人に内在する良心神(神言会)

神は言葉なりき。言葉は言霊で構成され、その言霊による神の仕組みを解説する神言会(kamikotokai.com)のプログです。
神言会では人に内在する良心神(この世の閻魔)とは何かを説明しています。

表は「慈愛」の地蔵菩薩でも、裏は「閻魔大王」。閻魔の浄玻璃鏡とは?。

仏教では「地蔵菩薩」が語られます。この地蔵菩薩とは「閻魔大王」の化身とされています。大本教から「ウシトラ金神・国常立尊」が出されましたが、これが大本教で「節分の炒り豆で鬼は外と追われた神」とされているのは、鬼として追われているのは閻魔大王の配下の番卒(羅卒)達だからです。
そこに、大本教神諭にウシトラには「牛虎」もあるぞよとなっています。牛頭虎パンツの「鬼」達です。
私自身、修業に入って数年後、霊的に牛頭の人を見た時には絶句してしまいました。無論、それは「閻魔大王」ということではありません。それが「牛頭天王」その方であったかどうかは別として、牛頭をした人の存在です。

この閻魔大王の化身とされる「地蔵菩薩」は、お釈迦様の死後「五十六億七千万」後に救済の為に「みろく菩薩」が出て来るまで、その間人々を救う役目を背負った菩薩とされているわけです。世間で地蔵菩薩とされる存在と「閻魔大王」が同一体であるならば、私達はそこに言葉の読み違いを犯していたことになります。地蔵とは「地(ち)蔵(くら)」だからです。

日本神道に「千座(ちくら)の置戸(おきど)」と呼ばれるものがあります。これは古事記における八百万の神共に議 (はか) りて、素戔嗚尊(速須佐之男命)に全ての罪を背負わせたにある文面です。神々が集まって「国常立尊」を悪神として追放したと同じ意味合いです。どちらも「ちくら」で括られているのです。

五十六億七千万の意味は、前回のブログで説明したように、大本教神諭予告「九つ花」と主の神「35万年前」に御引退で導き出される神界の数字です。


閻魔大王=地蔵菩薩(地の蔵「地獄における救済」の意味)

この地蔵菩薩は「六道輪廻」の入口に立つとされて来ました。その六道とは地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道の六道が説かれています。その内、
三善道として、天道・人道・阿修羅道があります。
三悪道として、畜生道・餓鬼道・地獄道があります。

この時、修羅道が善道かとなると、誰もが疑問を持たなくてはなりません。自分勝手な怒りなどで人と争う方の魂を見ると、魂が「捻れ曲がった」り、魂の点数も低く出ています。それで善道などと言われたら、何!。???となります。
そうしたことからか、インドでは阿修羅は地獄と一緒にして「五道」とも説かれているようですが、はっきり言って「六道輪廻」の教えは間違っているのは確かでしょう。
「六」の意味は「冥土」の「冥の字」にあるからです。三途の川の渡し賃が「六文」。「禄(六)」がないと天国等行けません。


人が魂を磨く過程においては「修羅場」をくぐり抜けるはあります。しかし、この六道輪廻の論理には「カルマ」の原則が抜け落ちています。しかしながら、この修羅を「羅を修める」と読みますと、それは地獄(羅)で罪の償いをしていると見るなれば、それは次に人として世に出される善道を言っているともなります。
これは「閻魔大王」の別名として「羅王」があり、その羅城の門が「来世門」と呼ばれて来たことが解っていたならば、「羅を修める」は来世をいただけることになるわけです。
この「来世門」の門番が「邏卒」と呼ばれる鬼であることから、来世門(羅生門)には鬼が住むという物語ともなったわけです。

これらは全て「言葉の仕組み」の為であったと理解するならば、私は大本教における「神芝居」のスケールの大きさに感嘆するのみです。

私が稲荷講に所属している時、月に一度の月次祭(つきなみさい)に出席すると、神社の御祭神である豊受神が「神鏡」を持ち出して来られていました。
世に神鏡と呼ばれる遺物が発見されていますが、神界で神々が使われている神鏡を見ると、まったく別物であると認識することが出来ます。
中国や日本で神鏡として発掘されたものは、実際に神々が持っておられる鏡とは異質の物であり、その「神鏡」を造ることなど出来ないので、その用途が解りやすいレプリカが作製されたと考えるのが順当かなと見ています。
レプリカ的な神鏡を持ち出して来ても、何の役にも立ちません。単なる「型」の示しなのです。

神鏡は単なる鏡のことでなく「心鏡(しんきょう)」を写す。

これはある意味、「狼がくれたまつげ」と呼ばれる話と同じことなのです。人を見ると、狼や犬や猫や狐や狸や鳥や虫等に見える。その人に如何なる霊が懸かっているのかを見ると鏡と言えます。

仏教で語られる「閻魔大王」が持つ「鏡」とは、死者が生前に犯した全ての行為が映し出される物とされています。
実は一部の霊能者だけかも知れませんが、「過去の光景の巻き戻しをされる」方があります。
私など自分に見えて来た光景が何を意味するのか解らない時、そうした巻き戻しが出来る霊能者の方に頼んで、私が見た同じ光景を巻き戻して見て頂いて判断を仰いでおりました。ところが私が見る光景はほとんど天からものだと、その霊能者御自身は潔斎して見るという仰々しさになり、潔斎をしてまででは申し訳なく、その霊能者の方から答えをいただく前に私に意味が解ることがが多かったので、現在はよほどの光景でないとお頼みはしていません。

