人に内在する良心神(神言会)

神は言葉なりき。言葉は言霊で構成され、その言霊による神の仕組みを解説する神言会(kamikotokai.com)のプログです。
神言会では人に内在する良心神(この世の閻魔)とは何かを説明しています。

みろく世に渡る為に、これまでの外在神から自己の内在神に切り替え時

私が「神言会」と呼ばれるHPを出してから既に十数年の月日が流れます。当時ヤフーの掲示板東洋哲学の輪廻転生を語ろうのスレッドが立ち上がり、私が2番目の投稿者となったのですが、何故かスレッドを開設された方はそれっきりで、結局私が「天典」の名で実質数年間に渡って説いて来ました。

そこで私が説きだしたのは大本教神諭予告「九つ花」から誠で紐解けるお釈迦様の悟りであった「人には良心と呼ばれる神が内在する」でした。当時、幾多の霊能力がある方がロムされていたようで、やがてロムしている方の中から「人に内在する良心神」は広がって行くと思っておりました。
ただ、それがお釈迦様悟りであった事実は、私がHPで出すまではインターネットでは流れていなかったはずなのです。その内容は曹洞宗の機関誌の小冊に記載されていましたが、世にはまったく知られていなかったからです。インターネットの時代になって来て、私は過去のその記事のことを思い出したのです。私とて「九つ花」を紐解くまで、そのことは記憶から消えていたのです。

私は別にそれを自分の一番手柄にする気はありませんので、世に「人には良心神が内在する」が広まればいいかと思っておりました。しかし、大本教の出口王仁三郎聖師さんのことを天狗などと言ったり、国常立尊様が「牛頭天王」であることさえ解っていないで「鬼」と言っているともなれば、内在神の間違いを正さなければなりません。内在神とは魂論に入らないと解らないことであり、唯一神へと導くのが内在神だからです。で、私もブログの世界に入ったのです。
いくら「人に内在する良心神」を説いたところで、間違った内容を世に発信していれば、それは最後の審判の時に逃げ切れなくなるからです。良心神とは、単に良い人の心のことではないからです。

この人に内在する良心神は、お釈迦様が過去に悟られただけでは意味が解らないのです。これは「蛇霊」と呼ばれる存在から解ることだからです。聖書に記載される「蛇の囁き」と連動しているのです。私が子供の頃に臨んだ声が「旧約聖書の神」と名乗られたのも、「蛇」霊の存在を知ることにあると言えます。
イエスの教えでは「蛇のように賢くあれ」です。蛇が智慧を意味することは説けていても、それが「邪」心に繋がるが説けていないのです。

大本教神諭が予告した「九つ花」とは、聖書の教え、仏教の教え、日本神道の教えを学んで来ないと紐解けないものだったのです。自分に○○霊とか××霊が臨んで何々を言った式では、絶対に解らない仕組みなのです。それは、外部から自分に語りかけて来る〇○霊とか××霊が言うことでは紐解けないのです。
それは、外部から自分に語りかけて来るような霊とは、創造神と呼ばれる様な霊ではないということなのです。特に創造神をマスターなどと言っている方は、根本的におかしいのです。創造神は居酒屋のおやじとか理髪店の主人ではないのです。マスターとは主人の意味に過ぎないのです。

私が2番目の師匠の元に居る時、ある方の霊障に関して霊査をしていたのです。その時、私の霊視に一本の棒が見えて、その棒に「蛇霊」が絡みついている。これは何の映像だと見ていると、その棒から「八方に光が放たれて」、その棒から蛇霊が慌てて逃げたのです。
下記の図は以前に出しましたが、いよいよ外在神から内在神に切り替え時に来ましたので、再度説明します。

