大本教で演じられた【神芝居】において、出口王仁三郎聖師が救世主は「源日出雄」と名乗られた意味は、現在では幾多の霊能者の方が自分の前世は「源義経」であったと呼称されるように、だいたい解って来ているようです。
しかし、それが「源義経」でなければならない理由となると、さっぱり意味が解らないのが実状だと言わなければなりません。
平安末期に出た武将「源義経」に何の意味があるのかとなったならば、誰も答えることは出来ないはずです。鎌倉幕府を創った兄の「源頼朝」の様に歴史的価値があるわけではありません。お釈迦様やイエスのように宗教家でもありませんでした。若くして死した悲劇の武将であったので、私達の記憶の中に判官贔屓として記憶に残っているだけです。
ただ、義経は鞍馬山の牛若丸で、鞍馬の大僧正たるサマートクマラ(国常立尊)と何か関わりがあるのではないかと推察が出来る程度のことです。
大本教が演じた「神芝居」の根本には、大本教神諭が予告した「九つ花」が存在しています。その「九つ花」が解らないと、五十六億七千万の「みろく」が何を意味したものかも解らないからです。
ただ、解らないままに自分が「みろく」ですと名乗る人が続出するだけになってしまいます。自分が「みろく」だと名乗っていた方を教祖として仰いでおられる教団は幾つかありますが、そうした教団の信徒さんは「米」型の仕組みを理解されることはなく、ただただ教祖信仰から一歩も抜けきれなくなるようです。
私は大本教神諭予告「九つ花」を紐解いて、大本教の出口王仁三郎聖師が演じられた「みのか尾張の国からのまことの女子」の意味には、みのか尾張の国から出る国道第「41」号線の仕組みがあるとは解って来ました。
飛騨の高山に大神殿を建てた宗教団体もありましたが、神の「高山」の言葉の意味を間違えられたのでしょう。大本教からは「ス」の神が出されましたが、それらは言霊の仕組みだと理解に至らなかったのでしょう。
単に「九つ花」の解読だけならば、その中心は「41」だけでなく「64」も「81」もあります。そこに、どうしても「美濃か尾張」を入れないと、「41」に絞れないことになります。そして、その「41」は「みの終わり」から終着の富山(十三山)に行き着かないことになります。それでは出口王仁三郎聖師演技の素戔嗚尊が「救世主」すら解らなくなります。
では、「41」だけで「みのか尾張の女子」と言い切れるのかとなります。この「41」は各自の魂の真ん中の核の意味で有り。各自の「良心」神とはなりますが、女の良は主の「娘」と言うことであって、聖書的に言えば「その装いも新たに嫁ぐ神の花嫁」となります。新しい世界たる弥勒の世に入る人達のことです。しかし、そうなると主の「息子」はどうなるのかとなります。数字だけでは女子の型が演じきれないのです。
そうした中で、大本教三代教主の出口直日さんの夫であった「出口日出麿」さんの霊が、今もなお「みのか尾張」の女子を必死に探しておられることが解りました。それは間違いなく「みのおわり」を意味する肉体を持った女性が現れて来るなのです。
その「みのか尾張の女子」に関しては何も知らない方もあるでしょうから、少し書いてみたいと思います。
【大本教霊界物語第十三巻・信天翁】より
いま大本にあらはれた 変性女子はニセものだ
まことの女子が現はれて やがて尻尾が見えるだろ
女子の身魂を立直し 根本改造せなくては
誠の道はいつまでも 開く由しなしさればとて
それに優りし候補者を 物色しても見あたらぬ
時節を待ってゐたならば いづれ現はれ来たるだろ
みのか尾張の国の中 変性女子が分かりたら
モウ大本は駄目だらう 前途を見こして尻からげ
一足お先に参りませう 皆さまあとからゆっくりと
目がさめたなら出て来なよ 盲目千人のその中の
一人の目明きが気をつける なぞと慢神してござる
王仁はこの言聴くにつけ お気の毒にてたまらない
こんな判らぬ奴ばかり 盲目ばかりがささやけり
この歌を各自のことに誤解して
罪をかさぬる曲人もあり
