「君が来るときは言葉で戦うことを誓った。もうその準備は整ったのかい?」
多くの来場者で賑わう真っ白な玄関ホールに、丸喜先生の声が響き渡る。姿は見えないけれど、丸喜先生からは僕の姿が見えているんだろう。
「……そうか。出来ればこうなって欲しくは無かったけれどね。分かった、正面に見える扉から先に進むと良い」
僕が黙って頷けば、少し躊躇うような沈黙の後、丸喜先生は残念だという雰囲気を滲ませる口調でそう告げた。
丸喜先生の言葉と共に、奥に続く扉が重たい音を立てて開いていく。その先に進めば、丸喜先生と対面することが出来るんだろう。
「……僕が失敗するかも、なんて欠片も疑ってないんだもの。プレッシャーだよ」
僕はそう呟きながら奥へと一人進んで行く。その脳裏には、ここに入って来る直前に交わした会話が思い出されていた。
「情報は十分に集まったのかい?」
「明智君……」
冴さんや店長、ラヴェンツァと会ってから数日後、僕は再び競技場の建設予定地に訪れていた。相も変わらず目の前に揺らめく白亜の塔に向けて、今度は迷うことなく手を伸ばす。明智君に声を掛けられたのはその時だった。ベージュのコートに身を包み、険しい顔で僕を睨みつけている。
「君が行かなくとも、俺と怪盗団が丸喜をどうにかしてやるってのに」
「最後はそうするしかないのだとしても、それは言葉を尽くさないで良い理由にはならないでしょう?」
「……そう言うとは思っていたよ」
僕の返答に明智君は重たいため息を吐いた。というか、自分が丸喜先生のところに今日行くことがどうして分かったんだろうか。
「何故ここに居るのが分かったかって顔してるね。ま、これでも探偵を名乗ってたから、とでも言っておくさ」
冴さんといい明智君といい、僕の周囲にいる人は僕の考えをどうしてこうも見透かすのが上手いんだろう。僕が分かりやすいだけなんだろうか。
そして当の明智君は答えになっていないことを言いながら僕に詰め寄る。
「それより、本当に乗り込むのに十分な調べは付けられたのかい? 僕や冴さんにも頼らずに」
「君も冴さんも忙しそうだったからね」
「……ったく、君は相変わらず鈍い奴だ」
明智君はそう言いながらポケットからメモ帳を取り出すと、僕に放る。それを受け取って中を開いてみれば、メモ帳にはびっしりと文字が書き込まれていた。恐らく明智君の捜査メモなのだと思うけれど、それをどうして僕に渡すのだろう。疑問に思って明智君の方を見る。
「僕が調べられた丸喜の経歴だよ。君のことだから、この競技場が元々は別のものになる予定だったってことまでは掴んでるんだろう? でもそこから先を調べるには時間が足りなかったはずだ」
「助かるけど……、君もこの短期間でよく調べられたね?」
「それが仕事だったんだから当然だよ。それに、今の俺がやりたいことなんてそう多くは無いからね。何しても無駄になるんだ」
「無駄になる……?」
明智君の言葉の意味が掴めず、首を傾げる。けれどその直後、明智君が言わんとしたことを理解した。
明智君はクリスマスのあの日、獅童議員を立件するために実行犯として出頭した。それが丸喜先生の世界ではお咎めなしとして釈放されている。それが丸喜先生の認知改変によるものだとすれば、それが無くなってしまえば明智君は。
「君にしては察しが悪かったね。だから、こうして君に渡したのは俺の悪足掻きみたいなものだよ。認知改変が現実の物理現象すら塗り替えてしまうのか、あるいは見逃されるものもあるのか、
明智君はその言葉と共にコートを少し開く。そこには、明智君のネクタイを留めるパイプ形のネクタイピン。丸喜先生の認知改変が起こる前に冴さんを通じて渡してもらったものだ。それを見て、現実に戻ってしまったときのことを考える。
「この世界の方が良かったとは思わないかな?」
「まさか、君だけにはそんなことを言って欲しくは無いね。……俺を哀れんだりしてくれるなよ、それは俺に対する冒涜だ」
「勘が鋭いね」
いっそ怖くなるくらいに明智君は僕の内心を見通している。いや、これに関しては僕が少し分かりやすかったかもしれない。
