聖書には人類の祖とされるアダムとイヴは、「蛇の囁き」を受けてエデンの園から追放されたとします。すると、蛇の囁きに負けた人類は「蛇の囁き」から脱却しなければ、本当の「神の御国」には戻れないとなります。
キリスト教ではこれを「人類の原罪」として、イエス一人を「神の御子」と信じれば「エデンの園」に戻れるとしたわけです。
で、そもそも「蛇」って何?
英語だと蛇は「スネーク(Snake)」ですが、これだと絶対に意味は解けないようになっています。
よく言霊で「蛇」の意味を解読しようとされる方がありますが、その場合、「へび」は「辺美」と理解されます。それは、あまり意味をなさない物(辺)に美を求めている存在となります。それもある意味では当たってはいるのです。
蛇霊は価値が無い物に執着しています。名声とか権力とか金です。いくら大金を持っていても天国界には行けません。が、「漢字」で見るとなお言葉の意味がよく解るようになっています。
私は中国の「盤古大神」に拝謁して、大本教の出口王仁三郎聖師さんの霊から「漢字」だよと教えられたことから気づきました。大本教霊界物語には、中国で創造神とも言われる「盤古大神」から「国祖・国常立尊」に「神界の大政奉還」があります。ここを単に通り過ぎると意味が解らないのです。
蛇=虫(無視)+它
蛇が虫に、まずおかしいと解ります。これは「虫」ではなくて「無視(ムシ)」の意なのです。で何を無視しているのかと言いますと「它」を無視したなのです。
だが、「它」を見ていても、皆さんには無視された「它」の意味が解けないでしょう。
言葉の「言」とは、口より出る自分の心のことです。
人は誰しもその肉体は死にます。だが、心(魂)は生きて霊界(あの世)へと渡ります。その時、日本仏教では【三途川を渡る】と説きました。その三途川には脱衣婆(本当は美女神)が居て、死者を裸にして(この世で汚れた物を捨てさせる)、三途の川を舟で渡らせると私達に教えて来ました。
その三途川で舟の渡し賃は「六文」銭とされて来ましたが、お金のことではありません。その六文銭とは「この世の禄(六)たる銭との引き替え」の意味です。
すなわち、この世で「禄」がなかった者は、三途川を渡る舟には乗せては貰えないという意味です。舟で無く無理に三途川を渡ろうとすると川は即座に濁流となり地獄界に行くとされています。
スピリチュアルで地獄など無いと平然と言っている方は、三途川の渡し場も地獄も見たことが無い霊界の無知者なのです。
何故、「三途川」を渡るのに「舟」が表現されていたのでしょうか?。
それは「心」は「舟」形に乗るからです。世界の神話を見た時、魂は舟に乗るはあるでしょう。
新しき「みろく世」に行くのは三途の川でなく、霊界の大海原を渡ります。
蛇は、船の「舵(舟+它)」を真っ直ぐに取れずに蛇行する者。
私達の魂は誰しも「輪廻転生」をしています。ある時代の一生であなたは「王」であったかも知れません。ある時代の一生ではあなたは「悪人」であったかも知れません。その時、その時の貴方の生き様は魂(心)全体を「船」とした時、その船を漕ぐ一本の「櫓」なのです。
正しい人生を送った時の「櫓」と間違った時を送った「櫓」は、同じ櫓であっても漕ぎ方が違ってきます。その時、船(心)の全体を進める「舵」が重要になるでしょう。
舵=舟+它
その「它」で、「蛇」ともなれば、仏陀の「陀」ともになるのです。舵が正しく取れなければ、それでは大海原になればなるほど「後悔(航海)」が出来ません。
大海原を渡るとすれば、北極星(妙見様)を目印とする。あるいは「羅針(ラ神)盤」を必要とするでしょう。
大本教神諭が予告した「九つ花」は、お釈迦様の悟りを「みろく(369)」で説き、航海の神たる妙見様で種を明かし(大本教神諭・この神は北を上にする)、ラ神論で「生きる為の指標」を開かさせるわけです。
キリスト教徒は「イエス」一人が神の御子で、イエス一人を神の御子と信じれば人類の「原罪」である「蛇の囁き」から来る罪を赦されて、神の「御国」に救われるとします。
確かに旧約聖書には、終わりの前に人類を救う為に主の御子を人類の上に遣わすとあります。果たして、「イエス」はそれに該当していたのかとなります。
イエスは蛇に関しては、その弟子達に「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と説きました。
蛇霊が「智慧」を意味することは知られています。しかし、いくら蛇のように賢くても「良心神」が解らなければその智慧は「邪心」ともなる道なのです。詐欺師はすごく智慧が回ります。
