今日までの宗教では自分の魂を磨きなさい。悪をしていけません。そうしたことを教えて来ました。しかし、そこにあるのは善行をする者は天国で、悪行をする者は地獄に落ちるの単純論でした。それが本当のことだという概念は科学が進歩するにつれて迷信と軽んじられ、宗教の嘘だという考え方が支配して来ました。
オウム真理教の事件が起きた時、ある大学の教授は学生を前にして、君達は本当に死後の世界があると信じているのか?。死後の世界などは無い。全ての人々が人は死ねば終わりだという真実を知ったならば、誰もがそれならば悪をした方が得だと悪に走るであろう。そうなれば、力が強い者が勝つ獣の論理。この世は弱い者は地獄と呼ばれるような虐げられた人生の世界に陥ってしまう。
宗教が在りもしない天国や地獄を説くのは、地獄に落ちたら恐いと思う人達がいることで犯罪が予防されて、この世の平和は保たれる。宗教の存在する意義は、今を生きている人達の平穏の救いであって、ありもしない死後の世界の救いではないと教えられた。無神論とか霊界否定論の立場からすると、そうなるのかも知れません。
私が本編で述べたいのは、霊界は在るという証明論ではありません。何故、これまで自分の魂を磨けという教えがなされたのかです。
みろくの世を語る人達の間では、みろくの世とは横一列の均一の世界だと言われる方達が多々あります。
これは立替によって到来するとされる「みろくの世」を宣伝した大本教神諭に、横一列に臼で粉を挽いたような世界にするとあるからでしょう。新しい平等な世界を創る宣言のようなものです。
確かに、人は平等で公平な世は理想としたい世です。しかし、全ての人が持つ価値観は同じではありません。自分はこうだと思っても、別の人はそうではないと言われます。人は様々な価値観を持っており、人の満足度とはそうした自己の価値観に支配されている以上、万人が同じ価値観を持たないままでの横一列の世界が果たして創り出せるかどうかです。
例えば、全員が同じ物を神より与えられても、それで満足する人もあれば、足りないと文句を言う人もあります。個々の人によって満足度は違います。欲のある人と欲の無い人でも満足度は違って来ます。全ての人が満足する世界だと、それは工場で生産されるロボットのような社会になってしまいます。
人はロボットではなくて、神とも成れる魂を授かった者達なのです。
私が抱いた疑問は、全ての人が満足する横一列の世界の到来などあり得るのだろうか???。
確かに、全ての世界がこの地球に見られる三次元世界だけであるならば、それは不可能で無いかも知れません。しかし、少しばかりでも霊界見聞をして来た私からすると、
霊界は縦の社会であって、全霊界を均一世界にする横社会化は不可能に近いのです。それを可能にするには、全ての人が「お釈迦」にならないと行けません。
しかし、凡夫である私達がお釈迦様(仏陀)な成るなどは、気の遠くなる話です。
現在の霊界はスウェーデンボルグが書いた霊界七階層(天国が三階層・中有界・地獄が三階層)が正しい説と思われています。大本教の出口王仁三郎聖師は霊界物語の中で、西洋人では只一人だけ霊界を探訪した者が居ると残しておられます。その只一人の者とはスウェーデンボルグのことかと思われます。
出口王仁三郎聖師は、そのスウェーデンボルグが言う天国三階層の上にさらなる上級天国界があると記されています。天国は四階層・中有界・地獄界は三階層の合計八階層です。
スウェーデンボルグが探訪したのは第二天国界であり、おそらくスウェーデンボルグは天使から第一天国界より上の世界の存在は教えられてはいなかったのでしょう。
第二天国界の天使では第一天国界に行くことは出来ませんので、それより上の世界があるなど第二天国界の天使達が知るものではないからです。
一部の霊能者の説として、キリスト教徒はどんなに頑張っても第二天国界止まりで第一天国界に進めていない。謎だという話がありましたが、創造神その方ではなくてイエスを主神として崇めていれば第二天国界で止まってしまいます。
愛の教えでは限界があるのです。
私が子供の頃に臨んだ声は、そなたはイエスの「愛」の教えを何一つ恐れずに乗り越えて行きなさいと言われ、当時は「愛」以上の教えがあるのだろうかと思っておりました。
