私は子供(小学生の時代)の頃、旧約聖書の神と名乗る声の教えを聞いていましたが、その声は中学生頃になると消えて、社会人ともなると神の存在などすっかり忘れておりました。
そうした私の身に、昭和五十五年、実に摩訶不思議な出来事が起きたのです。私の目は開いているにも関わらず、私の周囲の景色は徐々に暗くなり、やがて何の光も見えない闇の世界に入ってまったのです。
私の周囲には少しは人が居て、その話し声や音楽が流れています。声を出せば何事かと誰かが助けには来てくれる状態です。
それは私の周囲が暗くなって来たのではなくて、私の目は開いているにも関わらず、私の目は何の光も捉えることが出来なくなっていたのです。私は自分の脳の異変か?、それとも目の異常で何の光も見えなくなって来たのか?。このままでは私はこれから先、視力を奪われてしまうのか?。そうした恐怖に打たれていました。
すると、まるでその暗闇の地底から響いて来るような恐ろしい声が私にあることを告げたのです。とてもその内容は私には信じることが出来ない内容でした。
それよりも地獄の底から響いて来るような恐ろしい声におののきました。こんな恐ろしいと感じる「声」に接したことがなかったからです。私はそれまで「声」があんなに恐ろしいものとは思ってもいませんでした。それはまるで「閻魔大王」様の声かと思ったほどです。
私がその言葉を信じることをためらっていると、その暗闇の中から三体の僧姿の者達が現れて、まるで地獄の閻魔大王様の声かと思った声が言った内容と、同じ内容を三度も告げたのです。
その三体の僧は真ん中の僧だけが真っ直ぐに立ち、残りの二人が真ん中の僧に対して横向きにひざまずく形態を取っていました。
後でそれは人型で「りっしんべんの心の字」を意味したものであったと理解しました。漢字で出すと第4水準漢字で機種によっては出ない場合がありますので、「りっしんべんの型」と説明しておきます。
3体の僧姿の霊が揃ってそこまで言うのならば、私が信じますといった途端、私の開いた目には元の光景が一瞬にして戻って来たのです。
これはどういうことかと霊能者の方の元に行ったところ、その霊能者の方の前にその御三体の僧の姿をした方が現れて、その霊能者によれば真ん中の方は私の家系の先祖霊さんで、僧侶ではないとのことでした、
その真ん中の方が私の家系の先祖霊であることは、その霊能者の方では知ることがないある事実を突きつけて来たのです。その説明は私の先祖霊であることの証明としては充分なものでした。それらは単に憑依霊とか愉快犯の霊では知ることなどない事実です。が、その霊能者の方にも残りの二人の僧が誰なのかは解りませんでした。
その残りの二人は真ん中の方のお弟子さんだとは言われるのですが、私の家系先祖霊に僧などは居らず、弟子を持つほどの行者なども聞いたことがありませんでした。
後日、その御先祖霊さんと日連聖人が入れ替わっては私の前に出て来られるで、御先祖霊さんだけではどうにも意味不明でしたが、何年もの年月を経て私の家系の御先祖霊は日蓮聖人さんの御分魂で、他の二人の僧は日蓮聖人さんの直弟子であった方と判明しました。と言って、私はその御先祖霊さんと肉体の血脈はありません。私の祖父が養子で入った家だからです。また日蓮聖人にしても、その肉体の子孫は存在されてはおられないはずです。
あるサイキッカーの方が私の背後に日蓮聖人らしき姿が見える。あなたの前世に日蓮聖人の時があったのではないだろうか?。と尋ねられます。しかし、日蓮聖人にしては何かおかしい。御本人も首を傾げておられましたが、それが日蓮聖人の御分霊だとは解らなかったわけです。
出雲大社教の教師の方が、あなたには出雲の神に匹敵するほどのチカラを持たれた五代前の御先祖霊さんが居られるでしたが、単に先祖守護霊で出雲大社に匹敵するチカラがあるでは話はおかしくなります。その霊能者の方もその御先祖霊が日蓮聖人さんの御分霊だということまでは見抜けなかったようです。日蓮聖人ならば出雲の神に匹敵する存在と言われても別におかしくはないのです。
よくあなたの前世は〇○だと言う方がありますが、守護霊と間違えておられる場合もあります。人は輪廻転生の中で生まれ変わる時期は様々なのですが、家系は肉体の血脈ではなくて家系の霊脈が優先しますので、自分の肉体の子孫は絶えても養子の子孫としてその家に生まれ出るもあります。だが、私はその御先祖霊の生まれ変わりではないのです。
間違いなく自分の前世と確実に言えるのは「正守護神」と呼ばれる存在だけであって、人にはかなりの霊が憑依しており、副守護神と呼ばれる先祖守護霊や背後霊的な憑依霊の存在で、あなたの「前世」だと言われても困るわけです。
退行催眠も正しくないとされているは、退行催眠させてもそれで憑依霊が除去されているわけではないからです。眠っていても霊の憑依は起きるのです。
私が子供の頃に臨んで来た旧約聖書の神と名乗る声は、「そなたの前世は悲運の最期を遂げた武将であった」と告げられましたが、その名前までは告げられませんでした。
