霊的世界に関わっていますと、どうしても
聖書に記載される龍神とは【霊界の年老いた蛇霊】の存在に
関わらなければなりません。
いくら聖書を読んでいても、「イエス」にとらわれてしまいますと、事の本質を見失ってしまいます。また、「マリア」霊などと言っていても、霊界における事実がまるで見えなくなってしまいます。聖書に書かれる「霊界の年老いた蛇霊」に一杯食わせられてしまうのです。
本来の龍神とは、聖書に記載される「霊界の年老いた蛇霊」のことではないのですが、現実に多くの霊能者やスピ系の方達が言う「龍神」とは、聖書に記載される「霊界の年老いた蛇霊」のことになります。
うろ覚えですが、大本教霊界物語の中には龍神と呼ばれる存在の九十数%はそうした「蛇霊」であると記載されていたかと思います。すると、大半どころかそのほとんどが蛇霊なのです。
このブログの少し前に「自分を観音様として祭れと言った大白蛇霊」の話を書いていますが、自分からその正体を告げて来るなどは非常に珍しいケースなのです。
しかし、蛇霊でない本来の龍神と蛇霊上がりの龍神との区別は出来ないと思います。龍神とは「流神」であり、「エネルギー」を意味しているからです。霊界の年老いた蛇霊は際だった霊的エネルギーを持ちますので、本来の龍神と同様の形態を持つのであって別に化けているのではありません。そうた霊界のエネルギーに関しては「古狸」霊等にも言えますし、化け猫霊にも言えます。霊界に長く生きていれば霊は必然的に際立った霊力を得るわけです。
ただ、本来の龍神とは宇宙を創って来た創造神の力で有り、病気治しとか占いで力を発揮する蛇霊上がりの龍神とでは、根本的には違っているのです。
私の最初の師匠は、
龍神さんとは海・山・川で各千年。合計三千年修業を積んだ「巳(蛇)」さんのことですと言っておりました。
聖書に記載される「霊界で年老いた蛇霊」のことです。ですから、本物と言える霊能者であれば、龍神とは「霊界の年老いた蛇霊」であることぐらいは解っておられます。
しかし、スピと称する人達の多くは何も解ってないし、解ろうとはなされないのです。この「海・山・川」に関しましては、「海・山・火」との説もあります。いずれにしても霊界で「三千年の月日」を要した蛇霊のことを「龍神」などと呼んでいるわけです。
ただ、私の最初の師匠のように、龍神とは「霊界で三千年の修行を積んだ蛇霊」との認識だけでは、聖書に記載される「言葉は神と共にあった」が何の意味か解らない者となってしまいます。
私の最初の師匠は「実践霊能者」としては非常にレベルが高い方でしたが、神霊世界の階級としてはお釈迦様やイエスの様に高くはありませんでした。霊的なものがよく見えるだけでは、見える霊能者としては優秀でも神界レベルとしては高くないが起きます。
2番目の師匠は、実践霊能者としては最初の師匠よりも劣っていましたが、神界レベルとしては最初の師匠より高い方でした。俗に言う「神仙界」です。為に、最初の師匠が知らなかったことも知っていました。どちらも私にとっては恩師ですが、特に2番目の師匠は幾人かの霊能者をその霊力で殺して来たと豪語していましたが、私をも死神(式神)を使って殺そうとしましたが、私を殺そうとしたことなど些細なことであり、それよりも学ばさせてくれたことに感謝しています。この師匠と出会っていなければ私は「言霊」に出会っていなかったからです。
豊受の神様が「貴方は言葉の〇と呼ばれる方です」と私に告げられましたが、言霊が何であるか解っていなければ、大本教神諭予告「九つ花に咲く一輪の言霊の経綸を誠で紐解く者がひとり出る」には至らなかったわけです。
私はあることを最初の師匠に質問したところ、その件は知らないと言います。そんな存在は無いとまで言い切ります。私は豊受様はそのことを知らないのだろうかと疑問を持ちましたが、ある出来事から豊受様の魂を授かっておられる女性を知り、その女性をその師匠と出会わせたところ、間違いなくその女性は外宮の豊受様の御魂を授かっている方と言います。ところが、その女性はその事柄に関しては子供の時に既に知っておられました。また、その事柄を知る数名の人達に出会いました。
すると、豊受様はその件は知っていても、最初の師匠にはその件に関しては教えることをされなかったわけです。いくら霊能者レベルとしては豊受様をして筆頭御代と言わさせた最初の師匠にしても、神界レベルとしてはその事柄を教えるほどではなかったわけです。
霊能者として優秀だから、何もかも知るではないのです。神霊界レベルの方がより重要になります。
貴方は昨日、何々を食べましたねと当てて来るのは低い霊界レベルです。蛇霊や狐狸がもっとも得意とする当て物屋の分野です。
