもなんでもないのです。麻薬と同じ様なことで脳が幻覚に犯されて見る物で将来は廃人の道です。だが、それが霊界の真実だと思ってブログを書く人が後を絶ちません。
その○○○○○のことは何人もの者の方がブログでも注意喚起をされていて、インターネットで検索するとそうした内容が出て来ます。だがスピリチュアルだと言っていれば良いと思う人は、
そうした他からの学ぶもせずに、今は良いとしても将来は廃人の道なのです。無知なる人の導きに乗ると恐ろしいことになります。
私が子供の頃に臨んだ旧約聖書の神と名乗る声は、私に
「人は生まれて死んで、生まれて死んでを繰り返している。人は誰しも過去世を背負っている。では、何故に人はその過去世を思い出さないのか?。人はこの世に出て来るのは過去の失敗の償いや欠点の更生の為であり、過去世を思い出せばその障害となる。為に人は過去を思い出させないようにされているのであって、それはこの神の温情である。時にはその人がそれは過去世の自分であったと知ることもなく、過去の自分を尊敬するも起きる。人は自分の前世は○○であったなど言ってはいけない。ましてその名を使って今の自分を高く見せようとしてはいけない。今の世の名をもって自分の名を残さなければならない」と言われたのです。
過去の偉大な宗教者や神の名を使えば、自分がニセ物となるなのです。仮に、その方の前世が本当に「お釈迦様」であったとしても、今の自分がその昔のお釈迦様のレベルに達しているならばその前世は正しいかも知れません。だが、今の自分がそのお釈迦様のレベルに行っていなとなれば、自分は釈迦であった等と名乗るべきものではありませんし、お釈迦様では無いことになります。そこまで行かないとやはり「ニセ物」なのです。
お釈迦様のレベルに達して、自分の前世は釈迦と言える
イエスのレベルに達して、自分の前世はイエスと言える
弘法大師のレベルに達して、自分の前世は弘法大師と言える
残念ながら、世の自称者でその段階に達している方は私が知る範囲の中では存在しません。広い世の中ですから全面否定は出来ませんが、自分がそうした存在だと名乗られる方は、ほとんどが「贋(ニセ)者」と言えるのです。
スピリチュアルで自分はある程度高い者と思っておられる方が、そうした「ニセ者の自称釈迦」に引っかかってしまわれました。だとすれば、そのニセ物に引っかかったその方は、自分はそれ以下の霊界レベルなのです。決して高くないレベルなのです。なのに自分が欺されたことに気がついても、まだ自分は高いレベルだと錯覚し続けてしまうのです。
私は私が子供の頃に臨んだ声が、旧約聖書の神と名乗っておられましたが本当に旧約聖書の神なのか?。それは私には解りません。ニセ物が私に臨んだのかも知れません。しかし、その声が私に言った
「この国(日本)は私の教えが満ちあふれた世界で唯一つの国である」が日本語と言う言葉の仕組みであることを紐解きましたので、その意味では私に臨んだ声は「神は言(ことば)」と呼ばれる存在ではあるでしょう。
大本教神諭に「九つ花」を誠で紐解ける者は世に唯一人と予告はされていますが、それを解いたわけです。また、朝鮮に残されていた最後の審判前に救世の為の「米」一字の教えが起きるとありましたが、「米」一字が出せたわけです。それは覆しようがないことなのです。
ただ私は、霊能者のような霊能力は与えられておりませんので、さほど霊を見たりその声を聴くはないわけです。ですから「客観的」に見ることが出来ます。
霊的世界は欺されに欺されて、なんぼです。自分は霊に欺されたことが無いと言えば、完全なお人好しかバカです。まったく「叡智」が備わっていない者と言えます。
そうした霊の欺しから這い上がって来るような人で無いとなかなか本物には成長しないのです。
しかし、だいたいは自分が霊に欺されていることにすら気づかない人が大半です。特にスピリチュアルはその典型です。
イエスやモーゼか自分に降りて来た。ならば貴方は自分はそのレベルに達している者と本気で思っているのですかなのです。
ある昔話があります。病床で自分の死期が迫って来ていたある「居士(在家の修行者)」の前に、金色に輝く阿弥陀様が現れた。それを見た居士は、自分は死の前に阿弥陀様が迎えに出て来られるほどの者ではない。悟りを得た者では無い。これはニセ者に違いないと、病床から起き上がると近くにあった弓でその阿弥陀如来を射た。すると矢を射られた狸の死骸がそこにあったです。
まず、自分を知った時、自分にそんな偉大な存在が自分にかかる程の者であろうか?。自分の能力と比較して疑うべきなのです。
私の最初の師匠は豊受様の御代をされており、阪神淡路大震災や普賢岳爆発など事前に告げておられます。また市町村の依頼で温泉を掘る場所を当てたりもされています。ふるさと創生資金が各市町村に一億円配られた時、市町村の中にはそれで温泉を掘って町興しがありました。当時温泉掘りは失敗せずに一億円はかかるとされていました。公金なので、そこを掘ったが温泉が出て来なかったでは許されないのです。専門業者に依頼しても必ず掘り当てられるものではありませんでした。
そこで最後の神頼み。いくら神社の神主でも、拝み屋と呼ばれるところに話を持ち込んで温泉が出ませんでしたでは、町長や担当者の首が飛ぶ問題になります。事前にその霊能者としての評価の下調べをして、この霊能者の方ならば間違いが無いだろうでその話が来たのです。見事に一発で温泉は出ました。
では、
