この件。なんか昨日の記事と内容が被るのだが、要するにSNSで正義面している人が自分の気に入らないものを叩いてるだけという話題の「科学的な」人々バージョンという話になってしまう。

 個人的には、須藤元気はダメだが国民民主党が敵視されるならむしろぜひ公認してほしいという思いだ。カス政党がカスであることがわかりやすくなるならそれに越したことはない。

 だが、この件で国民民主党を叩いている人間の大半の振る舞いも気に入らない。彼らは自分が科学に基づき、反ワクチンの流布によって苦しむ人たちのことを考えているかのような面構えだが、実際にはそうではない。彼らが気に食わない存在がたまたま反ワクチンだっただけであり、それが偶然にも本当に社会悪だったというまぐれ当たりに過ぎない。

命の軽視にはだんまりな「科学的」な人々

 なぜそう言えるのか、それは国民民主党の党首である玉木雄一郎の尊厳死法制化発言に対し、「科学的な」人々が驚くほど何も言っていないからだ。
「医療費抑制のために、障害者や高齢者は尊厳死を選ぶことが国のためになるのだと、体よく言っているようなものだ。優生思想に通じる恐ろしい考え方だ」。視覚障害者の古賀典夫さん(65)=東京都北区=がこう物申す。
 事の発端は衆院選前の昨年10月12日、日本記者クラブ主催であった党首討論会。玉木氏は制限時間が過ぎたにもかかわらず、やや早口でこう訴えた。
 「社会保障の保険料を下げるために、われわれは高齢者医療、特に終末期医療の見直しにも踏み込みました。尊厳死の法制化も含めて。医療給付を抑え、若い人の社会保険料給付を抑えることが消費を活性化し、次の好循環と賃金上昇を生み出します」。
 「命に対して軽すぎる」 国民民主・玉木雄一郎氏の「尊厳死の法制化」発言 いまだ消えぬ批判の背景とは?-東京新聞
 試しに、須藤元気批判でバズっているアカウントを検索してみるとわかりやすい。ほとんど確認できない。少なくとも医者で今回の件も批判している知念実希人では確認できなかった。

 確かに反ワクチンと尊厳死の問題は経路や分野が異なる。とはいえ、誤った認識と政策で立場の弱い人を苦しめるという点では共通している。加えて、尊厳死の促進は上に引用した記事が指摘するように優生思想に直結する発想であり、優生思想は科学が産んだ負の側面である。自身の「科学性」に自負があるなら言及があってもおかしくないはずだが、不自然なほど見つからない。

 数多の話題の中でたまたま反応しなかった、という言い訳は今回使えない。党首の発言だからだ。党首の発言は気にならないが一公認候補の過去の発言は気になるというのは、明らかに別のバイアスがかかっている証拠である。

 ところで、つい最近は障害児の安楽死を進めるべきだとお医者が投稿する始末だった。もしやと思って確認したら案の定、国民民主党を「科学で」批判していた。へそで茶が湧く。

なぜ彼らは括弧なしの科学的な人になれないのか

 ここで「科学的な」人々と私が言っているのは、自分は科学的思考を持ちあわせ、またそれにそった言動をしていると思い込んでいるが、多くの場面ではそうではない人のことを指す。上に挙げたように、こういう「科学的な」人々の中には現役の医者や科学者も含まれる。

 括弧がつく「科学的な」人々と、ただの科学的な人々との違いは何か。恐らくだが、大きく違うのは科学を信仰と捉えているか手段と捉えているかだろう。科学というのは畢竟、真理に辿り着くための手段のひとつに過ぎない。目的に適うなら科学でなくてもよいし、科学的手法だけでは足りない時もあるし、不適切な時すらある。そして、科学的手法を理解し使えるからといって偉いわけではない。

 紙に文字を書くとき、多くの人はボールペンやシャーペンを使うが、だからといって偉いわけではないし、鉛筆を使うことは愚かではない。不便じゃない?とは思うし私はシャーペンのほうが合理的だと思うが、それだけだ。ただ、スティックのりで文字を書こうとするのはおかしいし、これが陰謀論者の振る舞いである。

 場合によっては、複数の文具≒手段がなければできないこともある。バースデーカードを作ろうと思えば、文字を書く筆記具のほか、飾りを切るハサミや貼り付けるノリも必要になる。この例えではバースデーカードが、我々の辿り着くべき真理である。どの道具を使うかは目的次第であり、またその人の好みでもある。

 ところが、「科学的な」人々はバースデーカードを作らなければならないときも頑なにボールペンのみを用いようとする。そして、他の道具を使う者を嘲笑し罵倒し、挙句の果てには糊付けするために封筒の口をボールペンで塗りつぶしながらドヤ顔をする。これが彼らの科学性に括弧がつく理由であり、滑稽さの正体である。彼らが統計的仮説検定を使っていないだけで社会学の論文をバカにしたり、社会的合意が必要な場面で科学だけを重視するのはこれと同じだ。

単純なプロトコルで動く「科学」

 ここまで書いて当初書きたいと思っていた内容と違っていることに気付いたが、文具の例えはこれはこれで分かりやすいので残しておこうと思う。実生活が忙しくなると、こういう雑さを許容しないとブログも更新できない。ご勘弁を。

 さておき、現状SNSに跋扈する「科学的な」人々の思考回路は、科学への信仰というよりもっと単純なシステムになっている。それはAすなわちB、逆もしかりというプロトコルである。

 要するに、彼らにとって反ワクチンは非科学であり、ワクチンを信頼することは科学である、という単純な回路がある。実際にはワクチンへの懸念にも科学的なものがあるだろうし、ワクチンへの信頼も漠然としてとてもではないが科学的とは言えないものもあるだろうが、そういう細かいことは彼らの世界観で考慮されない。ただひたすら、反ワクチンは非科学だという結論が先にある。原発に対する菊池誠とかの態度もだいたいそんな感じである。

 彼らはワクチンが信頼できる理由をいろいろ並べ立てる。幸い、その多くは妥当だろう。だが、彼らの口から出ることにはあまり意味がない。彼らが内容を理解していようがしていまいが、彼らの世界観に合致している鳴き声を発しているにすぎない。

 そう考えれば、彼らが玉木を批判しなかったのも説明ができる。彼らの世界観には安楽死に関するプロトタイプが存在しないのだ。あるいは、先の発言を見る限り、安楽死は科学的というプロトコルすら存在していそうだ。

 もちろんこんなものは科学的態度ではない。だが、彼らにとってはこれでいい。彼らにとって科学とは、真理に辿り着く手段ではなく、自分が非科学的だと決めつけた相手を見下し、自らを権威づけて偉ぶる手段に過ぎない。

 今回はたまたま、相手が須藤元気だから妥当そうに見えるだけである。