西洋(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)では「創造神たる唯一神」のみを神とする信仰が行われています。そこには蛇や狐の神のみならず、国魂神とか産土神とか氏神の存在すらありませんので、西洋ではそうした存在の神霊が居ないのかとなった時、そうではないので神の世界を知るには唯一神信仰だけでは適していません。
一方、日本では「やおよろず(八百万)」の神も神として崇めています。蛇や狐や狸や猫神などを含めてです。神は唯一にして多神と言いますが、そこには「根元たる神と枝葉の神」の違いが生じます。その違いは月とスッポン以上になるでしょう。日本ではその「根元神」の存在があまりにも消されています。軽んじられてしまっています。
日本の一部の霊能者の方達は、ある疑問を投げかけておられます。
本当に、西洋で説くところの「唯一神の創造神は存在するのか?」です
一部のスピリチュアルの方達は、平然とした顔で自分には創造神が降りて来る式のことを言われますが、他の霊能者の方達からその人を見ると蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊と呼ばれる存在から抜け切れておられません。本人が自分に降りて来るのが創造神だと思っているだけの話に過ぎません。もしも本当に創造神が地上神界に出ているとすれば、地上神界の既存の神霊達が震え上がっていてもおかしくないからです。
あまりにもいい加減なスピリチュアルの横行を見ていると、唯一なる創造神は存在するのかという疑問が生じても何の不思議でもありません。
自分には創造神が降りて来る式のスピリチュアルの方が「お釈迦」様や「イエス」を上回っているほどの方であるならば、そうした言動もあり得るかも知れませんが、しかしどこを見ても蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊に騙されて踊っているでは、本当に唯一なる創造神など存在するのかという疑問が湧くのが本当なのです。
あまりにも自分の前世は「釈迦」であった等と言う方も多すぎます。
私はそうした自称創造神(唯一神)を言うではなくて、
「言葉の仕組みを解読」して、これは「唯一成る神と呼ばれる創造神」でないと出来ない仕組みだと理解したしだいです。ですから、姿は解らないが存在しておられると確信するのです。
だが、その言葉の仕組みを創っておられた「創造神」は、未だ人類の上に臨んではおられないでしょう。だが、その創造神と呼ばれる存在が人類の上に臨んだならば、それは西洋で語られる【最後の審判】を免れないことにはなるのでしょう。それから先は鬼が出るか蛇が出るか、実際に「立替」に入ってみないと解りません。
私達日本人はその大多数が葬式時だけの仏教徒ですが、仏教で死後に渡る川を【三途川】と教えられて来ました。
それに対して、宗教とか精神世界の研究者から西洋の宗教には三途川の教えが無い。西洋系の臨死体験者には「三途川」を見たという報告事例が無い。東洋の仏教系などの臨死体験者のみ「三途川」を見たという報告があるので、仏教の教えを受けた者だけに「三途川」の教えが潜在意識として刷り込まれているのではないかという説があります。
確かに、聖書の教えなどは「天国と地獄」の二元論であって、中有界と呼ばれる世界の存在が説かれていません。為に「輪廻転生」論は聖書に囚われていると出て来ない教えではあるのです。
私自身は修業の中で霊的に「牛頭の人」が出て来られて、そこでお釈迦様の祇園精舎の守護神とされる【牛頭天王】は存在すると確信し、実際に人には前世があることも解り、この世の生き様で霊界で「蛇霊」と化して行った人達の霊にも触れて、「輪廻転生」があると見聞を培ったのです。
スピリチュアルで自分にミカエルだカブリエルだと自称する者が降りて来ると盛んに言っている方がありますが、ならばそのミカエルとかカブリエルと自称する霊に「輪廻転生」の教えを聞いたと言うスピリチュアルと称する方が存在するのかとなった時、ほとんど聞いたことがありません。
いくらそうした名乗りの自称霊が出て来ても、「輪廻転生」の知識すら持っていないのが本当でしょう。
この「三途川」とは、3本の川があるのではないのです。川としては一本なのですが、その川を渡る時の方法で霊界での行き先が「三途」になるので「三途川」と呼ばれるわけです。「天国界・中有界・地獄界」の三途です。
なお、西洋の「臨死体験者」が三途川を見ていないと言うのは、その臨死体験者がどこまでの臨死かの問題と、小さな「小川」で出ているような場合は、まずそこに「川」があることを見落とします。そして「小川」的なものが出て来ている場合は「天国界」には向かっていません。現界戻しの中有界なのです。ですから息も吹き返すのです。
