人に内在する良心神(神言会)

神は言葉なりき。言葉は言霊で構成され、その言霊による神の仕組みを解説する神言会(kamikotokai.com)のプログです。
神言会では人に内在する良心神(この世の閻魔)とは何かを説明しています。

最後の審判迄の【時は金なり】と四ッ花で知る甲斐の【風林火山】。そして、解釈誤りのお詫び。

私は大本教神諭予告の「九つ花」を「誠」で紐解きました。が、「九つ花」以外に大本教神諭には出て来ない「四ッ花」と呼ばれる存在があることも知りました。否、知りましたではなくて、それは外部からの知識で知ったのではなくて自己の内部に存在する意識からです。世間に「四ッ花」と呼ばれる存在は出ていないからです。そうしないと、大本教が世に出した「十三(ス)」の仕組みの解読が終わらないのです。

この十三の「ス」神とは、アイウエオの第十三番目という単純な仕組みではなく「九つ花」と「四ッ花」を足した意味なのです。大本教の出口王仁三郎聖師が自分は「素戔嗚尊」だと名乗って演じられた「スサノオノミコト」の頭文字の「ス」神の意味でもないのです。

大本教神諭予告の「九つ花」の経緯(縦横)は「九×九」です。すると「四ッ花」も同様に経緯(縦横)は「四×四」でなければなりません。

ある方からメールを頂きまして、長年に渡る「九つ花」の解読ご苦労様でした。が、残る「四つ花」がありますね。そちらの「四ッ花」の解読もお願いします。です。
世間では大本教神諭予告の「九つ花」ですら、何も解ろうとしていない人だらけの中で「四ッ花」の存在を知る方が居ることは私にとっては嬉しいことでした。しかし、その方にしても「四つ花」が何を語るのかは解らないでした。
おそらく「四ッ花」という言葉を知っておられる方は若干名かと思います。言霊ですら言葉としては知っていても、それが何であるかを知っている方は若干名でした。御神霊と呼ばれている地位にある霊ですら、【神は(言で)示し申す】を理解していないという有様が現実だからです。人々に現世御利益を与えればそれでよいのだ!。それが蛇霊や野狐霊や狸霊や猫霊に「身変える(ミカエル)」現象を起こさせているからです。


私が「四ッ花」の存在に気づいたのはかなり昔のことで紐解こうとしたのですが、それは言霊の仕組みとは別物で、言霊と数霊の組みを合わせでは紐解けないのです。難問も難問で頭を抱えていました。 当時の私が考えていた「四ッ花」とは、私の意識の中に出て来る意味は

【獅子】。【破瓜(はか)】。それに【猪(しし)】です

一般的には「猪」を「いのしし」と呼びますが、関西で「しし肉」とは「猪肉」のことで、鉄砲打ち(猟師)はこれを「シシ打ちに行く」と言うように、関西地方では「シシ」と言えば「猪」を指します。この語源を探れば大和言葉で「ヰの肉(シシ)」なので「い(ヰ)のしし」なのですが、この「ヰ」は「井」の変形です。その意味することは「枠に囲まれた存在」です。

獅子は「四×四」から導く「獅子」です。「破瓜(はか)」は、その「四×四」は十六の「隠語」からです。「瓜」は宇宙の「宇理」を秘めたものなのです。その「宇理」を出すことが「破瓜」であり、一般に使われる「破瓜」の意味とは別物です。猪の子供を【瓜坊(うりぼう)】と言いますが、猪の子(瓜)を破る「破瓜」も存在して来るのです。

主の神は「墓」を暴いて現れるとも言いますが、「破瓜」を暴いてとも言えます。


「九つ花」はお釈迦様の悟り、この世は「苦界」であり、その苦(九)界の中から咲かせる花。一方【四ッ花】は「死の花」なので、この世の終わりの最後の最後の時が来る前でないとその意味は紐解けないだろうと見ていました。

これらのことは最初に「日本語」が【神の言葉】であり、その「神の言葉」の使用が許されているのは日本民族だけであることの理解を必要とします。スピリチュアルで西洋のマリアだとかミカエルだと言っている者達には「日本語」の意味は絶対に理解出来ないことなのです。

