【長沼八幡宮】
栃木県真岡市長沼1083
彫刻の見やすさ:★★★★★
彫刻の充実度:★★★★☆
アクセスのしやすさ:★★★☆☆
当社の創建は由緒によれば、延暦14年(795年)坂上田村麻呂が東征の帰途に当地で武運に感謝して一社を造営し、誉田別尊を奉斎したことに遡るという。康平6年(1063年)には源頼義が前九年の役の帰途に石清水八幡宮を勧請、続く永保2年(1082年)には頼義の子・義家が社殿を造営した。一方で明治時代後期に編纂された下野神社沿革誌では、創建年代を不詳としながらも往古は加茂神・春日神を祀って長沼莊の鎮守であったとし、康平年間(1058〜1065年)の祭礼時の火災で社殿や古記録を焼失、以後はしばらく仮宮となっていたようだとしている。元暦年間(1184~1185年)下野国小山荘を領有していた小山政光から長沼荘を与えられた息子・宗政は長沼氏を称し、鶴岡八幡宮を勧請して荒廃していた当社を再興。下野神社沿革誌ではこの時の勧請で加茂春日社の社号が衰退して長沼八幡宮と呼ばれるようになったとしている。だが当社由緒では、その後の建久4年(1193年)に源頼朝が神託を受けて加茂社および春日社を勧請させたとする。いずれにせよ以降は長沼氏の庇護で社勢も隆盛していくが、15世紀中頃に長沼氏が没落すると衰微、さらには幾度か再建されるものの戦乱に巻き込まれて荒廃した。本格的に再興されたのは16世紀末で、仮宮だった社殿も整備されていき、慶長9年(1604年)には幕府から朱印地十石を賜った。
境内の装飾社殿としては、隋神門・拝殿・末社二荒山神社・末社熊野神社が主なところで、本殿や旧本地堂にも僅かに彫刻が見られる。それら全てが江戸時代中期頃の建造となっている。
隋神門は入母屋造で三間一戸の八脚単層門。建造は天明7年(1787年)とのこと。
彫刻は内部梁上の龍がメインで他は蟇股および柱飾りの獅子といったところでそれほど多くはない。彫刻類は彩色されているのだが、龍は紺色で獅子は青というなかなか見ない色合いで、おそらく幾度かは修繕されていると思うが、建造当初からこのような色彩だったのかは不明。
龍の彫刻からは彫刻師を判別できないものの、獅子の方は明らかに磯辺系である。
この龍の彫刻の裏側には刻銘があるものの達筆すぎてほとんど判別できないのだが、「彫工 / ◯◯家 / 秀融 / 刻◯ / 秀◯」と読み取れそう(◯の文字が不明)。「秀融」と読むのが正しいのであれば驚くべき発見で、これは実在性すら定かではなかった「磯辺秀融」の作品となるだろう。
磯辺秀融はそもそも磯辺姓を名乗ったのかどうかも定かではないのだが、実在するとすればその出自について二つの説があって、「彫工左氏後藤氏世系図」によれば二代目・磯辺儀左衛門知英の長男、大平町の郷土史研究家によれば初代・磯辺儀左衛門信秀の次男というもの。彫工左氏後藤氏世系図には初代・信秀の長男として知英、三男として初代・磯辺儀兵衛隆顕の名前が記されているものの次男については記載がないことが異説を生む要因となっている。一説には生没年が宝暦2年(1752年)〜天保13年(1842年)とされ、また後述する後藤家の世代的にも個人的には郷土史研究家の説を支持しますが。いずれにせよ磯辺家で生まれた彼は(経緯は不明なものの)江戸の名門である後藤茂右衛門家へ養子に入って名跡を継ぎ、四代目・後藤茂右衛門正響を名乗ったとされる。だが彼は四代目を早々に辞して門人の源次郎に跡を譲り、絵師の道に入って五楽院等随と名乗った。絵師としては3代目・堤等琳に師事し(同期に葛飾北斎がいる)、最高峰・法印の位にまで上り詰めている。岩舟町高勝寺や太平山神社瑞神門天井絵に作品を残すが、代表作は千葉県いすみ市の行元寺に残る杉戸絵「老梅と鷹図」である。この行元寺には、かの有名な武志伊八郎信由(通称:波の伊八)作「波に宝珠」、さらには後藤家にとっても磯辺家にとってもその祖とも言える名工・高松又八郎邦教の「牡丹に錦鶏」が残っている。元は彫刻師でもあった五楽院等随が多くを感じ取ったであろう行元寺の彫刻を友人の葛飾北斎に話した可能性もあり、北斎はその「波に宝珠」にインスピレーションを得て「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」を描いたのかもしれない。