邪の道は蛇
ある日、私の前に現れたイエスは、私に「瑞西(スイス)の白十字架」と見せて来ました。スイスの白十字???。
スイスの国旗は血を表す赤に白十字です。それに対して、厳霊の旗印は火を意味する赤に白十字を使いますが、色合い的にはほぼ同じです。

イエスは「魂の心棒」を見ず、その心棒に蛇霊が巻き付く様を見なかったことにより、その教えに間違いが生じているのです。イエスは「瑞霊」魂であったことは確かなようですが、主の御子の「厳霊」魂のことがよく解っていなかったのでしょう。それでは「ス」神で終わってしまうのです。
お釈迦様とイエスの根本的違いは、
「人に内在する良心神」を理解していたか、していないかなのです
お釈迦様は第七識界レベルだったと言われています。イエスは第五識界レベルであったとされます。弘法様やマホメットは第四識界だったと言われています。
イエスや弘法様やマホメットが「人に内在する良心神」に気づかなかったのは、識界レベルの違いだったようです。
スピリチュアルを標榜している人に明けても暮れても出てくるミカエルとかガブリエルと名乗る霊は、識界レベルがあまり高くないようなので「良心神」が解る段階ではないと思われます。
お釈迦様は実に偉大な存在だったのです
蛇の囁きとは、蛇霊は賢いのですが正邪の判定は出来ずの「邪心(蛇神)」であり、人の魂に内在する「良心神」の働きを犯そうとします。
で、蛇の様に賢くあれと説いたのではいけないのです。それでは「蛇霊」の思うが壺(たくらみ通り)になってしまうのです。
幸い日本では素戔嗚尊の「八岐大蛇退治」と言われる神話が存在しています。その八岐大蛇退治をしてその胴体から取り出した剣。日本神話では「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」と言っておりますが、正しくは【天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)】と言い、熱田神宮に奉られておりますが、あれは単にこの世の人にそうした剣があることを教える為の代物であって、それ自体は別に意味がないのです。
天叢雲剣はこの世の物質剣ではなくて「霊剣」だからです。
私は以前のブログで「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」は業(カルマ)を取る剣と書いております。この「叢」は「くさむら」と読みますので、その「くさむら」から草を払う「くさなぎ剣」となってしまったのでしょう。元をキチンと見るならば、
蛇を倒して得た剣なのです。
蛇霊を倒せば、本来の神の世界に戻ることが出来るのです。カルマも消滅します。
叢=叢の字の上部の業(カルマ)+取る
この「天叢雲剣」があれば全ての「蛇霊」を退治することが出来ます。この退治出来るが日本の素戔嗚尊の「八岐大蛇退治」として、創造神が創作された日本神話となるのです。そうすれば聖書に書かれている人類に囁く蛇霊が存在しなくなり、全ての人が「神の御国」に戻ることが出来る勘定にはなります。
しかし、言葉上で解説するのは簡単ですが、誰がいったいその「天叢雲剣」を持っているかとなります。この「天叢雲剣」を持つ者が「スメラミコト」とされるわけです。聖書風に言えば男子の本当の「救世主」です。
日本の一部の霊能者の方達の中には、今の「皇太子」さんが「スメラミコト」だという説がありますが、天皇家に形として「天叢雲剣」があったとしても、鋳造されたレプリカではなくて「霊剣」である必要があります。鋳造されたレプリカは形であり、効能がありません。例えそれが腐らない金属で出来た剣であっても、物質剣では違っています。
おまえの漢字の解釈は強引なこじつけだと言われる方もあるでしょうが、私は霊界の年老いた蛇の龍神をぶつきりにして行く「天の雲上剣」を見せられたことにより、「天叢雲剣」の意味を知ったのです。
私達の魂は、この世の物質世界で物質として見えるものではありません。心眼(霊視)をもってして見える世界です。そして、その魂は「玉思惟」たる球体なので軸として「心棒」が存在しています。
その心棒に「蛇霊」が巻き付く。そこまで心眼(霊視)で見るならば、日本語に示される意味が読めて来るはずなのです。
スピリチュアルに夢中になって、蛇霊を帰すのではなくて、蛇霊に取り込まれているでは「みろく世」は無理と言えるでしょう
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