この日本で有数の某仏教系新興大教団の信徒さんとお話をしていた時、その信徒さんが言われことには、その教団の開祖(教祖)様が説かれるに、
【神の高山】は富士山を見本に考えればいいのです。富士山に上がるには幾つかの登山道があります。その登山道によって険しい道もあれば楽な道もあります。それらの登山道の一つ一つが宗教の教えであり、宗教の教えとはどの宗派の教えを信仰しようとも、その目的は神の高山の頂上までたどり着ければいいのであって、自己の宗教が一番だという考え方は捨てないといけません。
と説かれていますと言われます。
一見聞いていますと、素晴らしい教えです。非の打ち所がないような教えに見えます。確かに、【神の高山】を単純に言えば、上がる道は幾つもあるという理論です。
が、しかしなのです。この宗教開祖様はあまりにも「霊界」に関して【無知】であったことが解ります。
まず「神の高山」で表現される頂上神自体は、「神の高山」論で誰でも解ることです。その頂上神の呼び方は「宗教の各派」で違っていることも確かです。
だが、その
神の高山には【次元壁】が存在しており。その次元の壁を越えて行くには「一度この世に出る」必要がありました。
無論、この世に居る人達を対象にして説く場合は、この世に出る前までは例え地獄界に席(籍)があったとしても、今生において一気に最上級天国界に進むことも夢ではありませんので、霊界の次元壁に関しては特に説く必要もありません。だが、霊界に入った時にはその次元壁で神の高山には登れないが起きます。
どの宗教宗派であろうと、その目的とすることは自派の信徒を「神の高山」の頂上にと導くことを目的としておられます。
だが、大本教出口王仁三郎聖師さんが「神界の位は【一八十】段ある」と残しておられます。もしかすると百八十一段と説いておられたかも知れませんが、その場合の一段は主神になります。
天の岩戸が「一八十」として知られていますが、そこには「百八十」の意味があるのです。
この神界の位とされる百八十階段を一段上がる度に神(魔界)の試練的なものが襲って来ます。簡単には神の高山には登れないということなのです。自己の努力無しに、寝て果報を待てとはいかないのです。
私の最初の師匠は豊受様御代をしており、豊受様によれば当時の豊受様の御代としては、やはり豊受様の御代をされていた某女性霊能者と双璧で№1か№2。日本全体の霊能者の中でもその実力は10本指に入ると言われていた方で、その著本は伏見稲荷大社の参集殿でも売られていたほどで、ある意味伏見稲荷大社公認の実力派霊能者でした。
この近辺の霊能者にその師匠の名を告げれば、あの先生ならば間違いないと二目も三目も置かれていたほどの方でした。ほとんどの霊能者は自分が一番式で、他の霊能者を誉めるなどはほとんどないので、それ自体が希有でした。それだけ霊能者の間でも認められるだけの実力があったわけです。
2番目の師匠はほとんどの人がなじみが無い「言霊師」で、山に籠もって松葉や熊笹を食べて3年ほど仙人修行を積まれた方で、その最盛期の実力はその師匠の話を庵に聞きに来ていた全員が正座したまま空中に浮いてたいたと体験者は語るほどで、自分は神通力者だ霊能者だスピリチュアルだと言っている人達の段階の方ではありませんでした。
私自身はそうした実力派の霊能者ではありませんが、
そうした師匠に同行して霊界見聞をして来たことにより、宗教界やスピリチュアルの世界で御託を並べておられる霊能者や霊感者の段階はなんなく解ります。
私自身、今でも素晴らしい霊能者に出会えばその教えを受けたいと願っていますが、その二人の師匠を上回る霊能者に出会えておりません。豊受様は最初の師匠に当時の日本で10本指に入る霊能者の方の名を言われたそうですが、そのほとんどは男性の方であり、その師匠もベスト4位迄には入ってはいませんでした。
その師匠は、
豊受様が名を告げられた霊能者の方達は世の中的には、まったく無名の方だったと言っていました。