昭和10年3月30日更正
ここでは、「変性女子」ではなくて「まことの女子」が出て来たならばとなっています。変性女子の場合は肉体は男でも魂は「瑞霊」ということであり、幾多の男性霊能者の方が自分がその該当者だと名乗りを上げられました。
また、「変性女子」ではなくて「まことの女子」だと言って、多くの女性霊能者の方も自分が該当者だと名乗りを上げておられます。どちらでも言えます。
そうした自称の幾人から私の元にはメールが来ましたが、私から言わせれば、どなたもどこかの神霊から貴方がその該当者だと言われたからと頭から信じ込んだとか、思い込みの産物が強いと見受けられます。
そうした方達は、その方と出口王仁三郎聖師の器量を比較したならば、そんなことが平気で言えるような器量じゃないでしょう。直ぐに霊の言葉に乗かってしまうのも、自分の器量をよく見ていないからです。私がスピリチュアルの方は怖いというのは、自分の器量を見ようとしていないからです。
邪神界の龍神とか、大蛇霊とか強烈な光を持った存在であり、その光で少々の霊能力者ならば、どのようにでも手玉に取ることが出来ます。本物の霊能者は数少ないと言われていますが、本物は霊能者は数少ないのです。
私が実際に大本教みろく神殿で遭遇した出来事に、出口王仁三郎聖師さんの霊が一人の女性を大本教「みろく殿」の祭壇に引っ張ろうとされたことがあります。その時は、どうして出口王仁三郎聖師さんの霊は、この女性を大本教「みろく」殿の祭壇に引っ張り込もうとされるのか?。首を捻っていました。
その女性を霊査されたある霊能者の方が、あり得ないと絶句されました。それはその女性には本守護神として「伊弉冉尊」様がおられるで、私にもその方の霊査の依頼が舞い込みました。だが、私には霊査は無理なので、私の最初の師匠に霊査を頼んだところ、間違いなくその方の本守護神様は「伊弉諾尊」様とのこと。
だが、私の師匠は絶句するほどのことではありません。他にも伊弉冉尊様を本守護神として持たれる女の方もありますと言われるので、さほど気にしておりませんでした。しかし、その女性の本守護神は伊弉冉尊であっても、その方の魂は「○○」様だと解って来ました。
昨年、全国一の宮巡りの一環として白山比咩神社に参拝しました。その前にも一度参拝しているのですが、前の時は源義経さんの足跡を追ってみたのです。その時には白山比咩神社からは誰も出て来られなかったのですが、昨年の一の宮巡りでは白山比咩神社の本殿から一体の女神が出て来られたのです。
その女神の顔を見て私は愕然としました。これは!。私はその女神には過去に幾度か出会っています。しかし、その御神名は別の名で私は「○○」様と呼んでいたのです。その女神が、まさか白山菊理姫であるとは思ってもいませんでした。だが、別の筋からその御神名の女神と白山菊理姫は同じ女神であるとの情報を得られました。案外知っている方は世の中には居られるものなのです。
私は白山「菊理姫」様をそれまでは別の御神名で呼んでいて、その呼び名から白山菊理姫様と何か関わりがあるのではないかと疑いは持っていました。
その○○様を初めて見た時に一目惚れをして、最初の師匠に「私は○○様を嫁にすると決めました」と言ったところ、師匠がびっくりして、「貴方は肉体がある人ですよ。どうして神様を嫁に出来るのですか?」と言うので、私も死ねば霊界に帰りますので、その時には何が何でも○○様を嫁に娶りますと、自分ながらとんでもないことを口走っておりました。○○様は独身の女神ではあるのです。
大本教のみろく神殿で出口王仁三郎聖師さんの霊が祭壇にと引っ張ろうとした女性は「○○」様のミタマを持っていることは知っておりました。それは「白山菊理姫」のミタマを持っている女性でもあったわけです。
その女性は自分の前世は「白拍子」ではなかったのかという記憶を持っておられました。その女性と同行して鞍馬山に行った時、その女性は「静御前」が祭ってある場所で頭が割れそうに痛いとうずくまって仕舞われましたが、過去の記憶が甦ろうとする時には頭が割れそうな痛みが出ます。
