人に内在する良心神(神言会)

神は言葉なりき。言葉は言霊で構成され、その言霊による神の仕組みを解説する神言会(kamikotokai.com)のプログです。
神言会では人に内在する良心神(この世の閻魔)とは何かを説明しています。

神は公、仏は私。私に走りすぎて、我れよしの世となりにけり

私は自分のHPで、神は「公(おおやけ)」。仏は「私」と書いております。

一般的に神と仏で【神仏(しんぶつ)】と呼び、神道系では神は仏より上位の存在と説き、仏教系では仏は神より上位と説きますが、一般的には神と言うも仏と言うも、そこに大きな差異はないとされて来ました。霊という概念からすれば神も仏も同じ存在で、別に違う存在ではありません。

この神が上(うえ)か、仏が上(うえ)とかの論議に入りますと、簡単な論議では治まりません。そもそも神とはなんぞや?。仏とはなんぞや?。となります。
神と呼ぶ存在もピンからキリまでならば、仏と呼ぶ存在もピンからキリです。蛇霊や狐狸霊でも神と呼ばれていますが、それを仏とは呼ばないわけです。では、仏の世界に蛇霊や狐狸はいないのか?。お寺の偶像を見ていますと、偶像たる仏像に蛇霊や狐狸が仏として宿っていたりもします。そうしたことは、私のブログに自分を観音様として祭れと要求した大白蛇霊の話も書いていますが、蛇霊が自分を神として祭れと要求するもあります。ほとんどの方はその実態を知らないだけなのです。
これらの蛇霊や狐狸霊はいくら観音様に化けていたとしても、「仏陀」と呼ばれる段階ではないのです。また人は死んだら「仏」と言うのは、仏陀や如来や菩薩を意味する仏ではありません。単に、人をム(無)なしくした意味の「仏」です。

明治25年に発祥した大本教から【和光同塵(わこうどうじん)】が説かれました。和光同塵とは、仏教で「仏・菩薩が衆生(しゅじょう)を救うために本来の姿を隠して、種々の姿となって現れる」ことなのですが、大本教が出した和光同塵の意味は、外国からやって来た仏教の勢いに押されて、日本古来の神は止む得ず仏に身を変えたという意味の和光同塵です。


こうしたことは【本地垂迹(ほんじすいじゃく)】説と関わります。「本地垂迹」説とは、仏教が興隆した時代に仏が本来(本地)だが、神が私達の「目に見える姿(垂迹)」として現れたの意味で、神仏を習合させる為の思想です。
その逆に、仏は神の権現であるという【反本地垂迹】説があります。元々は神ではあるが、神であるとどうしても罰せなければならないので、仏の姿に身を変えて衆生を救って来たが「反本地垂迹」説の意味で、大本教が出した「和光同塵」はそちらだと言えます。

よく「仏の顔も三度まで」と言いますが、神の顔だと一度こっきりとなります。一度は赦すが、二度と赦しはしないです。神が神としての姿を隠して、仏という私人として衆生を救って来た要素はあるのです。

この日本古来の神が仏に変化していた姿を取りやめて、神本来の姿に戻った時期が「明治維新」となるのです。ここから「廃仏毀釈」運動が起きて来ます。日本古来の神の姿に戻る作業です。それまでは神宮寺の僧であった者も還俗(げんぞく)して神主になったわけです。


日本では、神と仏の同一の最たるものとして知られる存在が、大黒=大国主命様です。私は最初、これにはかなりの疑問を持っていました。大黒さんと言うのは仏教が起きる以前のインドのヒンズー教における神です。どうしてその仏が日本神話の中の大国主命さんになるのか?。さっぱり意味が掴めなかったからです。

私が住む土地は、最初の頃には何故か大国主命様がよく出て来られて、最初の師匠にその理由を尋ねましたところ、私が住む土地は「元出雲屋敷地」で大国主命様が過去に鎮まっておれれた土地との返事でしたが、創造神がやがて降臨される場所とも言われます。
それに関連して別の霊能者の方が、大国主命様は元来は国常立尊様の天使長であったと言われていましたが、大本教霊界物語の中には閻魔大王(国常立尊)様が天主の座に復帰された時、冥界の閻魔大王職には大国主命様が就かれるとあります。かなり国常立尊様に近い存在の神とは言えます。