中有界も広義と狭義の論があり、この世でウロウロして面白半分に人に憑依したり、苦しい苦しいと訴えて来るのはまだ三途川を渡っていない霊で、それも中有界として説かれてはいますが、狭義の中有界ではないと言えます。
この世の霊界で迷っていた霊をきちんと「三途の川」を渡らせる。後は向こうの世界に渡して、この世にチョロチョロ出て来るなと「引導を渡す」でないといけないわけです。
天国界に向かうような場合は、三途川は「川」でも、時には「大河」とか「大海原」で出て来ます。その川幅が大きければ大きいほど高い世界に行くです。ですから、今日まで三途川の渡しは「舟」で語られて来たのです。
みろく世に渡るのは大勢の人を一度に乗せる「船」なので、「羅針(ラ神)盤」を持った船になります。大航海に大後悔はつきものとなります。今度は「紅海」ではないのです。
大本教の出口王仁三郎聖師は、「三途川」の他に「神一筋の少途川」があると書き残しておられます。それに関しては、誰も語っておられません。今日まで名のある宗教家でも、誰も「少途川」を見ておられなかったからでしょう。
諸神諸仏に対する信仰だと、この少途川は出て来ないようです。天帝とか創造神たる唯一神に向かう時に出て来る川(途)と思われます。唯一神に向かって信仰をする方は以外と少ないのです。仏教で阿弥陀様と言っても創造神ではありませんし、お釈迦様もまた違うとなります。
私は子供の時に臨んだ声から、そなた一人だけにはこの神の仕組みを見せる。それを人々に告げなさいと命を受けたことから、霊界の一部分ではありますが垣間見るをして来ました。
ただ、誰をもってしても、その一生で全霊界を語ることは不可能です。それは世に出ておられる神々でも不可能なのです。豊受様は、はっきりとこの豊受にも見えない解らない世界があると言われておりました。
私は豊受様は何でも知っている解っている式の神ではなく、この神をもってして見通せない解らない世界があると言われることを高く評価しています。スピリチュアルだと知らないことは知らないと言うような霊はまず出て来ません。仮に自分が天使長だと名乗れば、知らないことがあるなどと口が裂けても言えないからです。
知らないことは知らないと言う霊は、自分が天帝とか創造神とか天使長の様な存在ではないと告げているのですから、自分は蛇霊ですとか白狐ですとはっきり告げます。こうした霊は自分が知る範囲で答えますのでかなり正確なのです。霊的世界に居る霊とは人間より遙かに隠された世界のことを知るので、それも私達の学びには役立つのです。
そうした中で、出口王仁三郎聖師が書き残された「神一筋の少途川」の意味が解って来ました。無論、「少途川」の言葉からして、その道を歩く方は僅かしかおられないという意味ですが、その道の風景が驚く形で出たのです。それは以前にも書いていますが、少し状況が変化しているようなので再度触れます。
それは切り立った崖の淵の細道を行き。切り立った谷間の川に架かるは一本橋。その下には蛇霊が一本橋から落ちる者を待っているので、迷いがあれば渡れません。命をかけて蛇霊を退けて行く道なのです。
そこに来る本質が
ミカエル【蛇(巳)帰る】なのです
私はヒンズー教の奥義書とされる「ヴェーダ典」の中の「蛇(巳)帰る」を体験したことで、西洋で言う「ミカエル」の存在にかなり疑問を持っていました。もしかすると日本語の「巳(蛇)帰る」の言葉の意味を間違えたのではないかです。それは「ミカエル」を連発する方の背後に黒龍神が居たりするからです。
天使として鳥のような羽根をもって出て来る存在もかなり危ういのです。確かに、天使の羽根と間違えるエネルギーは存在していますが、それはエネルギーであって「鳥のような羽根」とは別物だからです。
私のブログに「光かと思ったら天狗さん」を記していますが、天狗さんも西洋で言う天使と同様の羽根を持っています。この時、閻魔庁の役人は天狗さんの羽根落としの刑を執行してしまいました。
もし、スピリチュアルで自分には鳥のような羽根を持った存在の天使が出て来ると言えば、それは簡単に矢で射られて羽根落としの刑に処せられてしまうこともある段階の霊と言えるのです。とてもとても天帝に仕えるような段階ではないと言えます。ですから、そんな霊が出て来て創造神などと言い出したら、眉唾ものなのです。
本来の天使は羽根などなくても、宇宙空間を行く
私のHPや以前のブログに書いている「人生街道」の図を少し修正しました。天神様の細道は道が細いだけでなく、一歩間違えれば自分も蛇霊の中に落ちてその仲間になるのです。常に細心の注意を払っていかなければなりません。