上記のような謎めいた人物で、彫刻作品としては後藤茂右衛門正響銘のものは皆無、秀融銘としては未確定ですが茨城県の桑山神社本殿(天明5年(1785年)造営)が「磯部秀猷」作とされ、これが秀融のものとする説があるようだ。ただ桑山神社本殿は木鼻や尾垂木の霊獣が造営当初のもので、向拝柱の巻き龍は技法も意匠も違う上、他は彩色痕が見られるのに対して素木のままであることから後年の増補だと思われる。その増補と思われる箇所に刻銘があるようなので、磯辺秀融のものとするには疑問が残る。他にも秀融銘があるらしいのだが、確実性も詳細も不明である。
上記のような謎めいた人物で、彫刻作品としては後藤茂右衛門正響銘のものは皆無、秀融銘としては未確定ですが茨城県の桑山神社本殿(天明5年(1785年)造営)が「磯部秀猷」作とされ、これが秀融のものとする説があるようだ。ただ桑山神社本殿は木鼻や尾垂木の霊獣が造営当初のもので、向拝柱の巻き龍は技法も意匠も違う上、他は彩色痕が見られるのに対して素木のままであることから後年の増補だと思われる。その増補と思われる箇所に刻銘があるようなので、磯辺秀融のものとするには疑問が残る。他にも秀融銘があるらしいのだが、確実性も詳細も不明である。
拝殿・幣殿・本殿は一体的に建造されたようで、元禄年間(1688~1704年)となっている。
拝殿は正面六間・側面二間の入母屋造、廻り縁付き、千鳥破風と唐破風向拝を持つ。彫刻は向拝部に集中し、中備の龍と梁上に波と宝珠(?)、兎の毛通しは鳳凰、木鼻と手挟みが龍で、拝殿内の欄間も龍になっている。退色が進行しているが、これらは全て彩色されていたようだ。中備の龍が最も良く色が残っているのは、おそらく修繕時に彩色し直されたためだろう。この中備の龍は隋神門の龍とは色合いは違うものの青系統で、退色がかなり進んでいる手挟みの龍も元は青色だったようだ。木鼻の龍は元の色が判別出来ないが腹部は赤系統だったと見られることから、こちらも青系統だった可能性がある。拝殿内欄間の龍は右と左で退色具合に差があるのか全く違う色合いに見え、左は黒っぽくなっているのに対して右は赤っぽく変色している。右の場合は素木の部分がむき出しになっていてそう見えるだけかもしれない。左は元は紺色だった可能性もある。
彫刻師については判断材料が龍の意匠くらいしかないので推測も難しいのだが、年代的・地域的に考えれば嶋村圓哲かそれに近しい嶋村系統の彫刻師ではないかと思う。嶋村圓哲が大前神社本殿を手掛けたのは宝永4年(1707年)のことで、それ以前の1700年頃までと1710年以降は千葉県北部から茨城県南部で作事を行っているのだが、1700〜1710年頃までの10年間で個人的に確認できている作品は大前神社本殿しかない。他に実在性が確かな人物として嶋村圓哲の兄弟である嶋村吉兵衛俊済がおり、彼は貞享2年(1685年)に吉沼八幡神社本殿を手掛けている。また、「彫工左氏後藤氏世系図」に記載のある嶋村圓哲周辺の彫刻師は江戸か常州府中に住んでいた者達ばかりだが、世系図では圓哲門人で唯一「野州富田住」となっている八郎右衛門満命の名が見える。
