人に内在する良心神(神言会)

神は言葉なりき。言葉は言霊で構成され、その言霊による神の仕組みを解説する神言会(kamikotokai.com)のプログです。
神言会では人に内在する良心神(この世の閻魔)とは何かを説明しています。

言葉は【道】なるか?。鳥の路(道)は「鷺」なれど、【トリ】の言葉の意味を間違えると「詐欺」となる。

聖書のヨハネの福音書にある【初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共に在った。言(ことば)は神であった】は有名ですが、さりとて、このヨハネがどれだけ「言(ことば)は神であった」を理解出来ていたかといいますと、疑わしいところがあります。
それはその後に続く、「この言(ことば)は初めに神と共にあった。全てのものは、これによって出来た。できたもののうち一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命(いのち)があった」。この部分にあるのです。単に霊的光景を見てであれば、その答えは正解なのです。しかし、それでは事の本質が解っていなかったとなるのです。

私は「言霊」とは何かを知った時、驚愕してしまいました。確かに通常の感覚の解釈であれば「ヨハネの福音書」は何一つ間違っていたとは言えません。しかしながら、福音書のヨハネは完全には言葉の意味が解っていなかったということなのです。為に、そのヨハネからイエスに続く内容は真の「キリスト」に到ることが出来なかったと言えます。為に疑似のキリストの演技となっているのです。

大本教から「いろは」歌が出されました。この「いろは」は「ん」を加えて「四八音」となりますので、日本ではこれを「よ(四)は(八)と(音)」も言います。そこから大本教の演技はキリスト出現前の「ヨハネ」の型であり、「言霊」と呼ばれる存在を世に大きく広げたのは大本教が最初の宗教とは言えるでしょう。西洋人に「言霊」を言っても通用はしないでしょう。
だとすれば、その「ハヨネ(四八音)」の後に、真の「キリスト」が出なければならないわけです。そのキリストとは神は言(ことば)なので「言葉(ロゴス)による真理」と言えます。


その大本教から

命=御言(みこと)が出されました

私達は「命」の字を「いのち」と呼びます。また「みこと」と呼びます。日本の神道では〇○○○命と書いて、〇○○○ミコトと読みます。大本教はその「命」を「御言(みこと)」としたのです。ここに聖書と同様に「この言(ことば)に命(いのち)」があったとなります。
聖書の意味は日本神道の中で生かされていたわけです。私は日本神道界に修業に入って驚きました。それは私は日本神道に「旧約聖書」の世界を見たからです。
一部に「日ユ」同祖論が語られますが、これは現代の歴史では紐解けません。私達が知らない歴史以前にあるのです。

大本教の出口王仁三郎聖師は、自分はナザレのイエスに何一つ負けていないと言われて、自分が「キリスト」であるとか「救世主」であるとか「みろく」であると名乗られました。
しかしながら、自分は「ニセ物」であったとも発表され、本番は自分とは「似ても似つかない存在」だと言い残しておられます。つまり、いくら神界の怪物と言われた出口王仁三郎聖師ですら演じられない役となります。

大本教は「四八音(ヨハネ)」を演じたのですから、本番はその後になります。だが、神界の怪物と言われた出口王仁三郎聖師のような人物を探しても無理なのです。無意味なのです。それは「人」の型をした存在ではなかったからです。だから、「似ても似つかない」となります。

その出口王仁三郎聖師は、聖書の「初めに言葉ありき」に関して、その言葉の部分を「道」の字に置き換えて、【初めに道(ことば)ありき】とされました。
万物の創世の始めに言葉があったのではありません。しかしながら、この言葉(御言)と呼ばれる存在があらりあらゆるものを創り出して来たのです。

それは御言(みこと)が命を吹き込んだ!

