私はスピリチュアルの方達が「神は光だ!」と言われることを完全否定はしていません。
何故ならば全ての魂は「光の玉」であり、「光の玉」で無い魂など存在し得ないからです。
下記の2枚の写真はオーブと呼ばれるものではなくて「光」が写ったもので、光の輪になっています。光を直視していると気づかないのですが、光も瞬間的に写すと丸い輪で玉型に関係していることが解るわけです。特に一枚目は輪の中に「核」的なものが見られます。
こうした写真は時々写されて、これを「ゴースト」と言っていますが、ゴースト(幽霊の意)と言っても写真として写ればそれは存在している物質であることを語ります。幽霊も写真に写るがありますが、私達の肉体の目に見えなければ真実では無いではないのです。人の目は全てを捉えることは出来ないのです。幽霊も写真に写れば物質なのです。
神には、言葉を申し示すの【神】があり、エネルギーを出す【か(火)み(み)】があります。それがどれほどの邪神や悪魔であっても霊的エネルギーがあれば「火水(かみ)」たる存在で「光(火借)」は出せるのです。
そうしたことを理解していないで「神は光だ!」は大きな間違いを生み出す言動であることを指摘しておかなければなりません。夜にたき火を燃やせばその周囲は当然明るくなるでしょう。それも「光」です。
光(火借・火仮)=正神の意味でなく、火水(かみ)のエネルギー
太陽もまた「核融合」によって燃えるエネルギーの光(火借)です。
下記の写真は過去に私のHPやブログで出したものですが、木曽御嶽山の上がり口にある「某不動明王」様が出された霊光の写真を再度掲載します。
なおこの写真は私が撮影したものではありません。霊能者をされている方ではありませんが、それなりの神霊格を持たれている方が写されたものです。
祀られている御神霊が霊光を放たれる。そうしたことは事実ではあるのです。だが、それを持って「神は光だ!」で行くと、根本を見失ってしまいかねません。個々の神霊が出される霊光と「太陽神」では意味が違うからです。
龍神と呼ばれる存在が出す「光」は、創造神の「光」ではないのです。ある意味非常に限定された狭い範囲の光にしか過ぎないのです。また、御神霊が出される光とは限定的なものなのです。
私がヤフーの輪廻転生の板で論陣を張る前、同じ東洋哲学のカテゴリーに「幸福の科学を語ろう」というスレッドがあり、アンチ幸福の科学の方も歓迎で、アンチ派としてスレッド主とやりあいをしていました。
そのスレッド主さんは霊能力があるということで、幸福の科学の教祖である「大川総裁」を直接に見た時、大川総裁の体が「金色」に輝いていおられた。この方は間違いなく「永遠の仏陀」と解って信徒になったと言われます。そして幸福の科学での「教師」を目指しておられると言われます。
信仰は個々の人の判断であり、誰を神と担がれようがその方の自由です。私は別に幸福の科学の「大川総裁」が霊能者の視点で見た時、「金色に輝いて」見えたと言われることは否定しません。その方には金色に見えたは事実でしょう。しかし、問題は「金色に輝いて」いたならば、それをもってその方が「永遠の仏陀」に当てはまるかどうかなのです。
私は知りませんでしたが霊能力がある叔母が死んで、その子供達と話をしていたところ、幼い私が「後光」を放っているのを見た叔母は、この子は「神仏」が生まれ変わって出て来た子だ。この子は大切に育てないといけないと、私より年長のいとこ達に言っていたと言います。
私自身が自分は後光と呼ばれるような物を放っていると知ったのは、高校生の時に修学旅行で行った別府海地獄の水面を見ていて、そこに写る私の影の淵が金色に出ているのを見て、自分は神仏を背負っていると気づいたしだいです。
その時、自分は誰を背負っているのかと思ったところ、一体の白装束の仙人のような方を見ました。その方が私に付いておられる。だが、それが誰であるかは解りませんでした。私にとっては「爺やのようなお守り役」。だが、神界きっての厳しい育て方をする方。これはとんでもない方を背負っている。たまったものではないと、一目散でその場を逃げたものです。
