よく夢の中で神を見たと言われる方があります。私は全ての神社ではありませんが、時には神社に鎮座されている御神霊を見たり、祝詞を上げている時には霊界における光景を見るもありますが、夢の中で御神霊を見た等はありません。御神霊は俗に言う霊視の中だけでたまに見るだけです。
私の夢の中に出て来るのは全て自分であって、夢の中の自分がしている行為から【言葉の仕組み】を紐解いています。
あるサイキッカーの方から、「言葉の仕組みを紐解けと言われても、それは無理です。言葉の仕組みは貴方自身が神霊世界で仕組んだ張本人であって、この世に降りて来て自分で言葉を解読されているのですから、他の者に言葉を紐解けと言われても解けませんよ」と言われてしまったことがあります。
私が言葉を仕組んだ張本人と言われてもピンは来ません。では、私は日本語に仕組まれた言葉の仕組みを全て紐解けるかと言われたならば、現実には全ての言葉は紐解けません。ただ、私の夢の中に「言葉」が出て来るのです。その夢の中の言葉を解説しているだけであって、勉学的なことからではないのです。為にその言葉が夢に出て来ないと、私でも言葉を紐解けないのです。
そうした夢の中の一つに「窓」がありました。
窓と言う字は「心」を下にしています。どうして「窓」に「心」があるかです。不思議と言えば不思議な「字」です。正直言ってよく解りませんでした。
私自身、「窓」を見せられて、穴をム(無)にした心の意味か?。だとすれば、その穴は如何なる「穴」なのか?。それとも「宇宙の公の心」のことか?。と考えあぐねておりました。解らない段階で言葉の意味を説明したくないからです。その「窓」の意味がようやく最近解けました。
窓=【真戸】
解ると単純なことでした。しかし、その単純なことも言葉の意味を紐解く発想になかなか行かないわけです。いくら漢字学者の白川先生であっても、そこに発想が飛ばないわけです。私自身振り返って考えるならば、その時が来ないと私にも言葉は紐解けないようになっているです。
真の戸とは「宇宙の公の心」で【窓】なのです。宇宙の公の心を持つことが、真(まこと)の戸を開かせるなのです。
この真の戸とは、各自の魂の中に有る戸なのです。この戸は天帝にと繋がる扉と言えます。
明治25年丹波の綾部で発祥した大本教の大本神諭では、一貫して【我れよし】になるなと神示が卸されました。「我れよし」とは、【公の心】を捨てることです。「私」の損得勘定(感情)ばかりに走ることです。
創造神は公の心の糸(意図)が「総(すべて)」なのです
創造神とお呼びする神には私達のような私利私欲とか情に流されるはないのです。常に「公」の法則であって、何人も「公」を犯さずなのです。犯せば「罰」せられるです。それが「カルマ」として噴いて来るわけです。
スピリチュアルの一部の人達が言う「神は愛だから何をしても赦される」であれば、誰も【カルマ】を背負って出て来ているはずもないのです。私が今生で見せられて来たものは【カルマ】を抱いた人達。その【カルマ】の恐ろしさです。そうしたことを見ないスピリチュアルの人達とはいったい何だ???。です。
私が子供の頃に臨んだ声は私に告げられたのです。「そなたを社会の底辺に置く。そなたは社会の底辺を便所のウジ虫のごとく這ってでも生きよ。その社会の底辺で【人の心の在り方について学びなさい】でした」。そうしたことから、私は【人の心の在り方】に関して学んでいたのです。
そして私達に対する「公」とは、【世の為、人の為に働く】と言うことなのです
その大本教から「伊都能売(いずのめ)」が出されました。だが、この「伊都」は「意図」の「糸」でもあるのです。
私は「伊都能売」の字を見ていて首を捻っておりました。私に出て来る言葉は「意図の目」と出るからです。創造神が意図される「目」のことです。