私の最初の師匠は大本教少年少女隊に所属していたそうで、実際に出口王仁三郎聖師を見られたのですが、大本教からは本当の国常立尊様は出ておられない。予告の為であって、未だ宇宙創造神と言うべき本来の国常立尊様は降臨されていないと言っていました。
他の霊能者の方にも調べて貰ったところ、現代の私達が歴史的に知ることがない超古代には、私が住む付近一帯の土地に超古代の神界の中心があり、この地に神々が集まって神謀りに謀りてをされた場所と言われます。その名残というか記憶から起きたのが神道の「大祓」の祝詞になったとも言う方もありました。


大本教の出口王仁三郎聖師さんは亀岡の穴太の出身であったので、元出雲は亀岡だと主張されていました。亀岡の千歳町出雲には「出雲大神宮」が存在しています。元々丹波という地名は神の「田庭」という意味であり、大国主命様が経営されていた土地のことであり、今の島根は大和朝廷に負けて片隅に追われて鎮まられた土地となります。
私自身、大黒様が「三ツ目青黒憤怒相」で出て来られた時、三ツ目の状態からして私達が知る歴史ではなくて、人類が知らない超古代の時代まで遡らないと、神が仏として出られた意味は解決出来ないと感じていました。
私が住む土地地から上がった霊達が私に言うには、「35万年間の苦しみ」を取り除いて下さってありがとうございますと言います。大本教神典に「主の神、35万年前に御引退」とありますが、35万年前に神界を揺るがす何かがあったと思われますが、今の私達の歴史ではそれを紐解くことも証明することは不可能と言えます。

ただ、言葉を見ていますとあることが解ります。神とは「上」であって、「公」を司る立場を意味して来ます。一方、「仏」とは「人をムなくした者」で、個々の私(自分)を意味して来ます。仏教はお釈迦様個人が悟られた内容を人々に教えるです。ですからお釈迦様の原始仏教は自力信仰の教えでもあったわけです。
神社というものを考えますと、天満宮のように「菅原道真公」の様な故人を祭った私的な神社も存在しますが、産土(うぶすな)神で解るように、本来の神社は大地とか自然とかを創りだして来た存在を【神】とも語り祭って来たわけです。
そうした自然を生み出して来た神は【火(か)水(み)】とも言いますが、火水(かみ)と言うのは万物の創造の力(エネルギー)のことであって、エネルギーで比較した場合、神と仏では意味が違って来るのです。

これを解りやすく解説しますと、例えば今の日本国首相・安倍晋三氏で言いますと、日本国首相は「神」の立場であり、「安倍晋三」氏個人は「仏」の立場となることなのです。日本国首相であるから、力である「自衛隊」の最高司令官として力も振るえますが、首相の座を退いて安倍晋三氏個人として勝手に自衛隊を動かすかことは出来ないのです。そこが「神と仏」の違いであり、「公と私」の違いとなるのです。
よく天使長、天使長と言いますが、天使長とは神界の天皇(天王)に仕える内閣総理大臣のような「公的職名」であって、特定の存在の固有名詞ではないのです。天使長そのものは幾度も交代しています。
ミカエルだミカエルだと言っているのではなくて、もう少し頭(智慧)を働かせる必要があるのです。自分の元にミカエルが出て来ると言われる方は多数おられますが、ではそのミカエルと名乗る霊は創造神を語ることが出来るのですか?。なのです。

創造神を語ることをしない天使長など、あり得るのでしょうか?。

よく仏教画に仏や菩薩の横に龍神を描いた絵がありますが、異端の瀧の行者で知られた故・金井南龍師は、龍神とは神(火水)界に所属するものであり、仏界に所属するものではない。仏教で語られる仏に従う龍神(火水)は、神から貸し出されている存在で、仏界は「高天が原」より下位の世界に所属して、仏界は高天が原に進めなかった落ちこぼれを救う世界とまで説いておられます。
確かに、それも一理ありまして、祝詞とお経ではパワーが違っています。言霊として言いますと祝詞は攻撃的であり、お経は穏やかなのです。
霊を救うと言うことになれば祝詞の「大祓」よりも、仏の「般若心経」などの方が不浄物霊を救うことが出来ます。それは「公」だと赦せない存在であっても、「仏」として助けることが出来るからです。