そして、その言葉(御言)には私達人類が歩まなければならない[道]も示されていたのです。

そこに来るのが「神(神)は示し申す」なのです。当然にそれは「言(ことば)」なのです。

 
しかしながら、私達は言葉を使っていても、どこにその[道]が示されているのか知ることすらありませんでした。

私が神霊世界に修行に入って間もない頃、私に「鷺」が示されました。鷺?。

鷺の字を分解すれば「路(みち)の鳥」です

どうして「路(みち)の鳥」と書いて「サギ」と読ませるのか?。一歩間違えれば「詐欺師のサギ」です。当時の私は首を捻っておりました。そしてもう一つには、サギの様に西洋で天使と呼ばれる者達が羽根(翼)を持っていることです。何の為の羽根だ!?。
私から言わせれば、まったく意味の無い羽根が天使の象徴とされているです。例えば、仏教で「如来」と称される存在がそんなものは誰一人として持ってもいないでしょう。

私が伏見稲荷山で修業時代、スピリチュアルならば泣いて喜ぶ俗に「天使」と呼ばれる者が出て来ました。その時です。私の腹の中からその天使に向かって、「お前の羽根をもぎ取ってやろうか」という太い男性の声が出たのです。
自分の肉体の腹の中から声が出てことにもびっくりしましたが、その天使姿の者はその声を聞くと、飛んで逃げ去りました。後に閻魔庁による天狗の羽根落とし刑も見て来ましたので、いくら天使と称する霊でも羽根落としをするつもりだったのでしょう。その声の主はそうした存在だったのかも知れません。それは私をも叱る唯一の声でした。

私の最初の師匠が「貴方を見て、貴方を恐ろしいと言う霊能者でなければ、それは本者の霊能者ではありません」と言われるので、私のどこが恐ろしいのかと首を傾げておりましたが、私の背後には「閻魔大王」様も居られるので、それが解らぬ霊能者であれば、その方は優秀な霊能者とは言えないレベルだと言うことだったようです。

それで、私は西洋で天使天使と呼ばれている者達は、全て「トリ」違いをしている者達だと気づいたのです。しかし、何をトリ違いしているのかが解らなかったのです。

それは意外なところから解りました。大本教神諭予告。
【出口直に明治25年に申してある事、この大望な経綸の致してあることを、世界に一人知りておる。誠の人はこしらえてあるから、この誠の人が出て来んと解らんぞよ。誠の人を西と東に立別けて御用がさして在るぞよ。この事解りて来たなれば、三千世界が一度に開くぞよ。綾部に九つ花が咲いたならば、万古末代枯れぬ花であるぞよ】。
【九つ花は誠から咲せる花であるから、三千年の経綸を致した。誠の本であるから誠の人の世話でないと、このお世話は出来んぞよ】。

大本教では、最初は「九曜紋」を神旗にしました。次に「十曜紋」を神旗にしました。この「十曜紋」を「九つ花」としましたが、「十曜紋」では「誠」が成立しないのです。
私は大本教神諭が予告した「九つ花」とは何かを何回か出しました。下記の図です。その図から、西洋で言うミカエルとかガブリエルなどは全てトリ違いした霊達と解るのです。

私が大本教神諭に予告された世界に一人知りておる「誠」の者かどうかは別として、何とか「九つ花」は紐解きました。

鳥(十里)は何故に羽根(八根)を持つか?。です



この数理版は「縦も横も斜めも全て369(みろく)ですが、これ以外には「五六億七千万」の数字を出す仕組みは存在していないのです。ただ、それを知るには大本教神諭予告のダルマ大師として現れたで「ダルマ(真理)の七転び八起き」を知る必要があります。
 つまり、自分が「みろく」ですと名乗る者は全て「贋物(にせもの)」と判定出来るようになっているのです。とんでもない大仕掛けなのです。ですからこれは、神社や仏閣やスピリチュアルで出て来る様な霊の存在とは桁違いの存在の神があるなのです。


大本教の出口王仁三郎聖師が説かれた【初めに道(ことば)ありき】の「路(みち)」とは、
十里(トリ)の路(ミチ)でもあるのです。



この「路(みち)」を間違えると【迷】に入り、全ては【謎】で終わってしまうのです。
鷺(サギ)でなく、詐欺(サギ)となるのです。


詐欺の詐とは、言葉を詐称する。言葉を勝手に作って称する者達。ミカエルとかカブリエルと称する者達は、神の言(ことば)をトリ違いした者達なのです。そのトリ違いの者達に引っかかるのがスピリチュアルと称している人達と言えるでしょう。

大本教の出口王仁三郎聖師は、ミカエルとは省みるの言葉の意味でミカエルなどという天使長は存在していないと残しておられますが、ミカエルとは言葉の意味なのです。私はヴェーダ典に記載される【人の中にコブラ(蛇)が目覚めて走り上がる時、その人は真理に目覚める】を体験して、「真理」とは何かの追求に入ったからです。
その時、私が感じたのは【お釈迦様は正しく説かれて、イエスは間違えた】でした。で、お釈迦様とイエスの教えの違いの中に「真理」が隠されているとみたのです。