人は誰しもこの世で順調な人生街道を行けるとは限りません。聖書における「エデンの園から蛇と共に追放された人類」。私達と蛇霊が共にあるのは、人としてこの世に出て来たからには致し方がない部分とは言えます。
蛇霊はイエスが「蛇のように賢くあれ」と説いたように、私達に「智慧」としても働いて来ます。人類が神の如く智慧を持てたのは「蛇霊」のおかげでもあるのです。だが、
蛇霊は智慧の力でも、善悪の判断が出来ないのです
善悪の判断は【愛】ではなくて、各自の【良心】神がするからです
人類が「神の園」に戻ろうとするならば、蛇霊の囁きから脱却しなければならないのです。
通常、【邪の道は蛇】といいます。邪をつつけば蛇が出て来る
自分がスピリチュアルの言葉を広めた親玉だと自画自賛しておられる霊能者「江原啓之」さんでも、その著書に【邪の道は蛇】と書いておられます。この世での邪によって、死後の世界で「蛇霊」化して行くなどは、本当の霊能者ならば常識として知っておらなければならないことです。
また、スピリチュアルに対して警告を続けておられる霊能者の方も、そうしたスピリチュアルのセミナーで蛇霊を憑けられてしまう現状を知っておられます。
また蛇霊教団に入信して「命を助けて貰った」。そのほとんどは力の強い大蛇霊が力の弱い蛇霊を剥がすで、霊能者サイドでは解っていることなのです。命を助けて貰ったからと言って、何も蛇霊の教えに狂信する必要はないのです。助けて貰ったお礼は金銭的に払えばいいだけのことなのです。古来より巳(み)さん信仰は金運を招くと言うように、金を払えば文句は言いません。
天帝と人類の契約の示しは魂の「禊(示・契)ぎ」だけ
問題は、スピリチュアルを標榜して自分にはミカエルがカブリエルが天照大御神が観音様が降りて来る式の方のほとんどは、それらのほとんどが【蛇霊】であることの気づきに至っていないことなのです。
一度、霊界で年老い大蛇霊の龍神が創った教団に入信などすると、元の世界に戻ることが非常に困難になります。大本教の出口王仁三郎聖師が説かれた【人は邪(蛇)教が説く真理に狂うことを覚るべし】の蛇教が説く真理に狂ってしまうからです。方向違いの真理に狂信的に向かってしまうのです。
そうなりますと、創造神が「言葉で創った仕組み」の偉大さがまったく理解出来ないようになってしまいます
自分に霊的なものが見えた、霊の声が聞こえた。直感だ!。直感だ!。それはスピリチュアルでお決まりの言葉です。そんなことで、長年に渡って「言葉の仕組み」を完成させた神が見えるのでしょうか?。その声が聞こえるのでしょうか?。
私は別に霊が何かを言って来たではなくて、霊界見聞の中で「言葉の仕組み」を知りました。どうして私がここまで言葉の仕組みを紐解けたのか?。何でも直感だ!、直感だ!で解るのであれば、私以上に「言葉の仕組み」が紐解けていたはずなのです。
私が霊界見聞の中で見て来た「光」にしても、スピリチュアルで光だ!。光だ!と言われている光の段階ではありません。ですから私のブログに「光と思ったら天狗さん」も書いたのです。また私のブログに「自分を観音菩薩として祀れと言った大白蛇霊」を書きましたが、その方はその大白蛇霊が出す光に打たれて、それが創造神の「光」だと思っておられました。だが、本当の天の岩戸の光とは、そんな段階の光ではないのです。
龍神(大蛇霊)が見せる【光】程度に狂っていたのでは、どうしょうもないのです
人はこの世に出て来るということは、自分では気づかないだけで「過去世から積み上がったカルマ」を解消しなければなりません。龍神と呼ばれる大蛇霊を信仰したからと言って、自分のカルマは解消されるではないのです。
人は神から社会から受けた試練を耐え抜くことで、カルマは解消されます
こうしたカルマ解消の為の試練を西洋では「神からのプレゼント」と言って来ました。
そうした運命の分かれ道において、蛇霊は「試練」など受ければ苦しいだけだから、楽な道を行きましょうと言ってくるわけです。スピリチュアルを自称する方達の中には、公然と「良心など重たいから捨てましょう」と言っておられる方達もあります。確かに、良心など重たいと言われたら重たいのです。その良心の重みを知ることが大切なのです。
スピリチュアルに、お釈迦様の悟りの「良心神」の教えなど通りません
それでも、脇道とか外道(けもの道)に入らなければ、主たる道を歩いたことによって、その死後の判定は「三途川」によって「天国界・中有界・地獄界」などに別れて行くことになるのです。
ほとんどの方はこの「神一筋の少途川」の道を御存知ないので、それを深く学ぶ必要もありません。また、人類の上に創造神が臨むなどの出来事がないのであれば、この「神一筋の少途川」に触れる必要もないことと言えます。