私は全国一の宮の最後の巡りとして、九州一周。そして「四つ花」の解読の鍵は四国にあるかと四国も一周しましたが、四国にはその解読の鍵は存在しませんでした。

四個の「国」の四国以外に【四ッ花】の鍵はないはずだがと、自分でも首を傾げておりました。


四国は弘法大師の「八十八カ所霊場」があるところです。この八十八は「米」の字を分解すれは「八十八」であり、遍路旅のご接待は【善根宿】と言い。「米」の「世根」として、「犠牲と良心」の発露である「善根」は既に弘法大師が説かれていることです。どちからと言えば「九つ花」の内容が説かれているのであって、「四ッ花」ではないのです。


この1月25日。私は「夢」を見ていました。私に出て来る夢は【判じ物】と呼ばれる類いの物で、その夢の意味を解読することによって、天からのお知らせを受けるです直接に私に言葉で卸せば簡単だと誰でも思うのでしょうが、霊界では常に情報を「盗み目・盗み聞き」をしている邪神邪霊がいて、そうした知識を得ると、

自分が創造神だとか高級神に成りすましに入るからです。為に重要な情報は直接の言葉では天から卸せないのです。全て暗号化した映像なのです。

また、霊的世界に関わっている確かな人達は、霊界の上層部から来る知らせは私達人間に直接降りるはないと言われます。為に中間に「媒介天使」の存在が語られますが、自分に創造神(マスター)が直に降りて来る等と言うスピリチュアルとは、蛇や野狐や狸や猫の霊に踊って、あり得ないことを言っておられるのです。
為に、そうしたスピリチュアルの方達は、神は言葉の仕組みを示されてもそれを理解に到ることはないのです。

その朝の夢は、私が今日まで見たこともない構造物ですが「時計」であることが解りました。その次に小粒の金が見えて来ました。その小粒の金を見ていて「甲州金」だと解りました。甲州金は独特の形だからです。
甲州金とは日本で初めての貨幣制度で、武田信玄が造らせた金の貨幣だとされます。これが後の世に慶長小判にと進みます。

その夢そのものが意味することは「時計と金」なので、諺の

【時は金なり】

その少し前の1月10日男性の声で私に「おはようございます」と言って来ました。前回のブログに書いたことですが、この「おはようございます」は朝の意味ではなく、「もうその時期は早いです」よ言って来た意味です。で、その後に「おにあけ」と言って来たわけです。

この「時は金なり」と出て来たことは「おにあけ」までに残された時は少なく、その経過時間は「金」に匹敵する価値を持つです。その僅かな期間に「金に匹敵する価値」を積み上げなさいとなります。
私達に残されている「この世の時間」は後わずかであり、遊んでいればその時をムダにするのです。永遠のみろく世の地位は、今生の終わりの時の魂の点数で決まるからです。ですから、魂の点数をかさ上げしておくことは「金」の価値を持つのです。それは一時の地位ではなくて、永遠の地位です。輪廻転生が終わるからです。

悔い改めが早ければ早いほど、金を積めるのです。


そして、隠された意味に「甲州金」が出て来たことです。金ならば「金塊」も「小判」もあります。また、金銭的意味であれば福沢諭吉の今の一万円札を積み上げてあってもいいことです。そこに「甲州金」が出て来たことに意味があるわけです。

甲州金の意味は【武田】です。【甲斐の虎】です。その武田家の「家紋」で「四つ花」に気づくことが出来ました。

甲斐の虎の武田家の家紋とは「四ッ割菱」ですが、その武田家の家紋とは直接の関係はありません。どこまでも型見せです。
江戸時代の貨幣は武田家で制度化された「四進法」が使われました。その武田家の四進法とは

一両は4分 一分は4朱(一両は16朱) 一朱は4糸目(一両は64糸目)。

四ッ花とは、図形化すると次のような感じのことを指すのです。



私達の肉体の中にある「魂」は、日本神道では【一霊四魂】として知られます。そのことはこのブログでも何度か述べて来た事です。そのこと自体は多くの日本の神道家の方達からも説かれているはずです。また大本教の出口王仁三郎聖師を初めとして、多くの宗教家も「一霊四魂」は出されました。そんなことに一切おかまないなしがスピリチュアルと言えます。