最初に私に見えたのは棒に巻き付く蛇霊。

が、この「棒」が何なのか意味が解りませんでした。これは人の魂は丸い玉であるので、球には必ず「心棒」があります。その魂の「心棒」を見ていたのです。実際には霊的な心棒で、医学的にも科学的にも証明は不可能です。だが、丸い玉には必ず「心棒」があることは「力学」としては証明出来るわけです。
魂の中の「核」となる部分を日本神道では「直霊」と言います。良心を司る働きをしている場所であることは、大本教の出口王仁三郎聖師は「省みる」として説かれ、GLAの開祖である高橋信次師は、良心の働きを司っていると説いておられます。ただ、どなたもそれを「良心神」としては説かれなかったわけです。断定論までには踏み込めなかったのです。

私がその「直霊」のことを「良心神」と断定したのは、大本教神諭予告「九つ花」を誠で紐解いて「ラ」神論に到達したことからなのです。「ラ」は「良・羅」の二つをも意味する「言霊」だからです。
ただ、魂の中に「心棒」が存在して来るには、玉そのものが「正球」でなければなりません。いびつな玉だと「心棒」は出来ないのです。
自己の魂が「正球」であれば、そこに「正十字」が入ります。これが大本教が予告してきた「〇に十」字でもあるのです。〇十には他にも意味がありまして、一つだけではありません。下記の図は過去にも出しています。

この「心棒」を「神柱」とか「真柱神」とも言い。別に天理教の教祖が「真柱」神ではないのです。

 

天理としての「真柱」神なのです


天理教、開祖の中山みきさんも「41」歳にして神やしろ(西暦1798年6月生~西暦1838年12月神懸)。黒住・金光・天理を先走りさせて大本で完成させる。国常立尊の計画の一端でもあったとも言えます。

私は別に霊能者の方のような力は持ちません。だからと言って、自分の霊能力に奢る人達で、こうしたことが説けた人が居るかとなった時、誰一人として居られないでしょう。それは外から来る霊の言葉に惑わされてしまうからです。


なお私が書いている「八光」とは、俗に言う「白光」のことではありません。その光を見たければ、天の岩戸の中を見れば解ります。白色の光ではありません。最後の審判の為に使う光です。私はその光を見て、どうすればこの光に皆さんが耐えられるか?。それを思考した時、各自の良心神を出すより道がないと結論に到ったのです。
何故ならば「良心神」自身が天帝の分魂であり、真性「天照大御神」様だからです。真性「天照大御神」様が各自の良心神として内在する真性「天照大御神」様を裁きようがないからです。

 

「天の岩戸の光」とは、その時にお釈迦様、お釈迦様。イエス様、イエス様といくら祈っても対処出来ません。如何なる宗教の救い主と称している方の力をもってしても、その信徒達を守り切れません。自己に内在する良心神をもってのみ対処出来るのです。

私のHP「神言会」において、「内なる神と外なる神」を出しています。その図はこのブログでは大きくなりますので、同じ内容で絵柄も変えてブログに合わせた規格にしました。その内容より少し追加をしています。
http://kamikotokai.com/010/

ここで注意しておかなければならないことは、「神人合一」と本守護神・正守護神・副守護神が説かれますが。その中の「本守護神・正守護神」は自分の魂の源たる存在であることなのです。



スピリチュアルでは、自分にミカエルとかガブリエルとかマリア霊が降りて来る式の方が実に多いのですが、御本人が本当にそうした霊が自分に降りていると思っておられることは別として、これらは外から来る霊の声で頭の意識に働きかけて来る物で「外なる神・外流」となります。
私の元に「自分の前世は聖母マリアです。自分の今の子供が「キリスト」です。そうした声が天から届きました。自分はどうしたらいいのでしょうか?」。そうした相談メールが複数来ました。あちらこちらに自分の前世が聖母マリアであったと言われる方が居るわけです。
私は【自分が過去世で聖母マリアであったとか。自分の子供が「キリスト」ですとどうやって証明するのですか?。証明出来ないことを信じてはいけません】と返しますが、そうした方を頭から否定はしません。どこで自分はそうした声に欺されていると本人自身が気づくかです。霊界とは一筋縄ではいかないのです。

