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コラム 「動物的判断」  動物には理性が無いから,個別具体的な判断はできず,すべて感情で判定する。  だから,優しい人に飼われた動物は人間はみな優しいと思い友好的になり,人から虐待された動物は人間は皆加害してくると思い敵対する。  人間には多様性があることを知覚できないからだ。  例えば,ネアンデルタールの医師がいたとする。  古代,シャテルペロン文化といって,ネアンデルタールは人間の製作した石器を見よう見真似で模倣し,「切れない石器」(イミテーション)を大量に製作するほど「人間の真似」が大好きな種族だった。  だから,人間の中には医師がいるといったことを知れば,当然,「医師」の真似もしたであろう。  ネアンデルタールには理性が無いから,当然感情で判断する。  例えば「医師でなければ医学的知識は一切ない」とか「自分は医学及び生物学上の知識を全知しているので自分の知らないことは存在しない」といった認知だ。  通常,人は理性があるので,自分の知らないことを見聞きした場合,それについて判断しない。興味が無ければ放置するし,興味があれば調べてから判断する。  ところが,理性が無い動物だと判断してしまうのである。時には,それが数万人もの人命を奪うことになる。 (脚気は細菌または未知のウイルスよるものであるから,いくら麦飯を食べている海軍では脚気患者が皆無であっても,陸軍では麦飯を食べてはいけない,等)  同じことは弁護士にもいえるだろう。  人間の弁護士ならば,理性があるので知らないことについては判断しない。しかし,理性が無ければ必ず感情の快不快で判定する。  いくら弁護士といっても判例のすべてを暗記しているのではないから,知らないことを「法曹ではない者」から言われたならば,「後で調べて判断する」ということをする。  しかし,理性がなければ「法曹ではない者の意見は正しくない」といったように個別具体的な判断をしない。  銀行の融資担当もそうであろう。  日本からは,フェイスブックもグーグルも誕生しない背景には,「新規のものには融資しない」といった動物的行動様式があるからだ。個別具体的判断はしないのである。  繰り返すが,人間は理性で判断する。  しかし,理性の無い動物は,感情による快不快で判定する。個別具体的ではないのだ。  従い,容易に操ることが出来る。  例えば,小奇麗な服装をしていたり,一見して肩書のある名刺を印刷して渡せば良い。  白人諸国はこうして,北米と南米の原住民を駆逐した。  笑顔でニコニコしていれば,「敵ではない」と原住民は判定するからだ。  たった四百人のピサロや,百人足らずのコルテクスが,インカ帝国やアステカ王国の十数万の軍隊に勝つことができた。  ニコニコしながら一体ずつ殺していけば,相手は「笑っている以上敵ではない」と判定して,反撃してこないからだ。 (理性に欠く女性を誘うときもニコニコしながら近づけば警戒されない。原住民討伐と同じ要領だ。『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス著より)  このように,「感情」で判定する行動様式は,もはや心理学というより動物行動学の分野である。  動物か否か判断するの簡単だ。  何か初見の知識を言ってみよう。  好奇心ある人間ならば,あとで調べる。  好奇心の無い人間ならば,「そうですか」としかいわない。  動物であれば,必ず知らないことを肯定したり否定する。  肯定する場合は,「あなたがいっているから」  否定する場合も,「あなたがいっているから」