そうした中で、大本教の出口王仁三郎聖師が説かれた【一霊四魂と五情】の関係は「秀逸の教え」と言えます。ただ、こられは平面的説明として多用されるのですが、実際にはこの様な形ではなくて、魂全体に混在して広がっているのです。



私自身「うかつ」であったのは、【一霊四魂】の論理は、どこまでも良心神(直霊)が存在してることが「基本」となっているのであって、「スピリチュアル」のように「良心」神を無視して「愛」しか言えないミカエルとかに化けて来る蛇霊類に支配されていると、そこに「直霊」そのものが存在しなくなっていることでした。
出口王仁三郎聖師の「一霊四魂」説ばかりを見ていると、そこには「曲霊(悪神)」であっても「直霊」が存在していることになるのです。しかし「九つ花」で見ると、良心神の場を【空く間】にしているのが悪魔であって、曲霊(悪魔)はお釈迦が悟られたように存在していなのです。単なる現れ(表れ)です。存在しないということは、「空く間」では出口王仁三郎聖師が説かれた「一霊四魂」の論理がそれには該当しないのです。それは「四魂」の現れなのです。

現われ(表われ)は、魂の汚れを「洗えば」消えるもの


何故に私に最後として四国の入口、阿波から全国一の宮を巡れと出たのか?。四魂の洗いです。


空く間(悪魔)は「四魂」のみの時の現れなのです

自分が反省したり、悔い改めた時には空く間(悪魔)が消えて、「良心神」が入って来るのです。曲神は四魂が創り出すもので実体が無いのです。私自身、出口王仁三郎聖師の解釈の誤りに気づいていませんでした。振り返ってみれば、良心神が曲神に成ることそのものがないからです。

ここに、それを解説出来ていなかったことをお詫びいたします


そもそも【人に内在する「良心神」】とはお釈迦様の悟りであり、お釈迦様は「悪魔は実体の無い現れで有り。人には良心と呼ばれる神が内在する」でした。為に「九つ花」の仕組みは大本教神諭が説いた「この世の閻魔」であり、【五十六億七千万】も出せるわけです。悪魔とは実体は無い現れだと理解出来ないと「悟」りには到らないのです。

そもそも悪の「亞の心」は、主の神の命令に従わない者達です。
「主の神」を亡き者として「墓(ハカ)」に葬った者達の意味です。





良心神が無き(亡き)者は

人の姿をしていてもその魂は「獣(四つ足)」なり


大本教神諭に世に出ている神々が「四つ足」であることを暴くぞとあります。なお、この四つ足とは「四魂のみ」の者を指すので蛇霊や西洋で言う翼を持った霊達も同類です。八根の意味を異にしているのです。

獣の者(猪)は「シシ(四四)」なり

今回、「甲州金」によって「四進法」の意味が理解出来ました。
振り返って考えるならば、神は造化三神としても語られますが、「陰陽」でも語られます。大本教から厳霊(陽神)として「国常立尊」。瑞霊(陰神)として「豊雲野尊」が出されました。

私達の魂は「陰陽の合体」であり、当然に四魂にも「陰陽」があるのです。だが、これまで世に出されて来た「一霊四魂」図では、陰陽が抜けているのです。




私達日本人がこのことに気づかなかったのは、日本の御神霊を語る時、○○之命は大国主様の「和魂」。△△之命は大国主様の「幸魂」である。そうしたことばかりから、そこに「陰陽」の組合せがあることが抜け落ちていたのです。

この「16の型」から出せる「四魂」の組合(パターン)は「256」通りあるのです。それを解りやすいように「ABCD」で組んだ物が下記の図です。つまり、私達が持つ四魂は「256」の組合せのどれかなのです。四魂の組合せが違えば、おのおのの魂の性格も異にするのです。


 
【性格】は生まれながらの心(忄)の違い

各自の性格はその「256」の中の組合せの一つだとして、それでどうしたとなります。確かに、それでどうしたなのです。為に「四ッ花」の存在は、「四魂」としては出されてもこうした組合せは世に知られることもなく来たのです。

ただ、この「256」はコンピュータで盛んに使われる数字であることから、ロシアでは1月1日から256日目の9月13日はプログラマーの日とされます。但し、閏年は9月12日とにります。
9月13日となれば、大本教から出された「九つ花」。そして「十三のス神」も神のプログラム(計画)の一端と覗えるわけです。九つ花も「数字」の羅列です。