仏教では「創造神」が出し切れていません。巷に自分がお釈迦様とイエスとモーゼの3人を出した本体の永遠の仏陀だと名乗っている方もありますが、著名な【妙法蓮華経化城喩品】にはお釈迦様の父親として「大通知勝如来」が説かれ、その大通知勝如来には16人の王子があり、9番目の息子が「阿弥陀如来」。16番目の息子が「釈迦牟尼仏」。そのお釈迦様の父親である「大通知勝如来」の父親が「転輪聖王」とされています。すると、お釈迦様は転輪聖王の孫ということになります。
私達はその「大通知勝如来」に関して解っているかとなった時、何も解っていないわけです。ただ、お釈迦様も阿弥陀如来さんも【妙法蓮華経化城喩品】では兄弟であっても創造神でないことぐらいは解るわけです。

精神世界では、何でも名乗れば勝ち的なところが見られますが、よく学んでいるとそうした何でも名乗る者に引っかかるようなことはありません。神界から見ると、欺した者が悪いではなくて欺された者が悪いとなります。鵜呑みの信仰は禁物なのです。


明治25年に発祥した大本教から世の立替前宣伝と「我れよし」批判が一貫して説かれました。
天国天人の世界とは一種の「共同体」の住民であり、その世界には誰一人として「我れよし」は存在しないのです。つまり「我れよし」は一人として、みろく世に進むことは出来ません。不可能の対象となるからです。

人が人を見る時、ほとんどの人はあの人は「よい人」だと言って、あまり悪口は言いません。それは「美徳」です。しかし、「我れよし」かどうかで判断すると、世間でいくら良い人だと言われていても「我れよし」の方が多いのです。
逆に、世間からいくら悪口を言われていても、個人たる私のことではなくて「公」に熱心な方が居られます。そうした方達は世間では地獄に向かっていると思われていても、逆に天国界に向かっておられます。それは自分(私)を捨てて、一文の得にもならない「公」に奉仕しておられたからです。

そうしたことを「義(我れ羊)」と言います。

最近、地方のコミュニティーも崩壊しつつあります。それは「私」の自分の利益とか得に走って、「公」をないがしろにする人があまりにも増えたからです。自分が良ければそれでよいのかなのです。
この世に生きている以上、大事なのは自分であって他人のことでは無い。そうした考え方は個々の判断であり、神仏が口を出す手合いのものでもありません。ただ、この世と霊界は必ずしも同じ基準ではないということなのです。

人は【社会】があって生きられます。そこは個々の価値観が違った人達の集まりです。自分一人勝手に生きられる世界ではありません。他の協力が必要です。自分一人で米を作り、野菜を作り、魚を捕り、樹を切り家を建てる。衣服を縫うが出来るわけではありません。その社会を維持する為には「私」でけでなく、「公」も必要なのです。
その「公」は税や金で買える部分もあれば、金では買えない部分もあるのです。「公」をないがしろにすると、人とは支え合って生きている。助け合って生きているが解らなくなります。


私が見る目が正しければ、「私中心」で生きた方と「公中心」で生きた方は、死後で行く世界が違っているなのです。

私が知る方の中に世間から嫌われている方がいます。ところが、その方自身が自分は神様にいつも助けて貰っていると言われましたが、大国主命様がその方を救うのを見て、なんであんな人を大国主命様は助けられるのかと思っていましたが、理由は簡単だったのです。
この方は「私」個人としては問題だらけでしたが、「公」の為にはずいぶんと無償で働かれたのです。当時の私はそこを見る目を持っていなかったのです。

私は言葉の仕組みの「米」教で人に内在する良心神を説いて来ましたが、まだ意味が解っておられない方が大多数です。良心神とは「私」的に良い人のことではありません。「公」的に良い人のことなのです。「公」ですから「世根(米)」で、自分の好みで良い人だとか悪い人の判断ではありません。世根は私的なことではなく、公的なことなのです。
良心神の難しいのは、良心神とは自分にとって「良い人」のことだと錯覚することなのです。自分の身内ではなくて、如何に世間の「公」にその人が奉仕して来たかなのです。
盆の施餓鬼供養の話における「目蓮尊者」の母親は、目蓮尊者にとっては愛情一杯の良い母親であっても、地獄界に墜ちていました。それは「私」では良くても「公」が無かったからです。

