私は「聖人君子」などではありません。罪深き者の一人です。何故ならば、この世で生きていくにあたって他の「命」ある物を食べているからです。もしも、自己の「良心」に従って、他の命をある物を食さないと決めれば、この世における自己の命を失ってしまいかねません。
食=良心の良を閉じる。そうしないとこの世で生きられない。
私は別にこの世に未練があるわけではありません。長く生きたいと考えているわけではありません。そこには「試練(言葉の式を練る)」と言う名の辛い人生を送って来たことで、この世に居たいとは思わないのかも知れません。既に生の執着は遠のいています。
と言って、この世で他の命を殺して食さないと生きてはいけないのは罪だからの理由で自らの命を絶つなどをすると、逆に神から罰せられることになります。
この世は「魂の修行場」です。決して「魂の遊び場」ではないのです。大本教の出口王仁三郎聖師は、この世は「天人の苗床」と説かれましたが、この世の生き方次第で霊界に帰れば天人にもなれます。
人は死ねば誰でも天人に成れるではありません。天国とは皆さんの想像以上に狭き門なのです。私は単に善人では天国門等は開かないことで、そこに何があるのかを知ったのです。天人に成れるかどうかは自分の「生き方」しだいなのです。
南無阿弥陀仏と唱えれば極楽に往生が説かれましたが、これなどは「方便」と言えます。当時はそう思うことでこの世の苦しみが緩和されたのです。南無妙法蓮華経もまた然りなのです。お題目を唱えれば極楽往生ではないのです。キリスト教で「イエス一人を神の子と認めれば天国」も、また然りなのです。それだけのことでは「天国門」は開かないのです。
そこにあるのはお釈迦様が説かれた【この世は苦界】なのです。この世のどこが「苦界」なのかと言っている間は、覚醒にはほど遠いと言えます。
この世でさんざん悪行の限りを尽くしておいて、悔い改めるもせずに自分が犯した悪の行為の結果、被害者の恨みが残り、その被害者が自己の恨みにより地獄に落ちていたられたとすれば、自分がその被害者の救いもせずに「自分だけがのうのうと天国」などあり得ないことなのです。
悪人も死ねば仏様だから悪く言わないは、決して美徳ではありません。この世を去れば、その人を死後もこの世でいくら叩いても意味をなさないだけの話です。
死んだからと言って赦されているではないのです。全て「カルマ」として残り、その償いの時は輪廻転生で必ずやって来るのです。
カルマを理解していないと「目には目、歯には歯を」が、この世のことだと錯覚してしまいます。それは「カルマ(過去の因業)」として「輪廻転生」を起こす元なのです。
大本教の出口王仁三郎聖師が地獄を覗けば、牧師や坊主でいっぱいだと書き残しておられるのも、悔い改めて償いをするを説かなかった宗教家達が地獄界に落ちているからと言えるでしょう。
常識的に考えても、神は愛だから何をしても赦されるなどはあり得ないことで、そうしたことを説いている人達には死ねば地獄が待っているかも知れないのです。
異端の行者で知られた金井南龍師は「この世は魂の刑務所」と説かれましたが、それは別に金井南龍師以外の行者さん達も説いてはおられます。この世に降りて来るということある意味「魂の刑」で「枠」という「型」にはめ込められてしまうのです。枠(苦渋・九十)に自由などないのです。ですから輪廻転生から外れる為にはこの世からの「卆(九十)業」が必要なのです。
仏教で「輪廻転生」から離脱するが説かれてきましたが、この世に出て来ることそのものが「カルマ」の解消の為であり、「カルマ」があれば「輪廻転生」から抜け出すなどは夢の中の夢と言えるでしょう。
人型=ひ(霊)と(止)は大地(土)の刑
カルマからの卆業には「苦渋(九十)」がのしかかる
仏教においては出家をすれば、そうした命をある物(肉類)を食さないが規律としてありました。植物にも命があると言っても、動物と植物では意味が違って来ます。そこで、野菜などの植物だけを戴くことが基本として説かれました。俗にそうした料理を「精進料理」と言いますが、肉食をしないことで精神的な分野が進むなのです。
では、どうして「植物」だけを食することが「精進」になるのかです。
植物と動物では同じ様に「命」があっても異にします。どこが違うかと言いますと「想念」の問題なのです。植物は大地に根を出して、栄養を得ながら育ちますが他の場所に自力で動けないのです。自力で動かない存在は「思考」しません。自分の栄養たる食物を取る思考をしないから基本的に「想念」を持ちません。