大本教で盛んに宣伝された伊都能売とは、古事記の中の「神直日・大直日」と一緒に出て来る「伊豆能売」が元で、この
伊豆能売を祭った神社は存在していません。それで埋没神と見られた向きもあるようですが、埋没神の意味が違っているのです。埋没しているのは人々の中の「公」の心の神のことです。
伊都ではなく、
本来の伊豆能売の伊豆は「この豆(真目)」はの意味です。能は才能などに使われる「よく出来る働きとか力」のことです。売は売ったではあるのですが「授けた」なのです。売ったとあるのは創造神との契約(禊ぎ)があるからです。ただし、この売りは「瓜」の言葉に掛かっている「宇理・宇利」なのです。
神直日・大直日は災いとか厄から守られる意味です。それと伊豆能売は一緒と言うことは同様の働きを意味しているのです。
私がお釈迦様の悟りであった人に内在する「良心神」として説いているのは、魂(心)の中の「核心(直霊)」のことですが、これは核で解るように「豆(真目)」なのです。
大本教から「節分の炒り豆にも花が咲く」と出されました。神は大本教と言う宗教を出されて「豆(真目)」の話を出されたのです。
大本教神諭に節分と付けてあるから、炒り豆という狭い限定された考えに陥ってしまうのです。「いりまめ」とあれば、「入り真目」もあるでしょう。節分とは別に2月3日のことではないのです。節目を意味した言葉です。
大本教神諭はそもそも「ひらかな」文章で漢字で出されたものではないのです。自動書記であれば別にひらかなに制約されることもなく漢字でも出せるのです。漢字で出されなかったのがミソと言えます。
大本教神諭に漢字を振ったのはどこまでも出口王仁三郎聖師個人なのです。ですから、大本教の化け物(出口王仁三郎聖師)の言葉に惑わされるなよとあるわけです。
私は大本教神諭の「ここはかんべ」を出口王仁三郎聖師が「神戸」と漢字を振られているので、亀岡の方だから間違ったと気づきました。漢字を打つならば、ここは「漢部」と打つべきなのです。すると言葉の「綾」を出されるからです。また「漢字」の重要性が解ったのです。だが「漢部」は、この地で生まれていないと気づかないものなのです。
大本教神諭予告「九つ花」を紐解けば、創造神の意図は「世の為に人の為に働く良心神」のことだったのです。単なる良い心のことではないのです。
この1月10日の朝。「おはようございます」と言う男性の声で眼を覚ますと朝です。私は時計に目覚ましをセットしていてもほとんどそれで起きるはありません。無意識に目覚まし時計を止めて寝てしまうからです。会社勤めをしていた当時はそうは行きませんが、今は定年で会社勤めを終えた者なので、その当たりはルーズではあるのです。
少し寝過ごししていました。すると、また
先ほどの男性の声で「おにあけ」ですと言います。おにあけ?。地獄の釜の蓋でも開いたのか?。それとも天の岩戸の戸が開いたのか?。それとも「王仁」明け?。鬼開け?。かと考えていました。
すると「徳利」が見えて来たのです。これは
「徳利」ではなくて、隠された宇宙を含めた「瓢箪の口」の意味です。すなわち天につながる「窓」が開いたです。徳利は「徳ある者は利に向かう」です。
1月10日の「110は警察番号」です。
警察とは、言葉を敬い宇宙神を祭る
明治の頃、警察官を「邏卒」と言いました。現代は「巡査」と言っています。だが、巡回すること「警邏」と言うように、今日も「羅」の字は使われます。
俗に「閻魔大王」と言いますが、これは【閻羅大王】で、その城の門が「羅城門(来世門)」で、その羅城門の番卒を羅卒と言い。現代の巡査のことですが
「節分の炒り豆で鬼は外と追われているのは霊界の巡査の鬼達のことで、犯罪の捜査をしているのが鳥居型で罰を型とする「刑事」となるのです。これをポリスと言えばまるで意味が解らなくなるのです。日本語独特の仕組みと言えます。
霊界の警察官(刑事)の鬼達は「110」番で出動開始