あるサイキッカーの方が天人界を訪れて、天人達の中で「最後の審判は各自の良心」によって判定される。その準備している存在は国常立尊様の一番番頭たる存在。その為にその一番番頭は自分が使う人間を地上世界に降ろして、地上界でその肉体が「人に内在する良心神」を説いていると聞かされて、そのサイキッカーの方はそれは伊勢白山道の「リーマン」氏のことかと天人達に聞かれたところ、それは伊勢白山道の「リーマン」氏でなく、そのサイキッカーの方の知人の知人だと教えられて、その知人を通じて私の元にその内容が届きました。
*注訳 一番番頭と天人達が言っているのは御引退された国常立尊様は、まだ地上神界の主宰神に完全復帰をされていない為に、一番番頭を天使長とは言わないのです。国常立尊様が主宰神に復帰された時には天使長となる存在です。私はそのみろく世において天使長となる存在が、地上世界で良心神を説く為に降ろされた下僕たる肉体の存在なのです。

それは最後の審判が行われることは既に天人界では解っていることであり、それは「神の愛で何をしても赦される」ではなくて、各自の「良心神」によって判定されることも既に解っているということなのです。解らないのはその審判の実施時期だけなのです。
そのことは、豊受の神も私に世の大立替が実施されるが、「その時期は解らない。ただ、貴方はその嵐の中を突ききられます」で、大立替は私がこの世に居る間に起きるとは言われています。
しかし、実際問題としては私にもことの真偽は解りません。私は常に「万が一」に備えるだけなのです。

そのみろく世で天使長となる存在が使っていると言われる肉体の私が体験したのは、
【巳(み)帰る】の働きを言った言葉が「ミカエル」なのです

私自身はその国常立尊様の天使長になると思われる方を見ています。その天使長を「ミカエル」とは呼びません。聖書のヨハネの黙示録にある、白馬に乗った「神の言(ことば)」と呼ばれる存在の方なのです。
私は自力で大本教神諭予告の「九つ花」を紐解いたのではありません。「世界に一人知りておる」など人智では解けません。私の背後にその「白馬に乗った」存在の霊があったからです。この方が私に言葉の発想飛びを教えたのです。

ただこの方は「蛇」霊と戦う方なのです。私が黒龍群団の攻撃を受けた時、その霊界の年老いた大蛇霊で龍と呼ばれる存在と剣を交えておられました。その時、その方の加勢に天軍が降下して来たのです。そして黒龍群団は撃退された。それで「巳(み)返る」なのですが、ミカエルは個人名ではないのです。日本語による働きの言葉です。
当時の私は、その霊界の年老いた大蛇霊の龍と戦う方を、いったい誰だろうと見ておりました。


聖書のヨハネの黙示録に、【さて、天では戦いが起こった。ミカエルとその御使いたちとが龍と戦ったのである。龍もその使いたちも応戦したが、勝てなかった】があります。ここだけを読んでいると「ミカエル」と呼ばれる固有名詞の天使が存在していると思ってしまったりするのです。日本語で無いと意味が解けないようになっていたのです。
龍(霊界の年老いた蛇霊)と戦う【巳(蛇)返る】だったと言うことなのです。だが、スピリチュアルで自分にミカエルが降りて来る式を言っている方達は、誰一人としてヨハネの黙示録にある龍と戦っている存在のミカエルとは無縁の人達でしょう。
つまり、無知なることから簡単に欺されてしまうのです。直感だ!。直感だ!で、宗教書に学びも入れていないから簡単に欺されるのです。

私が初めて伏見稲荷山に上がった時、豊受の神は私のことを【貴方は言葉の神とお呼びする方です。貴方の言葉による教えは天帝の詔と同じであり、如何なる神も貴方の言葉の教えが聞けないとなれば、天帝に対する反逆罪で全て天帝により滅ぼされます】と、とんでもないことを言われますので、いくら何でも人間の分際の私が神などありえもないことなので、かってに「言葉の君」と呼称させてもらいました。
だが、ある大阿闍梨さんが私を霊査されて、この人は「言葉の君」ではなくて「言葉の神」と呼ばれる方。天帝その方ではないが、天帝の横に座る存在で天帝の部下でも家臣でもない。言霊神と言うべき存在と言われたそうです。