しかしながら、大本教の出口王仁三郎聖師が「神一筋の少途川」を出されたということは、その時期は明確でなくても、創造神が私達の人類の上に臨んで来られる時期が迫って来ているとも言えるのです。
この世に出ておられる神々が全て「天帝」を御存知なのかとなった時、単に「天之御中主」様とか「国常立尊」様では語りきれない存在があるのではないかと推察されます。
私は豊受様の御代である師匠の元で長く修行をさせていただき、その師匠の相談者に対する問題の解決率は100%ではありませんでしたが、相談内容の80%は解決されていたのではないかと思えました。
この解決率とは、スピリチュアルで「天からのメッセージ」という言葉だけの内容ではなくて、現に困って相談に来た方達の問題を片付ける解決率です。本当の神の力で無いと片付かない問題は数々あるのです。霊が見えたとか、霊の声が聞こえるなどはいくら述べてもさほど意味がないのです。
個々の人間の幸せとか不幸せとか、そんなことはこれから先、この「地球そのもが存続するのか、しないのか」に比べたら、もう問題にはならないほど些細な事柄なのです。
いくら今の幸せを祈っても、この地球が存続しての話です
人は必ず死ぬ者です。死後の行き先は永遠の命の問題に関わるのです
一般的に「困った時の神頼み」と言いますが、人は困っていない時はさほど神と呼ばれる存在に関心があるわけではありません。
そうした中で神社やお寺で願い事をしたならば、聞き届けて下さったなどはあるにはありますが、全ての人に願い事が叶うはありません。一番確実なのは、その神仏との間を取り持つ霊能者。御代とか御台とか杖とか言いますが、そうした方を通じて、その神仏が願いを聞き届ける「確約」を下さるのであれば、そうした願い事が聞き届けられます。
だが、そうした人助けの霊力・神力は正神界と呼ばれる世界の御神霊よりも、魔界・邪神界と呼ばれる世界の御神霊の方が遙かにあるのです。
その方の名を出せば精神世界・スピリチュアルでその名を知らない者はほとんどいない著名な宗教家の方があります。その著名な宗教家の方は最後の自著に「自分は多くの人を助けたいと願って、悪魔に自分の魂を売る取引をした」と書いてあると、ある方からメールをいただきました。私もその方の著本はかなり持ちますが、その告白本のことは知りませんでした。
多くの人を助けたいと思う心は大切ですが、私ならば悪魔と取引してまで他の人の命を助けたいとは思いません。それは自分の命が欲しいからではありません。助けても真からの改心に至っていない人をいくら助けても同じ過ちを繰り返してしまわれるからです。自分の命がムダになってしまうのです。
改心されない方の罪を被るより、改心された方の罪を自分が被る。そうしないと自分の命を捨ててもムダになるのです。命などいくらあっても足りません。
生半可な「可哀想だ!可哀想だ!」は、「情に流される」になってしまいます。そうしますと、情に流されまいと「棹」を刺しても流されて行きます。止められないのです。夏目漱石の「草枕」に「情に棹さして流される」がありますが、事態をより悪くしてしまうのです。
だが、あれほど著名だった宗教家の方が、「悪魔と取引」されたと自著に書き残されたとするならば、やはり悪魔は存在しているということなのです。
されど、悪魔との契約は反故にしても許されます
良心とは、悪魔との契約を破るものだからです
悪魔との契約よりも、創造神との契約が上に行く
この世に出ておられる神々は全て正神界では在らず。悪魔とか邪神と呼ばれる神達もまたその数多しなのです。
創造神が存在される「魂の故郷の神の御国」へと帰るのか!。
悪魔や邪神が支配する世界に向かい永遠に生きるのか!。
未来に向かって二つの道が示されています。選ぶのは自分!。
大本教の出口王仁三郎聖師がみろく世には「水晶魂」が授与されると説いておられます。前に少し記述をしましたが、みろく世に渡る人には今の肉体の中に「水晶」魂が入ります。仏教系だと丸い玉の形。神道系だと四角の塊の形。その人が信じる宗教系で水晶の形が違って来るでしょうが、授与されるはずなのです。
まだ、少しだけの方かも知れませんが、霊的に自己の体内に「水晶石」が入ったような事例が出て来ています。みろく世に行く気が無い方には関係のない話ですが、魂の御親神から授かる永遠の命。腐ったり潰れない水晶なので永遠の命の授与が解った方は、今後とも自分の身を汚さないで進んでいただきたいものです。
そうした水晶を見ていないから自分にはみろく世は無いと悲観することはありません。それは見えたか見えなかっただけのことであり、【唯一なる神だけを神とする信仰に切り替われば、みろく世に渡る水晶玉は授与されるものなのです】。
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