だが、
学んで来ているうちに「愛」の教えは「如来の叡智」に及ぶものではないと解って来ました。仏教で言えばイエスの教えは「菩薩の道」なのです。それでは第二天国界止まりです。第一天国界に進もうとすれば、そこには仏教で説かれる「如来の叡智」が要求されて来ます。
魂は「一霊四魂」で説かれますが、「愛」ばかりを言っていると「奇魂」が働かずに如来の叡智が育って来ません。無論、誰もが如来の世界に進もうなどとも思わないでしょうし、第二天国でも第三天国でも十分過ぎる世界です。
ただ、前文に言ったように
人の価値観は違い、天国界に行ったらつまらない世界だ!。くそ真面目なアホばかりだ!。どれだけ地獄界の方が楽しいのか解っておらんという声も出るでしょう。
地獄界とは別に鬼が鉄棒を持って追いかけて来る世界ではないからです。人を押しのけてでも自分がより美味い者を食べるという世界です。
大本教が盛んに言った「我よし」の世界です。他人のことなど知ったことじゃない。自分がよければそれでよい。自己満足の世界です。
だが、自己満足とは他人を虐げないと簡単には得られないのです。
そこに獣は力の強い者が一番先に美味しい物を食べて、力の弱い者は食べかすを食べるか、まったく食べられないが起きます。
前のブログに書きましたが、
本当の神の御国とは「分かちの国」であり、一つの物を皆で平等に分けて食べる世界です。独占欲の強い人には向かない世界なのです。皆で分け合うから平等の世界なのです。
ほとんどの方は、この平等の意味を間違えておられるのです。平等の世界を創るということは、一人一人の住人が「分かち」の精神が要求されるのです。
私は魂に点数が出る不思議な現象を見て来て、中有界の点数の幅が大きいので、中有界そのものも緩やかな上・中・下の三階層で、中有界の上界が天国界と間違われた意見が出ているなと感じました。
霊能者がいくら霊能者だからと言って、神でもないのに天国行きの切符など簡単に切れるものではありません。それが出来るのは、その人自身が神霊である魂を持っていなければならないのです。そうした一人にイエスがあります。
本当の霊界に渡っていない霊を渡らせるのは中有界です。仏教で天国・中有界・地獄の「三途の川」が説かれますが、死後に即座に天国行きの霊は死ぬ前に中有界を飛ばす知らせが降りていたりします。そこで、霊界は合計十階層ではないかと個人的な仮説を言って来ました。
そうしないと、数学上の理論も成り立たないからです。
私が説いて来た「米」教も数学の理論です。ですから、みろく(369)の仕組みで「五十六億七千万」の数字も出せるわけです。
それはお釈迦様が、自分の死後56億7千万後に弥勒菩薩が出ると説かれた説ではありません。仏教の末法論から言えば、日本では鎌倉時代には既に末法に入ったと説かれて来たのです。
霊界そのものは「0(レイ)」界ですが、その「0」は存在しない意味ではありません。例えば、1000と書いた時、実数は「1」だけであって、後の「0」は存在しないではありません。「0」は隠れている。目には見えていない意味を秘めているのです。
実数(人)に0(霊)を懸けると、例えば3×0=0となるように、霊が見えると言うのは、その人に霊が懸かっているから見えるだけなのです。
霊が見えて困るという人に対しては、優秀な正しい霊能者の方は霊が懸からないように処理されます。すると、相談者はそれから先は霊が見えない霊の声が聞こえないで、この世の生活に支障をきたすがなくなって助かるがあります。
あまり霊に懸かられていると、この世での生活には大きな支障が起きます。
霊能者に成ると言うのは、そうした処理をしても処理出来ない人達だけが、その宿命として修行に修行を積んで成るのが本筋なのです。
逆に、霊的なものを欲しがって悪徳霊能者の元に行くと、蛇霊などを懸けられて体調が悪くなったりして、その霊能者から逃げられなくなって、大金をむしり取られることにもなるのです。人助けをする振りをして、実は霊感体質者を奴隷にして来る霊能者も現に存在しているのです。
神言会のHPや私の過去のブログで記載した魂の点数図。