私のHPやブログにも書いて来ましたが、世間で100人が100人ともあの人は「良い人」だと言われている方の魂が、魂は丸くてもどす黒く汚れていて、魂の点数が非常に低く出たことがあります。その理由は解りましたが、世間の人があの人は良い人だと言ってるから天国ではないのです。魂が丸いということは、その方は「円満」であり世間からは良い人だと評価を受けるだけのことなのです。そうした外形的善人はたくさんおられます。だが、我れよしが入っている。
私の良心神論の発露には、いくつかの事柄が原因としてあります。明らかにこの世では善人なのに、どうしてその人に天国の門が開いていないのか?。逆に暴れん坊で人に迷惑ばかり掛けている。なのにどうして天国に向かっているのか?。の疑問があったのです。


天国天人の世界は「共同」体であり、その中で【唯我独尊】の誤った考え方では住めないのです。共同邸体の仲間が皆が友であり。だから、共同で手を取り合って楽しく生きられるのです。
神の御国を「分かちの国」と言いますが、共同体でなければ「分け合う」精神など起きて来ません。


私は子供の頃に臨まれた声が、【私は、この世の幕を下ろす】と告げられた時、この世の幕を下ろす意味が解りませんでした。当時の人達は貧しいながらも、皆さん「公」を大切にされていました。ある意味、お節介が多くて個人のプライバシーが侵害されるはありますが、皆が自分を思ってくれる。自分が皆を思う世界は実に素晴らしい世界なのです。そこに争いは起きません。子供心にどうして神はこの世の幕を下ろすと言われるのか理解出来ませんでした。
だが、今はまったく違います。「公」など知ったことか、あまりにも「我れよし」が幅を効かす世になったからです。これでは地球は天国住人を育てる苗床の価値を失ってしまいます。

今の私は、神がこの世の幕を下ろすと言われた意味が理解出来ます。このままの世を続ければ、天国界に渡る人は僅かとなり、多くの人が地獄界にと向かうからです。私はこの世の存在よりも、そちらに危機感を抱きます。このままでは、人の姿をしていても強い者が勝つ獣の世になってしまうからです。
この世を続けようとしても、経済的に破綻が見えており、弱者はより悲惨な目に遭ってしまいかねません。


ただ、私が子供の頃に臨んだ声の、「私は、この世の幕を下ろす」にしても、それに如何ほど「絶対性」があるのかとなります。この世の幕を下ろすは大本教で説かれた「世の大立替」のことですが、大本教の出口王仁三郎聖師は日本が産んだ最高の預言者であることは間違いないとしても、出口王仁三郎聖師さんの神力は世を立て替えるほどのものではありませんでした。現実にそんなことが出来る神があるのかとなった時、私達人類はそんな神を見ていないのです。
こうした神界からの情報は、一部の霊能者の間では「天界からの脅迫」とも言われ、人類に改心を迫る脅迫とか「虚仮威し(こけおどし)」に過ぎないという説もあります。
それは正しい見方であったとしても、そうした天界の脅迫や「虚仮威し(こけおどし)」で人類が改心しないとなれば、どうなるかなのです。

そうした予告的なことが現実に起きるとすれば、かって「エドガー・ケイシー」が予告した「日本列島沈没」。出口王仁三郎聖師の「火の雨が降る」。日月神示にある「富士山爆発」。多くで言われる「東京に大地震」。一部の霊能者の方が告げられる「UFO大軍団の地球総攻撃」。これらが出て来なければ、神界は絵に描いた餅を食べる話をしているだけに過ぎないとなります。

私は常に万が一を考えます。為にはあまり「私」に走らずに、「公」を大切にしておくことです。


大本教の出口王仁三郎聖師が、多くの神の取次が信者を天国に案内すると言いながら地獄に案内していると述べられていましたが、今の現状はそうした有様となっているのです。



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