「君が俺を命を賭けて引っ張り上げたように、俺も君を諦めない。仮死薬を飲むような無茶じゃないだけ俺の方がマシだと思うけど?」
「……それを言われると何も言い返せないな」
「俺の悪足掻きで迷わせたならすまないね。これはちょっとした抵抗だよ、あるいは引継ぎかな」
そう言いながら明智君は寒かったのかコートの前を閉じ、準備は良いかいと問い掛けるような視線を僕に投げかけてくる。引継ぎ、という言葉の意味は流石の僕にも分かった。
「僕にホームズは荷が重いって、前にも言った気がするけどね」
「それなら俺も前に言ったはずさ。俺にとっては、君がホームズだと」
「……君が帰って来るまでの間だけにしておくよ」
「それで十分だよ。それじゃあ君が乗り込む前に最後のヒントだ。丸喜は認知訶学を利用した心理療法の研究プロジェクトに参加し、その研究所がここには元々建つ予定だった。ただ、それは認知訶学が下火になって流れることになる。だが、丸喜は認知訶学による心理療法にますます傾倒していった」
その言葉を皮切りに明智君はこれまで丸喜先生について調べた内容を僕に伝えてくれる。その内容は僕に投げ渡されたメモ帳に記載されているものなのだろうけど、明智君の頭の中には内容が全て入っているらしい。
「個人で論文を書いていたらしい。彼が元々在籍していた研究室の教授なんかにも持ち込んでいた。実りがあったわけでは無かったみたいだけど」
「その時には既に認知訶学は獅童の手に落ちていたから?」
「それもあるかもしれないけど、そもそもが実証実験だって難しい先進的な内容だ。一色若葉という才能があって金を引っ張って来れていたものが、彼女を失くして存続出来るような器の持ち主はいなかったんだろうね。だが、丸喜の執念はそれで止まるようなものじゃなかった。そうなると誰だって気になるよね。どうしてそこまでして丸喜は認知訶学に拘ったのかって。俺だって全部を調べ上げられた訳じゃない、だからここからは推理は交えずただ調べた事実だけを君に伝えるよ。それをどう繋ぎ合わせるかは、君次第だ。大丈夫、君ならしくじったりしないさ、徹──」
丸喜先生の案内に従って進んだ先は、建物の頂上に位置するであろう場所。入口の白さとは対照的に、今は壁一面に暗い碧色の触手のようなものが絡み合っている。
「僕の認知と現実は着実に融合を進めている。その影響で、僕の認知世界にも変化が出始めているみたいだ」
僕の前に現れた丸喜先生は、以前と同じように白いスーツに身を包んでいた。その表情は、声音と同じく悲しみを滲ませている。
「君も、直接目にして考えを変えてくれるかもしれないと期待していたんだけどね」
その言葉に、僕は無意識に手を胸ポケットへと持って行った。そこには、明智君から預けられたメモ帳が入っている。その硬い感触が、僕に迷うなと言っているように感じた。
「僕の世界は、誰もが幸せになれる」
「でも、丸喜先生は幸せになれない」
僕がそう返せば、丸喜先生の眉がピクリと動いた。
「それで皆が幸せになれるなら、僕は構わないよ」
「僕は嫌です。丸喜先生から教えて欲しいことも、話したいこともある」
「そんな個人の感傷で理想の世界を壊すのかい?」
「壊します。丸喜先生が間違っているとか、僕が間違っているとか関係無く。僕は僕の信念に従ってあなたをここから現実に連れ戻す」
その言葉に、丸喜先生が眼鏡の奥で目を見開いた。そして何かを言おうと口を開き、それでも言葉にならずに何度か口をパクパクとさせてから、今度は能面のように感情が読み取れない表情に変わる。
「僕は丸喜先生のように誰もが幸せになれるように、なんて大層な理想はありません。でも、友人が苦しんでいたら支えるくらいはしたいんです」
「僕が苦しんでいるとでも?」
「認知訶学はあなたにとって希望じゃなく、呪いになっているんじゃないですか」
「君はっ……!?」
僕が発した言葉に、今度こそ丸喜先生は劇的な反応を見せた。それを見て、明智君が齎してくれたヒントがクリティカルなものだったということを確信した。
「優秀な探偵に聞きました。丸喜先生が以前、足繫く通っていた病院があることを。そしてある日からそれがぱったりと途絶え、認知訶学の研究に更に傾倒していったことも。それからですよね、カウンセラーとして丸喜先生の腕が評判になり始めたのは」