が、豊受様でもその大阿闍梨でも言われたのは肉体の私ではなくて、私の背後にある方がヨハネの黙示録で「神の言(ことば)と呼ばれる方だったのです。つまり、私はこの方の代位者に過ぎません。その神に仕える一介の下僕です。

私が東京の著名な霊能者の方に霊査を受けた時、「貴方の背後には神界を統一出来るほどの神が居られる」と言われます。驚いて、どんな方ですかとお尋ねしたところ、「若い侍姿の方です。神界を統一するだけの力がありながら、貴方がこれほど苦労されているのを見ていながら何故か動かれようとされない。しかし、この方が命令を出せば天軍が神界統一で一気に動く」と言われます。
当時は若い侍姿の方に、それでは国常立尊様でも無いし、いったいどなたなのかと思っておりました。白馬に乗っておられても、ヨハネの黙示録のことは頭にはありませんでしたので首を傾げておりました。豊受様が言われた「言葉の神」を「神の言(ことば)」と同じと解釈出来ていなかったのです。大本教の出口王仁三郎聖師は、この方の型演技として「蒙古」に渡られたのです。

この「神の言(ことば)と呼ばれるみろく世の天使長の魂は、東が「天照大御神(ラ)」。西が「素戔嗚尊(ス)」となっており、真性天照大御神と素戔嗚尊が合体している魂。それが大本教神諭予告で、「誠の人を西と東に立別けて御用がさして在るぞよ」となっていたのです。最初、私も一人の人間を西と東に立別けての意味が掴めずに解釈に苦労しました。人間のことではなくて「神の言(ことば)と呼ばれる魂」のことだったのです。
私は子供の頃、旧約聖書の神と名乗る声から【日本神話(記紀神話)はこの私が意図を持って創らせたものであって、事実そのものでは無い。そなたはこの私の意図を知る為に学びなさい】と告げられ、修業のお世話になった豊受様からも「日本神話は事実そのものではない」と聞いていたので、ある意味発想がぶっ飛ぶことが出来たのです。日本神話があたかも事実の様に囚われていると日本語の仕組みが理解出来ないのです。

ダルマ(真理)に目は二つ。太陽の天照大御神と月の素戔嗚尊(月読尊)。日月の神。

私を見た一部の霊能者の方が、貴方は真性天照大御神様ですか?。とか、素戔嗚尊様ですか?。と問われるので首を傾げておりました。それは私の背後で白馬に乗った方が、その両方の魂を持っておられる方だからでしょう。

人間は神ではありません。神の御用が出来る神の舞台の役者に過ぎないのです

私が子供の頃に臨んだ声は告げられました。「肉体のそなたはバカをしていてもよし。働くのはそなたではない。そなたの魂が働くのだ」と。ですから、私の魂は神界で働いていても、この世の肉体たる私はバカをしている者なのです。
肉体の自分が、自分は偉いのだ!。立派なのだ!。それは実に滑稽な話になるのです。人は魂が着る服に過ぎないのです。この服はもう要らないと魂から思われれば、いつでも捨てられてしまうのです。

それは私が子供の頃に臨んだ声に言われた言葉。【神の舞台に上がる役者には善役も悪役もある。だが、その舞台が終われば全ての役者は役目を終えて素顔に戻らないと行けない。この世の終わりの舞台を見事に演じきったならば、次の舞台では主要な役も与えよう】。役者は神の舞台の演技の役を自分その者だと勘違いしてはいけないのです。


霊界に現れる自分が「ミカエル」だとか「ガブリエル」だと名乗る自称俺々サギ。俺々サギに引っかかっても、引っかけられた自分が悪いと知りなさい。


鷺(サギ)の十里(トリ)の八根で「神の教えの言(ことば)の路」を行くのか

オレオレ詐欺(サギ)霊が見せる鳥の羽根を天使の象徴と信じて行くのか

決めるのは自分!


日本語は「神の言葉」であったなのです


私自身「神言会」とした時、まさか私の背後の方がヨハネの黙示録で「神の言(ことば)」と呼ばれる方だとは思ってもおりませんでした。また、〇に十字の印を渡された時、意味がよく解っておりませんでした。

大本教で演じられた仕組みを紐解く度に、自分でも驚くことばかり



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