私は最初の師匠から、神界の命令として恐山に行くようにと言われて田名部の町でタクシーに乗って運転手さんと話していたところ、地元では蛇の神様で一躍全国的に有名になられた「木村藤子」さんより別のイタコさんの方が評判が高く、地元の人達はそちらに相談に行くと言われます。全国的には無名の為に、木村藤子さんを越えるほどの方が居るなども世には解らないわけです。
私は、その二人の師匠の元を離れた後、自分はいったい誰なのだろうと思って、著名な霊能者の方に「霊査」を受けました。その時、その霊能者の方が私に面白いことを言われたのです。
仏の声が聞こえる者は千人に一人出て、神の声が聞こえる者は万人に一人は出るが、そうした者が万人修業しても、本物と呼ばれる者はたった一人しか出ない。ほとんどの霊が見えるとか霊の声が聞こえる者は、その修行の段階で邪神とか魔界の餌食になって、そうした存在に使われるで終わってしまうと言われます。
そうした類いの話は最初の師匠からも聞いていました。霊の声が聞こえる。霊の姿が見えるという相談者の多くは、あまりよくない霊に懸かられており、そうした霊が懸からないようにはしますが、これはという方には修業をされるように言います。
しかし、その修行過程でほとんどの方は邪神や魔界の化けた神に取り憑かれてしまったり、正神と言えども「お試し」的なことをされますので、本人が道を誤ってしまい、そうした事柄を乗り越えて来られる方は僅かでしかないと言っていました。
私はその著名な霊能者の方から指摘されたのは、貴方はその数少ない本物と成ることが出来る方ですが、貴方の背後にはお稲荷様やお不動様や無数の神々が従っておられます。だが、それらの神々を従えるべき主たる神が黙って貴方を見ておられるだけで、何一つ動こうとされていない。
為に、貴方には無数の神々が従っておられる関係で、それらの神が貴方を勝手に使おうと動かれるので、貴方の背後神霊団の統一が出来ておらず、貴方自身がそうした神達によって翻弄されてしまわれている。それでは本物の霊能者としては世には出られない。
私(その霊能者)には神界を統一出来るほどの神が貴方の背後にありながら、貴方の苦労を黙って見ているだけで、いったい何を考えておられるのかさっぱり解らない。だが、この神が動かれる時、神界はこの神によって統一されてしまいます。為には貴方自身が稲荷様やお不動様や神々を越えて行かなければなりませんと言われます。
それは、ある意味、私に与えられた【試練】の道だったのかも知れません。
世に本物の霊能者が少ないと言われるのは、魔界や邪神から来る騙しや正神から来る試練などを突破するのが難しいからです。潰されて行くのです。
最初は「純粋」で、この霊能者の方は見込みがあるなと見ていますと、途中から有名に成ると鼻高々とか傲慢な霊能者となって、神の位を上げていた方が、アッという間に落ちて行かれます。
常に他山の石として、自分を戒めていなければならないのです。
神の高山は上がるには辛い道ですが、降りるのは一気に降りてしまいます。それは富士山に登るのと同じことです。上がりはきつい。だが、下るのは一気に降りて行くのと同じで簡単なのです。
最初は「正神界」を歩いていても、途中から「邪神」に自分自身が変化して行くのです。だが、自分自身はそれに気がつかないのです。
米教は稲荷の教えと同じで、
実れば実るほど、頭を垂れる稲穂かな
私は霊能力がある方に注意しているのは、谷間の丸太の一本橋を渡っているようなもので、油断すればその下には蛇がうようよしている。丸太の一歩道を踏み外せば、自分が邪神(蛇神)界の仲間に落ちてしまうです。
蛇神(邪心)が意味することは、地位や名誉や権力や金に対する執着心です。霊能力が欲しい。それで大金を得て贅沢をする。それでは行き先が邪神(蛇神)界となるのです。
神の高山は、大本教出口王仁三郎聖師さんの予言で「みのおわり(美濃尾張)」から、十三(富山)にと向かう国道「四十一」号線で簡単に紐解ける仕組みでしたが、ここまで解らぬ神ばかりとは、恐れ入りました。
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