巻き戻しが出来るのは霊界の映像は「磁気的」なもので、テレビジョンで遠くから送られて来る「電波」を磁気に録画して、再度その映像を見るようなものです。為に過去に起きた映像も呼び起こせるわけです。ただ、それは万人には出来ないわけです。神々や非常に優秀な霊能者の方ですと、それを可能としているわけです。
人は過ぎ去った「過去」は記録されていないと思いがちですが、人が行動する時、何かを思う時にも「像」を創り出して絵的なものが出せます。これらは全てエネルギーを使用しているので、磁気として霊界で記録されているのです。今はCD等で記録しますが、前は磁気テープで映像が記録出来たことから解るように、磁気として残るわけです。



私は「豊受」様と呼ばれている神様と長く関わって来ましたが、「過去」の出来事を外されるはありませんでした。しかし、未来形と成る部分では、私に関してはまったく的中しないで、豊受様の御代をされていた師匠があまりにも外れるので理由を尋ねられたところ、「この者はこの神をして、見通すことが出来ない高き霊世界の神力にコントロールされている。この者のことが解る神は日本国中探しても無し」と告げられたと言います。

霊能者の元に相談に行って、その相談者の過去が見えていないという御神霊であればその力は弱いとなります。
その一方、過去に関してはスバスバと当てる御神霊でも、その相談者の未来を外すとなるとその御神霊の力はあまりないか、その相談者のミタマが飛び抜けて高いかがあります。霊界ではそのミタマが高いと、下位の御神霊では見えない解らないに入ります。

今もって大本教の出口王仁三郎聖師は近代日本が出した最高の予言者とされるのも、その予言はほとんど当たっていたからです。それは霊的世界でも「未来を見通す神」の力が入っていたからと言えます。
私の最初の師匠も、阪神淡路大震災や普賢岳爆発など事前に言っておりましたが、それは「豊受」様の予言であり、その師匠が豊受様から当時の日本で10本指に入る霊能者だと告げられていたからです。

私は霊能者ではありませんし、豊受様の御代もしていません。しかし、そうした豊受様とか木花咲耶姫様の御代クラスの霊能者であれば、東日本大震災でも事前に解っていてもおかしくないのです。単に御代だけでは教えて貰えません。そこに日本でもトップクラスの霊能者であることが要求されて来るのです。

よく、自分のことをサニワが出来る神などはないと「うそぶいて」いる方がありますが、それは本当に優秀な霊能者に出会っていないだけで、以前に霊能者達がお釈迦様の再来だと言っている教祖様に出会いましたが、とてもとてもお釈迦様の再来だと言えるレベルの方ではありませんでした。そうした霊能者よりは霊界で一段上だけの段階でした。
この教祖様をお釈迦様の再来だと言っている様な段階では、その霊能者の霊的段階もそれほど高くはないということなのです。

私が子供の頃に臨んだ声が私にあることを告げました。そなたが本当は何者かは神々にも解らないようにしておく。そなたも自分が何者かは知らず。肉体のそなたは馬鹿を演じておればよい。神界の御用で働くのは肉体のそなたにはあらず。そなたの魂である。
されど、そなたの背後にこの私が居ることが見抜けぬ神は、使い物にならぬ神である。
そなたを見てそなたに頭を下げる者があれば、そなたはその者と同じだけ頭を下げなさい。その者はそなたを見て頭を下げたのではなく、この私を見て頭を下げたのである。
反対に、そなたに向かって頭を下げられぬ者は、この私を見ることが出来ない神である。

私は霊能者をしているのではありませんが、時々神々が平伏しておられる光景を見て、これは何事かと最初の師匠の元に行っては、こっぴどく叱られておりました。「神々はあなたに平伏されているのではない。あなたの背後の方に平伏されているのをあなたが見ただけです。あなたはあなたの背後の方がまったく見えておられない」でした。

そうしたことを聞いて、私は自分を「鏡」に徹しようと思いました。自分を鏡にしておくと、私を見て敬う方はその方自身の魂が投射されいるのだと。反対に私に向かって上から目線と言う方は、その方自身が人に対して常に上から目線の方であり、それが投射されて行くのだと。
つまり、自分自身を「鏡」にしておくと、相手の「心境」が読めて来るわけです。

私はそれが本当の「閻魔(各自の良心の羅)」の鏡であろうと考えています。

そもそも「浄玻璃」の「玻璃」とは「水晶」のことでもあり、水晶によって浄化するが「浄玻璃」となります。
魂は「浄化」されていないと水晶の様に「透明」にはなりません。

大本教からは、みろく世は「水晶ミタマ」が予告されました。みろく世では自分が犯罪を犯せば、それは誰が見ても解るです。すなわち閻魔大王の「浄玻璃の鏡(じょうはりのかがみ)」となって来るのです。

仏教で閻魔の鏡、「浄玻璃の鏡(じょうはりのかがみ)」は善悪の見極めに使用されると説かれて来ました。私達が善悪を見極める時、自分の中に「良心」神が必要です。

良心神=この世の閻魔



五十六億七千万の仕組みを終えて、みろくの世に移行するも

輪廻転生を終える日までは慈愛の地蔵菩薩でも

最後の裁きは誠(言成)の厳しき閻魔大王の顔となる


古来より説かれて来た事柄をまとめれば、神の教えは存在し続けた。
教祖を拝めば救われるなどの誠の道を違えた宗教には鉄槌が落ちる。




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