それはスピリチュアルで、自分にはマリア霊とかミカエル霊とかカブリエル霊が降りて来ると言う霊感女子達に降りている霊とは、異次元の存在の神ということなのです。

最後の審判において【地獄の釜の蓋開け】が予告されているのですが、ある数百人から千数百人程度の規模と推察されて何冊もの著書がある某教祖様が、自分は最後の審判で【地獄の釜の中に行く。その時には自分の信者達諸とも一緒に地獄の釜の中に連れて行く】と述べておられますが、自分がそうなると解っていても他の者を道連れに連れて行こうとされる。
それは自分に「良心」神がないから悔い改めることなく、自分の信徒に「愛」ばかりを説いて、自分を神たる物と思い込ませて自分に対する愛の忠誠として、地獄の釜の中に自分と一緒に来いなのでしょう。そんな人物だと見抜けないとなると、その信徒ももはや致し方無しとなります。

この「四つ花」が表に出て来なかったもう一つの理由は、これが「獅子」をも語るからです。獅子とは「ライオン」が元ではありません。獅子は架空の動物です。

ライオンとは【来音】

聖書では天使達が最後を告げる「ラッパ(喇叭)」音を吹くとされますが、これは「七の世が終わり、八の世の口が見えた時()に刺す(突く)音」で、【皆殺しの音】が聞こえて来ます。
大本教の霊界物語に【鏖殺】とありまして、これは【鏖】一字で「皆殺し」と呼ぶのですが、全員この世を去って次の世にと移行します。何故に鏖殺には【鏖(みにごろし)】の後にも「殺」があるのですかの質問を受けたことがありますが、これは聖書にある一度目の死と、二度目の死があるからです。
一度目の死は現在の肉体を脱ぐ為であり、私達が受けなければならない「審判」とは、二度目の死を受けるか受けないかの話なのです。大本教から「立替」として出されたのは「全員が永遠の死」ではないからです。建て変わった新しいみろく世に生まれる為の死です。

全ての人類を救えるか救えないかは「最初の死」ではなくて、二度目の死の時の話になります。霊界での話となります。で、今の世で「自分が救世主」はあり得ないのです。


いよいよ立替の為、この世の「幕締め」にと向かっているのでしょうが、「甲州金」で示された意味には、

武田の旗印に【風林火山】があります。
獅(四×四)子は「獣の師の子」ですが、獣ではない【師】は頭(かしら)とか長官の意味です。師団と言いますと「軍隊」の編成団ことです。また、天子の最高補佐官です。
が、「師」は一般的には道理を伝えたり、学びを教える。あるいは特殊な芸や技術に優れた存在を指して、「先生(専制)」と呼ばれる人にも使っているわけです。弘法大師等です。
その【師】と同様なのが【帥】で、こちらも同じ頭(かしら)とか長官の意味ですが、軍を率いる最高の将官で「元帥」などと呼ばれるわけです。戦前の日本では天皇陛下のことを【大元帥】と呼んだわけです。
大元の帥(師)に統括された天軍が「終わりの時」には動いて来るのです。聖書ではこれが「万軍の主」となります。


風林火山とは、【疾(と)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如し、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し)】です。
神軍は走る時は風のごとく速く動き(疾風)。その陣は見ていても徐々に林が自分の側に近づいていることが解らぬように静かであり。その攻撃は火のようにすさまじく。動かない時には山のように微動だにしないという意味です。
これ自体は「孫子」の軍略ですが、「最後の審判」と呼ばれるものは、それが来る時は風のごとく来て、それが近づいていることは誰も解らない。その勢いは火であり、それが無い時は泰然としているのです。平和ボケをしていると、その時が近づいて来ていることに気がつかないなのです。

私は「九つ花」と違って、これまで「四ッ花」は意味が解りませんでした。だが、この甲州金で「四ッ花」の意味が解けました。それは武田家の家紋からです。四つの国ではないかと四国を回っても、武田の「菱形」に気づかなかったわけです。

大本教神、この仕組みに「三千年」かかった。スピリチュアルで出て来るような霊では絶対に仕組めないし紐解けないのです。


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