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皇位継承についての有識者会議報告書を読む(69)
『週刊新潮』はどこへ行こうとしているのか(56)
和田信二郎編『皇室要典』(1912〔大正元〕年12月)の出版広告(『國學院雑誌』19巻1号、1913年1月)によると、和田は「國學院出身にして多年文部省図書局にある篤学の士」という。『皇室要典』は大正天皇の即位(1912年7月)にタイミングを合わせて編さんされたものと思われる。
先に<戦前の本や資料を検索しても「皇位継承順位系図」に相当するものは見つけられない>と書いたが(第193回)、実は『皇室要典』にそれらしきものを見出した。
掲載されているのは「御実系ニ依ル皇位継承御順」と題する、続柄を実線で表した家系図風の表で、字が小さくなっているのは故人を示す。ただし、邦憲王はすでに死去しているのに「御当主」とされているし、逆に邦憲王の後を継いだ恒憲王が掲載されていないなど、不備もある。当主以外の男性皇族は記載漏れとなるという問題もある。その時点での男性皇族を網羅したわけではないことには注意が必要だ。
皇位継承順位をあらわす数字はどこにも記されていない。和田信二郎にとって大事なのは宮家の序列で、「有栖川宮」の右横に(御順)と書いてあるのがそれである。この表は実に巧妙にできている。成久王の右に伸びた線は兄を表し、恒久王の名は実際には下を潜って成久王の左に並ぶのだからランクが下がる。兄弟順と嫡出・庶出順の双方を示している。
能久親王と載仁親王との間の線(つまり兄弟順ではその中間にいる貞愛親王)は下に伸びた後、右へ進み、威仁親王の次に貞愛親王の名が置かれる(嫡出を庶出よりも優先した)。すなわち皇位継承御順の表の中で、(仮想された)第一位、第二位は有栖川宮家(威仁親王)→伏見宮家(貞愛親王)の順になるということだ。(御順)と(御当主)だけでなく、兄弟順(年齢順)と嫡庶の違いまでをも表現していて、見事にできた三次元的な表と評価できる。ただ、その読み取り法の説明は表には付されていない。
有栖川宮家を継ぐ者がいなければ、当然ながら伏見宮家が先頭に来る。そして第193回で示した二つの◆(1947〔昭和22〕年の皇籍離脱時の皇位継承順位を、宮家の序列に着目して整理)を確かめると、『皇室要典』「御実系ニ依ル皇位継承御順」の「(宮家の)御順」は<ウィキペディア「皇位継承順位」の説>に一致し、<『週刊新潮』(「皇室典範改正準備室」作成)の説>には一致しない。
◆『週刊新潮』(「皇室典範改正準備室」作成)の説
山階宮家→賀陽宮家→久邇宮家→梨本宮家→朝香宮家→東久邇宮家→竹田宮家→北白川宮家→伏見宮家→閑院宮家
◆ウィキペディア「皇位継承順位」の説
伏見宮家→山階宮家→賀陽宮家→久邇宮家→梨本宮家→朝香宮家→東久邇宮家→北白川宮家→竹田宮家→閑院宮家
●和田信二郎編『皇室要典』「御実系ニ依ル皇位継承御順」の説 下線を付したのは1947(昭和22)年の時点で男性皇族が不在となった宮家。これを除外するとウィキペディアに一致。
有栖川宮家→伏見宮家→華頂宮家→山階宮家→賀陽宮家→久邇宮家→梨本宮家→朝香宮家→東久邇宮家→小松宮家→北白川宮家→竹田宮家→閑院宮家→東伏見宮家
<ウィキペディア「皇位継承順位」の説>について私は「宮家の序列は正しいものの、皇位継承資格を想定した点では(『週刊新潮』の説と)同じく誤っている」と述べたが(第194回)、その評価はいまだ修正する必要を認めない。ただ、『週刊新潮』とウィキペディアとで、どうして宮家の序列に違いが生じるのか、当初と比べ私の認識も少し深まった気がする。これは先の方で取り上げることになる。
表はわかりにくいが、有栖川宮家から始めて(御当主)の名を右から左、上から下へと順にたどることで、順位ならぬ「皇位継承御順」が明らかになるというしくみである。旧皇室典範では皇嗣が不在になった時に、どのように次の皇嗣を指定するか、その手順を示すだけで、皇嗣から先の順位に当たる皇位継承順位を想定していないことはすでに述べている。和田信二郎がその点を理解しているのはもちろんである。「本表ハ御実系ニ依ル皇位継承ノ御順ニ依リテ宮家ヲ列シ、配スルニ各宮家ノ御当主ト其ノ御関係トヲ以テシタルモノニシテ、皇族ノ御列次トハ別ナリ」と断っている。「皇族ノ御列次」(皇族列次)については私もすでに取り上げている(第195回)。
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