本人が健康なのに頻繁に病院に通う理由は何だ。本人以外に病院に足を運ぶ理由があったから。それが無くなったのは、その理由が消えたからだ。それなりの期間に渡って通っていたのなら、知人や家族が入院していたからそのお見舞いに行っていたというのが最も考えやすい。そしてそれが途絶えたのは、良い方向で考えれば退院したから。悪い方向で考えれば……。
「認知訶学でしか救えない人を助けようとした。その人は、救われましたか?」
「…………留美は救われたよ。確かに救われたんだ」
長い沈黙の後、丸喜先生は曇った表情でそう呟いた。そこには、とても救われたことを喜ぶような色は見えない。むしろ、悲しみが色濃く滲んでいた。
「愛する家族を無残に殺される場面を目撃して、心に深刻な傷を負った人を救う方法なんて、認知訶学以外には無かったんだ。僕の力で、トラウマの元凶となる記憶を留美から消し去った。……僕という恋人がいたという記憶も含めてね」
それから、認知訶学には、いや僕には苦しんでいる人を救う力があると気付いたんだ。
丸喜先生はそう続けた。
「前にも言ったはずだよ。鴨志田先生が最後の一線を越えてしまっていたとき、鈴井さんは今のように立ち直れたとは思えないと。僕は心が壊れてしまった人をこの目で見た。そうなった人には、どんな言葉も届かないんだよ。どれだけ救おうとしても、何の力も持たない言葉なんかじゃ……!」
食い縛った歯の隙間から絞り出すようなその声は、普段の丸喜先生からは考えられない程の激情を纏っていた。けれどその感情の矛先は、目の前に立つ僕ではなくむしろ。
「だから僕は手に入れたこの力で全てを救うんだ。君じゃ救えない人だって、僕なら救える……! 君は、心が壊れた人がそのまま死んだように生き続ける現実の方が良いって言うのかい……!?」
「……僕はそれでも、現実を好きに捻じ曲げられる力は間違っていると言いますよ」
「君は良くても、君の友人が留美のようになってそれでも救われなくても良いと諦められるのか! そんな綺麗事は、自分が恵まれているから言えるだけなんだ!」
丸喜先生の言葉の一つ一つが、刃となって僕に突き立つように感じる。物理的には何も危害を加えられていないはずなのに、ズキズキと胸の内が痛む。例えば丸喜先生の言うように真が同じような状況に陥ったとして、それでも僕は今と同じことを言っているだろうかと考えてしまうから。
「綺麗事です。僕は恵まれているから言えるだけなんだと思います。だから、そんな綺麗事を実現するために認知訶学だってあったはずなんです。それは決して、こうやって誰かの心どころか現実までもを捻じ曲げて優しい夢に閉じ込めてしまうためのものじゃないと思っています。双葉さんに向けて一色若葉さんが遺した言葉が、それを示している」
丸喜先生と対峙した双葉さんが言ったことだ。死んだ人間は生き返らない。どうしようもないことを捻じ曲げるのはどれだけ凄い力であっても駄目だと。
「それなら、留美を助けた僕は間違っていたと言うつもりかい? あのまま、事件の記憶がフラッシュバックして苦しみ続ける彼女を何もせず見ていることが正しいだなんて誰にも言わせない……! 僕のことを忘れたとしても、それでも彼女が幸せに生きてくれていたなら……」
「違います。正しいと言うのなら、どうして苦しみ続けるんです。留美さんのことをもっと別の形で救いたいと、それを許さなかった現実に、それが出来なかった自分に消えない怒りを抱え続けているのはどうしてなんですか!」
丸喜先生の怒りの矛先は常に彼自身に向けられていた。どれだけ僕と言葉を交わそうと、それによってどれだけ彼の口調が荒くなろうと、その身を焦がすような怒りの炎は、他ならぬ丸喜先生を焼き続けている。
「認知訶学に救われたいと一番思っているのは、丸喜先生じゃないんですか!?」
「僕が……?」
僕の言葉に、丸喜先生が初めて気付いたと言わんばかりに表情を困惑に歪める。それと同時に、彼の背後で金色に輝く十字型をした棺が薄っすらと揺らいだような気がした。