巷で自分にイエス様が降りて来る。マリア様が降りて来る。天使長ミカエルが降りて来るで、それで豊受様のように言い当てられるかなのです。まず無理です。不可能です。
大本教の出口王仁三郎聖師の予言とは、ことごとく当たったと言われるほどの正解率であり、しかも世を動かすほどの大きな出来事の予言でした。個人の恋愛運ではないのです。
本当に自分に天使長とか大天使が降りて来ると言うのであれば、東日本大震災でも簡単に予言できるでないとそれらはニセ物霊かも知れないのです。
しかし、その豊受様の御神示も100発100中であったかと言うと、やはり外れはありました。私がその師匠のお供を仰せつかって見聞して来て、その正解率は80%ぐらいだったと思われます。だが、それは霊能者としては超一流です。
はっきり言えば、どんなに優秀な霊能者でも100発100中はあり得ないのです。何故にそうなのかは、それは神界のメカニズムを知るならば、100発100中は無理なことぐらい簡単に解ることなのです。
豊受様はご承知のように伊勢外宮の神であり、稲荷大神首座神です。しかし、伏見稲荷山の稲荷神が全て豊受様の命令に従うかと言うと、豊受様は半数だと言われます。中には反豊受の稲荷神も居られます。非常に強い力を持って伏見稲荷山でも人気を博しておられます。その人気の稲荷神の信仰者に対しては、ほとんど力は及ばないのです。
稲荷神は正神界だと言う霊能者もあれば邪神界だと言われる霊能者の方もあります。それは稲荷神と言えども一本にまとまっていないからです。正神と呼ばれる存在も邪神と呼ばれる存在もあります。
会社でも主流派と反主流派があって、何かともめて争う。社長の命令でも全社に通らないなども起きるわけです。
私は豊受様には危ういところを助けて貰っておりますが、その豊受様が私に言われることがことごとく当たらない。私の師匠が不思議に思って豊受様に尋ねられたところ、
あの者はこの豊受をして見えない解らない霊界の壁の外から来る神力にコントロールされていて、この豊受をもってしてもいかんともし難しと言われました。
実は世に出ておられる神々でも御存じない上部神界が存在しているのです。その世界にこそ創造神は存在すると言えるのです。その世界はこの世に出て居る神々にも解らないように覆い隠されているので、私達人類がそれを知る迄には到らないのです。
その神々でも解らない世界から打ち出されて来るのが【嘘(ウ・ソ)】と呼ばれるものなのです。仏教でこの世は【虚空蔵】から出て来たとします。その虚空蔵の菩薩を虚空菩薩と呼び、その虚空蔵菩薩が守護しているのは「牛歳と虎歳」とします。
大本教が世に出した「ウシトラ金神国常立尊」には「牛虎」もあるわけです。その虚空の「虚」や「虎」にあるのは「虍」の字なのです。虎は「寅」で「演じる」なのです。ですから「劇」にも「虍」が出て来るでしょう。
今の世は「七」の世の店開きなのです。
虍から 虎(寅)。虚。嘘。劇も出て来るのです
創造神の言葉の「演技」が解りませんか?
日本の諺に
嘘は「誠」の皮、「誠」は嘘の骨があります。
これは「真実」を覆い隠すのが嘘であり、嘘をあばけば真実が見えるなのです。
それに似た諺に
「嘘にも種が要る」があります。
嘘を言うにも、本当らしく見せる為の材料が必要だと言う意味です。
霊界の真実は、霊の「嘘」の言葉の皮を叩いて真実の「骨」とするが【誠】
創造神の種明かしは、言葉の仕組みで「人に内在する良心神」が種
その真実の「種」は、周囲を嘘(ウ・ソ)と言う存在で固められていたのかも知れません。
見えない世界を知るのには、「霊能力」だけでは無理です。逆に霊的なことがなまじ見える為に欺かれたり・欺されたりの人が続出しているからです。
私のブログに「観音として自分を祀れと言った大白蛇霊」を書いておりますが、盲目になっていれば「真実」は解らないのです。
今、
私達はこの世に生きています。で、死ねば終わりがそもそも「嘘」なのです。昔から言われるように、この世からあの世へです。そして、あの世からこの世への繰り返しだからです。
だが、神の温情で私達は過去世の自分の過ちの轍を踏まないように、過去の記憶が消されているのです。では、霊能者から貴方の前世は何々と言われて、その前世を思い出すことが出来るでしょうか?。出来ないはずです。
もし、過去の記憶が一瞬でも出て来るとすれば、それはその魂に「トラウマ」として残ったようなものがフラッシュバックで出て来るに過ぎないのです。
私は御神霊から数名の方に関して、その方が過去で体験された出来事を光景として見せられたことがあります。それはその人に「カルマ」として残った出来事だけです。その魂そのものに「傷跡」がついているからです。
私はこれまで優秀な霊能者の方と何人も出会いました。だが、どなたも貴方の「前世」などと言われませんでした。
私は豊受様のお世話で霊界修業をしていましたが、豊受様は私に一度も貴方の前世はと言われませんでした。御存知無いではないのではないのです。解っていても言わないです。
その師匠がこの世を去る前に、私の神界における身分を始めて明かしてくれました。だが、それを世間に公表しても何の意味もないのです。
自分にそれだけの力が備わった段階で、始めて言えることだからです。
私が子供の時、私に臨んだ声が私に言われたのです。【私はそなたが何者か、神々に解らないようにしておく。無論、そなたも自分が何者かを知らない。されど、そなたが何者か解らぬ神であるならば、それは使い物にはならぬ神】。
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