ただ、「過去の自分が神として祀られていたとしても、その名を持って世に告げてはいけない。過去の自分を知らずして神として敬うこともある。過去の自分の業績がどうのこうのではなくて、今の世の自分の名をもってして遂げるが大切。過去の自分を詮索することは無意味である」と言われたので、もしかすると自分の前世は「神」として祀られているのかとも思っておりましたが、私の正守護神として出て来た武将霊で、それが私の前世だとは解って来ました。その存在は神として祀られてはいます。だが、その魂の肉体は今の世に居るわけです。
日本の霊学では「本守護神・正守護神・副守護神」が説かれておりますが、その正守護神と同一化することが「神人合一」と呼ばれており、それを何も理解していない「守護霊」論議はあまり意味がないことになります。
無論、世の中には私の正守護神として出て来た存在を自分の前世だと公表しておられる方も少なからずあります。少しは知られる名だからです。それをもって、どちらが本物だとかニセ物だとか争っても意味がないことなのです。
それは今を生きる自分の名をもって為すことであって、過去の名をもってして為すではないからです。
基本は過去の自分を持ち出して何になるかです。現に人は誰しも「この世」に生きています。その自分にとって必要なのは「過去」の自分云々ではないのです。過去に如何に神として祀られている存在であったとしても、今の世に生きている自分の魂が死後の世界で神と成るではなくて、一歩道を誤れば「地獄」に叩き込まれてしまうのです。
逆に過去は如何ほど極悪人であったとしても、犯罪を犯していても「今の世」に出させて貰ったということは、今の世の生き方次第で創造神の御座所近くまで行けるのです。その為の「輪廻転生」なのです。
私は自分の目が開いているにも関わらず、周囲に人達が要るにも関わらず、自分だけが真っ暗闇の中に入れられたことで、とんでもないことに気づいたのです。
それは私がそれまで見て来た宗教書や霊的なことを記した本には書かれていない現象でした。そこで自分以外にもそうした「真っ暗闇」の中に入れられた体験を持つ方を探しました。するとやはり同じ様に徐々に暗闇の中に入れられて見えなくなった。その事が神霊界に仕える転機となっていた人達が存在しておられました。
生まれた時から盲目であればそれなりに生活が出来るかも知れません。しかし、
それまでは目が開いて見えていた者が、突然に「何の光も差さない世界に入り込んだら」、それは「恐怖」以外の何物でもありません。
大本教神諭に、その時には顎はガクガク震えて、四つん這いで歩かなければならない式の記述があります。私はそれを最初は大地震のことかと思いました。
霊界には東京に大地震が起きる映像があります。その時には東京に入る橋はことごとく落ちて、東京に援助物資を送るにも橋が落ちてない為に大回りで、ほぼ陸の孤島化していました。
その超大地震に「10」の数字が出て来ました。それは震度「10」なのかマグニチュード「10」なのかは解りませんでしたが、その超大地震ことなのかとも思っておりました。無論、それは霊界にある映像であって、現実に起きるではありません。可能性です。
だが、大地震であれば一瞬四つん這いで歩くがあっても、それは短時間的なことであって、ずっと四つん這いで歩くようなことにはなりません。だが、それまで自分の目に見えていた光景が何の光も見えないとなったならば、立ってなどで歩けません。手探りで四つん這い的になります。また、あまりの恐怖に顎はガクガクにもなるでしょう。
私はそれにより、人の目にはあらゆる光を見させない天幕(シャッター)が存在している。それを創造神が全人類に対して執行されたならば、聖書などで言われる「太陽も月も星も何も見えない」状態に陥るということなのです。
いくら創造神でも全宇宙を作り替えるともなれば、とてつもない現界時間を必要とします。しかし、人々の目に「何の光も見えない」。そうした状態に放り込むことは可能だとなれば、それは即座に起こすことが可能なことと言えるのです。
ただ、それを全人類に対して一斉に行えば、走ってる車はすべて何かとぶつかったり、あらゆる経済活動も全て停止してしまうでしょう。そのまま目を開けて貰うことが出来なければ、米や野菜を作ることも出来ず。魚を採ることも出来ず。やがて蓄えの食料は尽きて、全員飢え死に入ってしまいます。
スピリチュアルと称する方達の一部には、自分達は既存の神以上の存在だと思っておられる方達もあります。しかし、既存の神に仕える霊能者はそうした体験をされていたりで、神は恐ろしい存在だと思っておられます。
私はそうした恐ろしい体験を積んでいる者なので、神の御神前では恐(かしこ)み恐(かしこ)みをしています。私にはとてもスピリチュアルを標榜する人達の感覚にはついていけません。何の恐ろしさも体験されていないからでしょう。私など、とても神に対する不敬など犯すことが出来ません。
私は自分の目は開いているにも関わらず、「何の光景も見えない暗闇の世界」に叩き落とすことが出来る事を私以外にも体験されている神の御代的な霊能者の方達が存在されていることから、これは万人対しても起こりえる出来事かと思っています。
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