一方、動物は自分の命を養う為に食べる物を求めて移動します。移動するということは、そこに「想念」が生じて来ます。どこに自分の食べ物があるのかを考えなければならないからです。
草食動物は、より豊かな草があるところを求め、肉食動物はそうした草食動物を食べ物として狙う為に、草食動物を求めて移動します。そこには動物と言えども自己の命を養う獲物を捕る「思考・考え」が生じるのです。
肉食動物が自分の命を長らえる為に、他の命ある動物を殺して食することを神は罰しません。何故ならば、それは「摂理」だからです。
仏教において出家した者。すなわち僧侶には肉食が禁じられていました。それは単に命ある物を食べることが禁じられたのではなく、そこには深い意味が存在していたと言えます。
私が神霊世界に修業に入って間もない頃、私は日本神道で修行に入りましたので神様に「四つ足肉」を捧げることは禁じられていましたが、自分が四つ足肉を食することは別に禁じられておりません。そこで夕食に焼き肉です。
私は家庭が貧乏だったことも原因ですが、社会人に成るまで肉食はしませんでした。私が子供の頃はカレーは肉ではなくてはんぺんを切った具材でした。同級生が集まると、カレーの中身ははんぺんだったと話が弾みます。日本全体が貧しかったのです。
その肉を見ると、そこから「自分を食べてください。自分を食べて下さい」と、焼き肉達が私に訴えているのです。当然、こりゃ何だ?。と不思議に思って食べたのですが、少し時間が経ったところで、これはいかんとトイレに走りました。即下痢です。
そうか!。これらの肉には「想念」が入っていた。その「想念」の浄化か!。と気づいたしだいです。霊を浄霊する力がなかった初期の頃は下痢を伴っていました。四つ足の肉とは想念を持っている場合がままあるのです。
イスラム教では肉食をするのに作法が説かれます。作法の詳しいことまでは解りませんが、動物が持つ想念を摂取しない作法かと考えられます。
日本神道では「血(ち)」を「霊(ち)」とします。エホバの証人では、「汝、他の人の血を食べてはいけない」を輸血を拒否することだと走りましたが、意味が間違っているのです。「汝、他の人の霊(ち)を食べてはいけない」なのです。肉体には血が栄養を運びますが、魂には霊が血の役割をするのです。その霊(ち)に想念が入り込むのです。
魂にとって「智」を得ることは霊(奇魂)の栄養です
神道系では人の「腹」は、高天が原の「原」と同じとしますが、人の肉体の中の腹たる高天が原において他の霊の浄霊をもするのです。
念が強い人は、【波動】を起こすことが知られています。動物にも「念」が強い動物がいるのです。
念=【今の心】
牛でも豚でも個々に個性があります。豚など気性がおとなしい豚もあれば気性が荒い豚もいます。気性が荒い豚は豚舎に入ると噛みついて来ます。牛等は「屠殺(とさつ)」される前、自分は殺されると解っているのか、とても悲しい顔をします。時には目に涙しています。皆さんはそうした現場に立ち会ったことがないから、何も知らずに美味しい美味しいと食せるのです。
そこに「命」ある物を食する時、「頂きます」という感謝が必要なのです。それはキリスト教の様に神に感謝ではなくて、自分を生かしてくれる「他の命」に対する感謝なのです。
西洋人の中には愛ばかりを言い、くじらは可哀想だから食するな!。そして自分達は牛や羊の肉を喰らっている。本当に愛を言うのであれば「肉食」はしないことです。そうした間違った愛の人達の行き先は地獄でも最低地獄にと行きかねません。
そうした人の命の養いの為に殺される動物達も「命」があり、個体の性格が強い動物は強い「念」を持っています。
私自身修行の中で、最初の師匠が強い「狸」霊の霊障に出遭い、それに野狐霊まで加わって、その師匠が倒れるがありました。
これは私のHP「白狐の霊界物語」の「狸と狐の霊障」に記しています。
http://inariyama.com/byaltuko/page011.html
つまり、「肉食」をすることは、動物霊の想念も受ける(食する)ことでもあるのです。
古来よりと説かれる西洋人は荒々しく、東洋人は温和は食から来る想念から語られるのです。
仏教では出家した者達には「肉食」は禁じられましたが、そこには四つ足動物が持つ想念の問題をお釈迦様は御存知であったと理解すれば、納得なのです。