ただ、本殿の彫刻は正徳3年(1713年)造営とされる旧本地堂と同じ彫刻師に見えるので、拝殿向拝部や欄間彫刻と本殿が同じ彫刻師なのであれば、本殿は元禄年間でも後期の方の造営で、それに続いて旧本地堂も手掛けた可能性も。拝殿は彩色で本殿は素木の彫刻なので別の彫刻師によるものという可能性もなくはないが、同時期に別々の彫刻師一門が携わっているなら珍しい事例。本社殿の左右にある末社は共に延享3年(1746年)造営とのこと。
向かって左側に鎮座するのが熊野神社で、右側が二荒山神社となっている。
社殿の構造は同じ三間社流造だが、なぜか熊野神社の社殿にだけ降棟がある。元は二荒山神社にも降棟があったようだが、どうやら近年の大規模な修築で通常の流れ屋根に改修された模様。近頃では老朽化の進んだ社殿を多額の費用をかけて修築するのではなく新築する例が多々見られるものの、こうして古材を可能な限り利用してかえって手間のかかる手法で修復を行ったのは宮司様を始め氏子の皆様の素晴らしい決断だと思う。このことで、一層この神社が好きになりましたね。
この両社殿で最も謎なのが彫刻で、同時期・同構造の建造でありながらおそらく別々の一門が手掛けているらしいこと。意匠も技法も全く違うので、まるで両社殿彫刻が別年代のものと見間違うほど差異がある。わざわざ別々の彫刻師を招いて、腕を競わせたとでも言うのだろうか。同様の事例で思い浮かぶのは諏訪大社下社の春宮・秋宮の幣拝殿で、それ以外では聞いた記憶がない。
技法や意匠的には、熊野神社がデフォルメされたような古風な意匠ながら技法的には透かし彫りとなっている。このような意匠は1750年代に主流であり、1800年代に入ると廃れていくので年代的にも合致する。対して二荒山神社の方は背面三枚と側面の彫刻で意匠と技法が異なり、背面胴羽目は熊野神社のような若干デフォルメの入ったやや古風な意匠だが技法的には透かし彫りというより浮き彫りに近く、一方で両側面はデフォルメ調から写実的な意匠に移行した直後のような作風を持ち、技法はほぼ浮き彫り、さらにこの両側面だけはフレーム付きで製作されている。まずこの両社殿のうち、二荒山神社の側面胴羽目だけは後年の増補だと思われる。この手の作風は1700年代後期から見られるようになるので、それ以降に嵌め込まれたものだろう。またフレーム付きなので、依頼された彫刻師が自身の居住地で手掛けたものの可能性が高い。こうしたフレーム付きの彫刻は、現物(社殿)合わせでサイズを微調整できるように用いる場合が多い。ただ、なぜ当社殿の側面だけ後補なのかだが、両社殿の彫刻構成から元がただの羽目板のみだったとは考えにくいので、破損か何かで失われたことから後に再製作して嵌め込んだものと思われる。
これらの彫刻がどのような一門による作事なのか推測も難しいのだが、地域的にも近い結城領小森村に住んでいた彫刻師一門の可能性がある。1700年代前期には大桑神社本殿を手掛けたとされる増山藤八尉や舟藤氏甚平といった彫工名が見られる上、礒辺儀左衛門信秀が宝暦12年(1762年)に修復を担当した真岡の大前神社本殿の墨書では結城領小森村住の初代・竹田藤重郎門弟と記されているので、1700年代中頃には小森村に複数の彫刻師一門が居住していたと考えられる。
大工棟梁が熊野・二荒山両社殿を同時進行で建造するに当たって、小森村に住む複数の一門に仕事を依頼したのかもしれない。一方で作風も技法も違うので、全ての彫刻が同時期に嵌め込まれたのではなく、1700年代中頃から1800年代辺りまで順次製作して嵌め込まれた可能性もある。御朱印は境内社を含めて複数あって、祭事や季節限定のものもあるようです。
何度か参拝していますがいずれも社務所が開いていたので、祭事等で外出していなければほぼ常駐していると思います。いずれも書き置きで拝受しましたが、直書きも対応しているようです。
駐車場も参道脇にあって、こちらは郵便局と共用かと思います。
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