それは、
これまでは神が罰して来なかった者達にも「天罰」が降りて来るなのでしょう。もう立替の嵐の中に突入は止む得ないのです。これから先は、いろんな現象が起きては来るでしょう。が、「徳利」があった方は軽微(警備)で行けます。
朝鮮に残されていた予言。最後の審判前、救世の為に「米」一字の教えが起きる。その「米」一字の教えが終わると、最後の審判にと向かう。
大本教神諭は、「米」は一粒だに落とさない。救い上げるとあります。
朝鮮に残された予言には、その「米」一字の教えに従った者達の上には神の罰は下らない。「米」一字の教えに従わなかった者達も、神の罰(×)が取れれば「白」十字によって救われるとありましたが、「×」と「十」の組み合わせの「米」。
この「猿年」はかなり厳しくなると読んではいましたが、正月から株式市場は予想外の暴落を続けました。原油価格が下がるのは日本にとってメリットのはずですが、原油価格暴落で国家経済が破綻に向かうアラブのオイルマネーが日本株を売って資金を回収するという投げ売りが起きていました。
中国経済の減速は予想されていますが、減速と言っても破綻ではありません。経済成長率が減速してもマイナス成長ではないわけです。減速しても成長はあるのです。が、アラブの金持国の動きはあまり予測されていなかったとなります。
そしてこの日本では
バス事故が続きました。その中でバス運転手が運転中に意識を失うが起きています。こちらの方が不可解な事件の連続なのです。疲労ならば話しも解るのですが、霊的世界に関わっていると突然に自己の意識が消えるに遭遇することがあるからです。居眠りならば、誰かが声をかけたりすると元に戻りますが、
意識(魂)が抜けると、我れそこにあらずとなってしまうのです。
大本教神諭に「ユダヤの悪鬼(資本主義)」がこの世を泥海にする仕組み」があります。これまでの世界は「ユダヤの悪鬼(資本主義)」が敷いた線路に「窓の無い客車」が投入されていました。「窓」が無いので見ざる。言わざる。聞かざるです。また、金、金、金の世に「公」などほとんど無意味でした。しかし、その資本主義は終焉にと向かって行くのです。
創造神と邪神達とでは、その「意図」するところがまるで違っています
西暦20××年に人類が滅亡する事象が起きると言われるスピリチュアルや霊能者の方達は多いのですが、それは「ユダヤの悪鬼」達が敷いた今日までの線路で言うところの年に起きる話です。そのままに行けば、そうした霊的映像にある人類は滅亡を免れないとなります。それから先の予言書はないと思われます。後先考えずにユダヤの悪鬼が線路を敷いたからです。その路線で「人類救済」を図っても、もう線路を正すことは不可能なのです。
私の元にそうした情報を持って来てくださる方は多々ありますが、
私は【別の路線】に乗り換える話をしているのです。人類滅亡に向かう路線ではなく、人類にとって【嬉し嬉しの弥勒の世】です。
すなわち、救世主みろくメシヤとは、「九制主(九つ花)369(みろく)飯屋(米)」
それは【ダルマ(七転び)】を持って【五十六億七千万】となっているわけです。
大本教神諭、「この神は煮ても焼いても食べられる」なのです。人のことではないのです。
総て「米」で語る「言葉の仕組み」なのです。
自分が「救世主」だと思っているのは、アホの丸出しなのです。
ユダヤの悪鬼達が敷いた暦通りの路線で行くのか?。それとはまったく違う別の「暦」の路線に行くかですが、それは同じ世界ではなく、別の世界となるのです。
「おにあけ」が何を意味しているのか未だ子細は解りませんが、これから先、「創造神に守られて行く者達と創造神に守られていない者達」との分離が起き出すとも考えられます。
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