お釈迦様やイエスは霊能者として見た時は霊能者レベルとしては低いかも知れませんが、神界レベルとしては非常に高いのです。
私はスピでも霊能者でもその方の実践的霊能力のレベルではなくて、神界レベルではどうかと判断しています。霊的なことはよく見えるが、人品が卑しい行者さんはいくらでも居られるものです。霊力の強さは人品と関係しませんが、神界レベルは人品とは深く関係して来るからです。
神界レベルで見た時、明らかに神界レベルが低いのに自分の過去は釈迦であったとか、イエスであったとか、弘法大師であったとか、自称する方が多すぎます。別に名乗っても、その背後は誰かが解れば贋物だと解ります。
私は最初の師匠が知らず、豊受様の御魂を受けていた女性が知っていた事柄に関しては、如何なる事柄なのかは公表しません。その霊的世界を知ってるか知っていないかで、その方が邪神の手先か、未だ成長過程なのか?。単に蛇霊や狐狸に憑依されていて霊的なことがよく見えているだけなのかの判断基準になるからです。
この事柄を知っていないと、天使など称して出て来る霊にコロリと欺されてしまいます。何故ならば、そうした天使と自称する霊はその事柄を知らないからです。
多くのスピ系の方の「チャネリング」と称する背後にも「霊界の年老いた蛇霊」が深く関わっている場合が見られます。そうした「霊界の年老いた蛇霊」が存在することで、その方が霊力を持ち、その背後が如何なる存在なのか本人が見破れない場合は、その霊の言葉を信じてしまうに入ってしまったりします。
もう消えたスピ系の団体なので暴露も問題ないので明かしますが、その団体では宇宙の神から来る力と言い、ヨハン・シュトラウスの曲を流すと、その曲に乗って信者達が勝手に踊り出すがありました。一種の踊る宗教です。
私は当時二番目の師匠の元に居て、この団体を「サニワ」するお手伝いをしていました。その結果、その団体で宇宙神と称されるものは「霊界の年老いた蛇霊」で龍神と呼ばれる存在でした。何百人ぐらいの人を無意識に踊らせるぐらいの霊力は彼らにとっては容易なことなのです。また、現在の地上界で使われていない言葉で宇宙語と称して会話をするも、こうした「霊界の年老いた蛇霊」の仕業でした。そして、この団体で言う宇宙人とはその龍神の手下の蛇霊が化けた存在でした。かなり怪しい存在でした。
別に教祖に悪意は無かったのでしょうが、無知から結果的には蛇霊や狐狸に憑依されて間違った道を行くスピの典型だったのです。
単なる蛇霊は別として、霊界において「三千年の修業」を積んで龍神と呼ばれる存在になった「霊界の年老いた蛇霊」にはうかつに手が出せません。その霊力の強さから、こちらが返り討ちに遭ってしまう危険性が高いからです。
将来、そうした龍神に成る為に修業をしている蛇霊に向かって「悔い改めて、改心しましょう」と説いても、だいたいは「改心は嫌じゃ。もし天帝が我らを裁くと言うのならば、その時には暴れに暴れて死んでやる」です。非常に短絡的です。
おそらく、その考え方の根底として、千年も二千年も辛い修業を積んで来たことが無意味になるという脅迫観念があるのかも知れません。天帝は改心した存在に対して冷遇されるのではなく、その過去の修業を生かさせることを考えて厚遇される。そのこと自体が解っていないのかも知れません。苦労して積んだ修業が無駄になるなどないからです。
私は天帝が求めておられるのは小善よりも、大悪党の改心であると常々言っています。何故ならば大悪党から改心した存在ほど、将来に役立つ存在はないからです。また、汚れを知らぬ天使も使いようが無いと常々言っています。何一つ泥に染まらぬ者に何が出来ようかです。艱難辛苦を越えてこそ、その魂は磨かれるからです。その途中の過程の悪など些細なことなのです。
大切なことは事を為す力で有り器量です。凶党でなく大悪党は、それなりの器量がなければ成れません。ですから「霊界の年老いた蛇霊」の龍神であっても、改心すれば天帝は救われるのです。
善と悪とを知り尽くし、善となった者に勝る存在なし
だが、どうしても天帝の大御心が解らずに悔い改めないとなれば、【最後の審判】と呼ばれる事態の時には【正神界と邪(蛇)神界】が正面からぶつかる「神界最終戦争」が勃発する可能性があります。龍神と呼ばれるエネルギー同士がぶつかりますから、これは人間がする戦争などの規模の話ではないのです。これが本来の「ハルマゲドン」のことです。
大本教から【三千世界の大立替】と予告されました。それは、この地球と呼ぶ星だけの話ではなくて、全宇宙に及ぶことだからです。