その後、その女性は「静御前」が舞ったとされる「神泉苑」の跡地とされる場所でも、頭痛でうずくまってしまわれたので、「静御前」の霊が懸かっているのかなと当時は思ってはおりました。
だが、「白山菊理姫」様として○○様が出られたことで、ようやく大本教「神芝居」の筋書きが見えて来たわけです。
大本教で出口日出麿さんが演じた「日之出神」とは、素戔嗚尊と真性天照大御神の両面を持った魂の真性天照大御神の部分の演技ですが、その両方を持った魂の分魂は平安時代に「源義経」としてこの世に生を受けていたのです。
大本教では三代教主であった出口直日さんを「龍宮の乙姫」としましたが、出口王仁三郎聖師が残された遺文とも言われる「信天翁」の中で、【それに優りし候補者を 物色しても見あたらぬ】は、三代教主であった「直日」さんのことを意味していると言われています。龍宮の乙姫に該当する魂の持ち主ではなかったわけです。
この○○さんを見ていて、「龍宮の乙姫」姿で出て来られる女神はあまたおられますが、大本教で予告された「龍宮の乙姫様と日之出神の夫婦の揃い踏み」の乙姫様とは○○様、すなわち白山菊理姫様のことであったかと解ったしだいです。
私は多賀大社の伊弉諾尊様から、出口王仁三郎聖師さんが引っ張られた女性に関して、あの者は【我が娘】と告げられた時、何の意味かと思っておりましたが「白山菊理姫」様を我が娘と言われたのかと納得したしだいです。白山比咩神社に行くと、白山菊理姫と伊弉諾。伊弉冉両尊の並びになっています。
しかし、白山菊理姫の分魂が「静御前」として肉体を持ってこの世に出た経緯が解りません。静御前と言えば、どうしても源義経との悲恋物語になってしまいますが、その義経と出会った時の場面に鍵があるのでしょう。
それは「義経記」にその答えがあります。
【義経記によると、日照りが続いたので、後白河法皇は神泉苑の池で100人の僧に読経させたが効験がなかったので、100人の容顔美麗な白拍子に舞わせ雨を祈らせた。99人まで効験がなかったが、静が舞うとたちまち黒雲が現れ、3日間雨が降り続いた。静は法皇から「日本一」の宣旨を賜った。また法皇は、静を見て「カノ者ハ神ノ子カ?」と感嘆したと言う。その後、住吉での雨乞いの時に、静を見初めた義経が召して妾にしたという。】
この「99人迄はダメでも、100人目」として雨を降らせたは「龍宮の乙姫」だったからと言えるでしょう。それは、最後の一厘を持っているとなります。
大本教の「神芝居」で一番重要な役割は、この「静御前」にあり、大本教ではこの「静御前」たる白山菊理姫の分魂を持った存在の女子を出せなかったと言えます。
では、その女子はどこに住んでいるのか?。それは大本教「神芝居」を紐解けば解ります。ちゃんと書かれているのです。「美濃か尾張」ではありません。それは「九つ花」で解けるようになっておりましたし、大本教ではそれを逆さに演じられています。
しかし、その女性の前世が「静御前」であったことは、さほど重要ではないのです。それはしょせん肉体だからです。
重要なのは、「白山菊理姫」が如何なる働きをなされるかなのです。
出口王仁三郎聖師さんの霊が大本教のみろく殿に引っ張ろうとされた女性を私の最初の師匠に会わせたところ、その師匠は「やっと出て来られましたね」と言います。しかし、私にはその女子は失敗されるでしょうと言います。それはその肉体があまりにも「自我」が強いことから、神界の御用を勤めることをされようとしないからですと言います。
ただ、その師匠は。「この人は自我強くなかったならば、既に邪神界に抹殺されておられます。肉体の自我があまりにも強いことから、これでは神界の御用は務まらないで見逃してくれたことから、これまで命を保たれのです」と言います。
私はそれを聞いて、「なるほど。これだけ自我が強いと神界の御用は無理だ。まさに女子の根本立て直し根本改造しなくてはだな」と思って聞いてはおりました。