一方、キリスト教やイスラム教では「肉食」は禁じられてはいないようです。神は別に動物の肉を食することを禁じられたわけではないのです。アラブのような中近東は砂漠が主体で、土地柄的にも穀物とか野菜を育てる環境下にはありません。肉食が主体になっても仕方がない土地柄なのです。
そこは「荒ぶる」土地の「アラブ」だからです。
荒ぶる土地ですから、どうしても戦争のようなことが発生するのです。で、良心神が育ちませんので「椅子に良(ラ)が無」となる「イスラム」なのです。これを書くと私が「言葉遊び」をしていると受け取る方があるので嫌なのですが、大本教神諭が予告した「九つ花」を見れば、その意味も解るわけです。
逆にイスラエルは「椅子良(ラ)得る」となるので、モーゼは四十年間荒野を彷徨い、四十一年目にイスラエルに入ったとなるのです。
どこかの宗教に所属して、その教団が説く神の奉仕奉仕に出ていても、それはいったい誰に対する奉仕ですかとなります。その教団の教祖の神?。その教団の御神霊が貴方の霊界における魂の地位を上げてくださいますかとなると、信仰では魂の格上げは出来ないのです。自分の魂の点数を上げるのは、自分でしか出来ないのです。その人の行為行動であって、宗教の役目は魂の点数を上げる為の教えを説くことなのです。
宗(ムネ)の教とは、貴方の中の胸(六根)に宿る存在を教える
それが宇宙創造神からの示し(宇示)たる「宗」
人はこの世に生きている時、牛や羊の血だけでなく、鶏や魚の命も戴いているわけです。しかし鶏や魚などは想念があまりないのです。霊的世界では「蛇や狐や狸や猫神」が語られますが、これも想念の問題なのです。
では、自分は自分の命の養いになってくれた他の命に対して、どうお礼をしたらいいのかとなります。そこに、時には自分も他の命の為に犠牲となる。それが仏教では「捨身飼虎」のお釈迦様の説話になるのです。それが「神の祭壇に「牛と羊の血の捧げ」となります。
「捨身飼虎」は、このブログの最初の方にも書いています。自分は何時も何時も命ある物をいただいている。時には自分の命を投げ出して、他の命ある物の為に役立つです。これを一般的には「犠牲」心と呼んでいるのです。
犠牲=「牛(宇志)と我れは羊(義)」の道を持って、牛(宇示)で生きる
自分の損得ばかりに固執して、「尊徳」を忘れてはならない
聖書にカベルとカインの話がありますが、神は作物を捧げたカインより、羊を捧げたアベルに目が行ったとなっていますが、神が四つ足動物の血や肉を望まれたなどはあり得ないのです。
私が子供の頃に望んだ声は、「旧約聖書の神」と名乗られて、【我が書は旧約聖書なれども、旧約聖書は暗号書である。そのままに読めば必ず意味を間違える。暗号を紐解かないと意味が解らない】と私に告げられました。ですから、暗号だと知っていると意味が解けるものもあるのです。
そこにあるのは、羊の言葉は【譱(善)】であり
我れは羊は【義】のことなのです
愛も他を助ける為に自己犠牲の上に立つ愛であれば、愛も良心の意味となります。
しかし、スピリチュアルで説く愛とは、ほとんどが「我れよし」を増長させる愛なのです。
そうしたことが教えられぬ宗教であれば、そんな宗教にさほど意味はないのです。
そこに来るのが、米教では【他(田)を救い(鋤くい)て世根(米)となれ】になります。
稲荷の教えは、【実のれば実のるほど、頭を垂れる稲穂かな】となります。似通っていますね。
米教も稲荷の教えも【瓜二つ】なのです
狐の字を見ていて、「瓜」に不思議を思う人は少なし。
豊受の神が、私に【貴方の「言葉」の教えを聞けぬ神は如何なる神であろうとも、天帝に対する反逆者として裁かれる】と告げられましたが、これまで世に出られた御神霊は「言葉」に秘められた仕組みの理解には何一つ到らなかったようです。つまり「神の言」を理解していないかったとなるのです。
自分が信じる宗教の教えが絶対だと「狂信」に走ると、日本語と言えども言葉を仕組んでいる偉大なる神の存在が解らなくなります。言葉の仕組みをされたのは、どこかの宗教団体に鎮座されるような御神霊ではないからです。
創造神を祭る宗教団体を創る必要はなし、何故ならば「神は汝と共にあり」
人の肉体こそが、創造神のお宮なのです
人は「いと小さき者であり」。「言葉の仕組み」をされた創造神に対抗できるような存在ではありません。浅はかな「人智」で自己主張をいくらしたとしても、それは頭をもたげる「蛇」霊の道を進むことになりかねません。それでは永遠に「輪廻転生」から抜けられなくなってしまいます。