私が伏見稲荷山で修業をしていた当時、豊受神と並んでその仙人のような方が私を見ておられるので私の横で修業をしていた師匠に尋ねたところ、ある御神霊だと答えてくれました。
後日、この御神霊は国常立尊様の御分霊神であることを知り、驚いて最初の師匠の元に行って確かめたところ、その通りでした。しかし、霊能者でそのことを知る方はごく僅かであることも知りました。このことが解ると、大本教霊界物語に書かれているある内容が解ります。それを紐解く鍵は霊界物語に書かれていますが、説明はなされていなのです。為に盲点となっていました。
そこが解けると、大本教から出された予言の数々が何を言っているのかが解って来るのです。
私の修行の最初の頃、いろんな霊の訪れを受けました。どうして私のところに来たのかと尋ねましたところ、私の魂が発している霊光は「緑色」で、こんな緑色の光を放っている方はこれまで見たことがないので訪ねて来ましたでした。
色そのものは光の出方しだいで変化しますので、自分よりも他の方に見て貰った方が解りやすいことではあるのです。その時の色がどうして「緑色」であったのかまでは当時は解りませんでした。
私を訪ねて来た霊達は私が放つ霊光の色を目印に来たようですが、霊能者と呼ばれる人達からは貴方は何色の霊光を放っておられると聞いたことがありませんので、私の魂は通常は霊能者には魂の霊光を見せないようにしているのだと思われます。
自己の光を隠しておくことで、どこの誰か(身分)を解らないようにしておく。隠れているのには好都合なのです。
霊媒質の女性が一部の霊能者から目を付けられるがあります。そうした霊能者はそうした霊媒質の女性を自分の手中に収めて霊的に利用したいからです。霊媒質者を見つければ、その霊媒質者に相談者の病気を移転させる等が出来て、相談者から大金をせしめるが出来るからです。
どうして悪しき霊能者に霊媒質者は見つけられてしまうかとなりますと、御本人が「霊光」を出しまくっているからと言えます。それではまるで自分を見つけてくださいです。逆にその「霊光」を隠してしまいますと、そうした霊能者からはまったく見つからないとなります。神は光だ!が持つ反作用と言えます。
自分が金色に輝いているかと言って、それをもって「永遠の仏陀」にはならないということは、この「木曽御嶽のお不動様」の霊光を見ても言えるわけです。全国の瀧場には、こうしたお不動様が何万体も祀られているからです。その何万ものお不動様にしても金色の色を放つことが出来ることになります。
私は常に単なる霊感持ちは、霊界サイドからすれば簡単に霊光で騙せる対象だと言っています。私の過去のブログに「観音として自分を祀れと言った大白蛇霊」のことを書いておりますが、その方は自分自身に降りた霊光に打たれて、それは創造神様かと思ったと言われています。「霊界の太陽」を知らないと、なまじ霊能力があると誰しも思うことなのです。
聖書に記載される【霊界で年老いた蛇】の龍神と呼ばれる存在が出す霊光はかなり強烈で、その霊光に騙される霊感者は後を絶ちません。「かみ(火水)」たるエネルギーを持つからです。
邪神と言えども光を放ち、時には金色に輝いて出るのです。
光で正神とか邪神とかを判断するのは不可能なのです。
日本昔話に病に伏したある侍の居士(出家をしないで仏道を修業する者)の前に金色に輝く阿弥陀如来様が現れた。死ぬ前のお迎えに来たです。それを見たその居士は病の布団から起き上がると、自分などの様な者の前に金色に輝く阿弥陀如来さんが出て来るなどはあり得ないことと、弓を持ちその金色に輝く阿弥陀如来に向かって矢を放ったところ、そこに矢を射られた狸が死んでいたがあります。
古来より、金色に輝いているからと言って、騙されることを教える話です。
神は光だ!という前に、全ては「光」を持っていると言うべきことでしょう。
言葉もまた「光」を持ち、象形文字も「光」を持っているのです。
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