私からすると、どうして【悔い改める】が出来ないのだろうかと不思議に思っていました。天帝は「悔い改めるならば、全てを赦してみろく世に導こう」とされているのに、そんな簡単なことがどうして解らない?。これはどういうことかと考えあぐねていました。
だが、やっと解って来ました。
【悔い改める】とは、非常に勇気が要ることだったのです。
真の勇気が無いと、自分を【悔い改められない】のです。
自分自身を変えるということを、自分自身が恐れるのです。
人はどうしても「自分が可愛い」。他人から自分を認めて欲しい。立派な者だと思われたい。そうした欲望があります。どうしても「地位」とか「名誉」とか「財力」などに執着します。悔い改めると言うことは、それまでの自分を捨てなければ成りません。その恐さです。
蛇霊とは、そうした「権力」とか「地位」とか「財力」に拘った結果、自分の身が霊界で蛇化した存在であることは、霊能者の間では執着とか怨念を含めて蛇霊として知られています。
蛇霊とは別に爬虫類の蛇のことではありません。かっては「人」であった存在が大半なのです。
自分がスピの言葉を広めたと言われる霊能者江原啓之さんでも「邪の道は蛇」と説いてはおられます。だが、そんなことも知らないスピでは論外と言えますが、そんな論外の方があまりにも多いのです。
お釈迦様の説話として「蛇霊に成った長者」があります。しかし、面白いことにこの説話は私は子供の時に本では読みましたが、インターネットで検索しても見つかりません。
霊界の蛇霊達がそうした内容が世に出ないようにさせているのかどうかは判断は出来ませんが、日本における狂言の中で長者を皮肉る内容として、シテが「成った。成ったジャになった。当家の長者はジャになった」と言うと。アド(相方)が、「何のジャに成った」と問いかけて、シテが「ジャはジャでも蛇に成った」というものがあるはずなのです。
私は子供の時、大本教の祭典で催されていた狂言芝居でそれを見て、非常に印象深かったので子供心に覚えていました。長者のジャと蛇のジャを掛けてあるのです。が、インターネットで検索しても、それが何の演目であったのかまでは解りません。たぶん、これはお釈迦様の説話の「蛇に成った長者」から来ているはずなのですが、原典が探せておりません。
私達は「勇気」と言いますと、どうして戦場などを含めて敵を倒すこと。刃物を持った強盗に立ち向かったなど、「悪とか暴力」的な事柄に立ち向かう力を「勇気」と捕らえて来ました。
そうではなくて、自分自身を省みて、悔い改めて、新しい自分自身を創り出すことこそが【真の勇気】だったのです。
自分の面子や地位や財を可愛いと思うと、どうしても「執着」から逃げ切れません。
神は愛だから何をしても赦されるなどは「逃げ口上」も逃げ口上です。逃げていたのでは、【自分自身】が変われません。
間違っていた事柄に関して、日本神道では「宜直せ(のりなおせ)」と言いますが、西洋で言う【懺悔】です。自分は間違っていたと認めることは、自分の【ブライド】を捨てることになります。
何故にプライドは「ホコリ」なのかです。自分を「誇る」と言うことは、天帝の目から見れば塵や「埃(ホコリ)」の類いなのです。
自分の面子たる【ブライド】にしがみついていると、「悔い改めるも懺悔」も出来ません。「宜直す(のりなおす)」ことも出来ないわけです。
【宜直(のりなおす)】とは、過去の自分ではなくて、新しい自分に「乗り直す」ということなのです。
新しい自分になれば、過去の自分を捨てることが出来るのです。
天帝から見れば、取るに足りないこの世の面子や自分の地位に縛られて、自分を変える「勇気」すらないのかとなります。
人はこの世に在れば「聖人君子」では生きてはいけません。誰しも間違うのです。時には失敗も罪も犯します。間違ったことを何時までも悔やむ必要はないのです。
ですから「悔い改めて乗り直す(宜直す)」のです。
自分の面子にとらわれて、拗(す)ねたりするのは幼稚なことなのです。
蛇霊が何時まで経っても蛇霊から脱却出来ないのは、真の勇気を持っていないからです。最後の時は暴れて死んでやるなどは「蛮勇」なのです。
自分を変えるということは、非常に辛い作業です。だからこそ、本当の勇気が要るのです。
自分は常に正しい者だという考え方をしていれば、自分の面子に拘り、申し訳ありませんでしたと謝ることも出来ません。
創造神が【悔い改めたならば、赦す】と言われるのは、そこにあるのです。
自分の面子など、取るに足らないものと自覚すべし
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