私が子供の頃に臨んだ声は告げられました。【この私が演じさせる神の舞台の演劇の筋書きは、この私だけが知っていることであり、世に出て居られる神々も御存知なきこと。神の舞台を演じるそなた達役者も、その筋書きを知らずして神の舞台を演じるべし。舞台の幕が終わった時、神々にも人民にもこの神の意図が解る】と。
誰も自分に与えられた役割を自覚しているわけではありません。自分の過去世からのカルマを消滅させる程度であれば難しくもないのですが、神の世界の舞台の型演技となると難しくなります。その筋書を聞かされていないからです。
堕天使という言葉があります。その堕天使とは必ずしも神界で堕落したという意味だけでなく、天使格の魂を持ちながらこの世に肉体を持って降りて来ると、その任務や目的を忘れて天使としては堕落する意味もあります。
それは人間社会に入ってしまいますと、酒とか女とかバクチとか誘惑に溺れたというだけでなく、人間社会を意識過ぎて天使としての職分を全うしなくなる意味も含みます。社会の人々の目を意識すると、その土壺に嵌まるのです。
この世に肉体を持って生まれ出ることは、天使格にとっては一歩間違えれば自分が墜ちてしまう危険性があるのです。
私は大本教の出口王仁三郎聖師さんの霊が「みのおわりの女子」と見ておられた女性に関して、その女性であったとしても「無理だろうと」見ていました。ですから大本教神芝居の解読にあたっても、その女子に触れることなく、その女子無しに男子だけで行ける仕組みなのかを模索していました。
しかし、去年の秋の一の宮巡りで白山比咩神社から「○○」様が姿を見せられたことて、そのミタマを受けている女子がどうあろうとも、御神霊たる白山菊理姫様が発動準備に掛かられたのではないかと推察しました。他にも同様の白山菊理媛様のミタマを受けている人がいないとも限りません。そうしたことは私達人間が知る範疇ではないからです。
私は白山菊理姫様の神の世界における働きは知りませんが、異端の行者として名高かった故・金井南龍師は魂が人間の肉体に宿る時の高周波数の変換に関しは白山菊理姫様のお役割だと述べておられます。だとすれば、私達の人間の肉体から魂を一気に抜き出す役割も出来ると解することが出来ます。
大本教予告。【三千世界に一度に開く梅の花】
私は三千世界に一度に開く梅の花を見た時、どうやってそれをするのだろうと考えていました。一つには霊界物語や日月神示などで語られる「霊(たま)の子線の切断」。スピリチュアルで言えば「シルバー・コード」の切断なのですが、この「霊子線」切断をしても、人の肉体から魂が抜けるまでは人によつては早い人で30分程度。長い人だと3日間もかかった事例が報告されています。それでは「一度」に開くにはなりません。
だが、肉体に魂を入れるのが高周波の働きであれば、逆に肉体から魂を抜くのも高周波であれば、一度に抜くことが可能ということになります。
だとすれば、出口王仁三郎聖師が言われた「みのか尾張の国の中」ではなくて、各自の【身の終わり】の時に働かれる「白山菊理姫」がその女子の意味となります。
その時であれば、モウ大本教と言う宗教団体も存在する必要がありません。自分は一足先に行っているから、後からついてきなとなります。
それは、完全にこの世の幕引きを意味します。
日本神話を見ても「白山菊理姫」が出て来るのはたった一行です。伊弉諾尊と伊弉冉尊の喧嘩の仲裁を取り持っただけです。日本神話では、この白山菊理姫のことは解らないが本当なのです。まして「○○」様など、日本神話のどこを見ても書いてはありません。
私はその「○○」様の存在から、そこにとんでもない「神界の仕組み」が存在していることが解って来ました。それは、自分は神道家ですと日本の古神道の神々の名前を並べていても、まったく意味をなさいないことなのです。
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