誰でも見に見えない存在が語りかけて来た時、他人の目に見えない光景が展開された時、それを頭から神だと思い込んでしまいます。それは今日迄の宗教が霊の存在を無視し続けたことが原因と言えます。ですから、そうした霊の言葉に欺されているとしても、その方は霊界の霊による被害者なのです。

私は神霊世界に修行に入った当初は「豊受」様にお世話になっていました。この場合豊受様は私にとっては外から神・外流となります。私の最初の師匠は豊受様の御代をしていましたが、その師匠の魂は豊受様のミタマを貰ってはおられませんでしたが、その師匠はこの日本で豊受様の分けミタマを貰っておられる肉体は100人は居られると言っておりました。
それが本当だとしても、豊受様の分けミタマを貰っている方は130万人ひとり程度しか居られない勘定になります。その全員が神に向かっておられるともなりません。中には見つかり次第邪神に狙われてしまう方もあります。

聖母マリアとは「人として出た存在」で神とは言えませんが、豊受様は人ではなくて神本来の存在です。で、その分けミタマを貰っているというのはおかしくはないのです。仮に聖母マリアで言うのであれば、その聖母マリアとは誰の分けミタマであったかを先に言うべきことなのです。

私自身、その豊受様のミタマを貰っている何人かに直接に出会っております。その方達からすると、豊受様はその方にとっては正守護神・本守護となり、外なる神・外流ではなくて内なる神・内流ともなって来るのです。ただ、同じ様に豊受様のミタマ貰っていても同格ではないのです。そこには順列が決まっているのです。

守護神論議において重要なのは、神人合一に関わる「本守護神・正守護神」であって、その存在が表に出ていない場合は、外からの神・外流にコントロールされてしまいます。
観音様だお不動様だと言ったところで、自分がその分けミタマとはなりません。どこまで行っても外在神で止まってしまいます。大本教の出口王仁三郎聖師は正神界・邪神界共に180段と述べておられますが、行者の世界では10段ぐらいにまとめています。そこで重要なのは神界の「段位」なのです。私はこれを「神の高山」と言っております。
外在神に頼り切っていると、自分の神界での段位を上げることはかなり難しくなります。自分の魂を神界での段位を上げて行くのは、自己の【内在神】に帰結していかなければならないのです。

その神人合一の状態に入った時の様子に関しましては、「白光真宏会」の開祖である「五井昌久」師がその著書に書いておられますが、それは体験すれば「なるほど」と解ります。自分がまったく別の感覚の中にあり、その状態ではこの世では人として暮らしていけません。
また、その時の自分とは肉体の自分そのものではありません。神界に居る自分を見るのです。姿形も顔もまったく別の物です。だが、それが自分であるということは自然に解るのです。それは「心」が同一だからです。

そうした正守護神・本守護神が表に出て来ると、肉体にある「魂」もその神霊段階に帰ることが出来ます。ここが非常に重要なところで、外なる神・外在神に頼っていると、神界でそれ以上の地位にある神に自分が成れないのです。
単に守護神・守護霊と言うのは、信仰していることから自分に憑く信仰霊。過去に縁があった霊。地獄から抜ける手前の副守護霊。神と呼んでいても蛇霊や狐霊や狸霊や猫霊など様々で、例えそうした霊が自分を守ってくれても、その霊に頼れば自分が霊界では蛇霊界や狐霊界や狸霊界や猫霊界などに行くことになります。

何故、本守護神・正守護神が説かれて来たのか?。それが理解出来ないスピリチュアルなどは捨てるべきものなのです。「人は神の子・神の宮」。そうした神人合一の段階まで行けばそのことが解ります。

モウ、自分には天帝の分魂である「良心神」があるにも関わらず、そうしたことを知ろうとしなかった今日までの自分の怠慢・過ちをお詫びして、創造神が造られる「新しい世に嫁ぐ花嫁」となる為に主の元に帰る。そうした信仰に「切り替え時」に来ています。


それはに主の代位者を認めず、直接に主の神を唯一神とし認めること

唯一神の存在を説く者は、全て創造神の下僕の一人にしか過ぎないのです。

神は汝と共にあり


人は神の子・神の宮
 



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