この世は【魂の修行場】と言われて来ました。それは自分の魂を磨くということは、霊界における自分の魂が住む層を上げるということなのです。スウェーデンボルグの記述にもありますように、霊界においては第二天国から第一天国界には行けません。
行こうとすれば一度この世に降りて来て、人とし魂を磨いて、第一天国界にと進む。こうしたことが「輪廻転生」の道でもあったのです。
だが、
天国界の者がこの世に人として降りるのはある意味「諸刃の剣」です。間違えれば第二天国界に居た者であっても、地獄界に落ちてしまう可能性があるのです。
閻魔大王は、地獄界に何時までも置いていても魂の修業にならないことから、閻魔庁(羅城)に出頭して来た霊達には「来世門」をくぐらせています。この羅城(閻魔庁)の来世門の門番が「牛頭虎パンツ」で、皆さんから節分の夜に「鬼は外」と炒り豆を打たれている者達なのです。
それは自分には来世は要りませんと言っているような行為なのです。
大本教が出した「節分の炒り豆にも花が咲く」の意味、よく理解することです。
節分の炒り豆に花は咲きません。私達の魂も腐ったり捻れたりすれば、次の世の花を咲かせることが出来ません。それは炒り豆と同じです。しかし、節分の炒り豆で「鬼は外」と打たれている閻魔庁は、鬼と云う「魂」に来世(未来)という門をくぐらせて来ているのです。つまり、節分の炒り豆には花が咲いているのです。
また、魂に点数が出るということは、神界・並びに天国と呼ばれる世界は階段世界であることは知られていますが、その階段とは「ピラミッド構成」でもあるわけです。【神の高山】という言葉がよく使われますが、それを物語るわけです。
それは、同じ神名の霊でも、個々の霊によって神界での地位が違っているのです。その神位とは、人間が「正一位」などと贈ったものではないのです。
世に出ておられる御神霊は、そうした階層のどこかであって、神に大小が無いなどの論理はそもそも成り立たないのです。大小とは言わなくても、地位の高低が存在するなのです。
霊的世界に関わっている方で、人は一人一人が創造神だ!。とアホ丸出しのことを言われる方達が多々あります。そうした方達の魂は残念ながら磨かれておられずに、点数的にもかなり低い段階と思われます。
また、そうしたこと言う人達が言われる「何をしてもいい」は、低い世界ほど多様な考え方があるのであって、魂を磨いてその点数が上がって行きますと、考え方の違いは徐々に起こらなくなって来るのです。
天国と言っても下層天国界ほど諸々の考え方を持った霊達が居て、他の天国住人とは考え方を異にしますので、同じ想念(考え方)を持った霊達の集合組織が形成されて行きますので、そこに「村」的なミュニティ(共同体)が存在し、それには規模が大きなものから小さなものまであり、それが霊界は多様世界と言われるわけです。
多様世界だから、自分勝手が出来るではないのです。
私がある優れた霊能力を持つ方と一緒に冨士浅間大社に参拝した時、此花咲くや姫様と呼ばれている御神霊が、その霊能力を持たれる方に「神に大小などは無いとと言われた」と言うので、私は憮然と聞いていました。
もし私の前に「此花」さんが出て来られて、そんなことを言われたら、私は即座に「そうした言葉を出すから人は間違えるのだ」と論破に入ったでしょう。上記の図が解っていたならば、そんな論理は通用しないからです。
神に大小が無いと言うのは、神界全体を一本の樹木に例えた時に言う言葉であり、それは大本教神諭にも述べられている枝葉の神ばかりが栄えて、「根元」枯らして何とするが解っておられないことになります。
今の神界は枝葉の神ばかりが茂って、根元神の存在を見失っている状況にあるからです。枝葉の神と根元の神は一体の樹木であったとしても、それをもって神に大小は無いなどもっての他の論理であり、その言葉そのものが創造神を軽んじることになるのです。
立替と言っても、立替とは人間だけが裁かれるのではなくて、これまで世に出ていた御神霊の責任をも問うものであり、神霊だから裁かれないではなくて、諸々の神霊も裁いて行くのです。神霊に対する裁きがあるということは、神霊には高低の段階があるということなのです。ですから、大本教神諭は上に居た者でも下に落とすと告げたのです。
こうした魂の点数は創造神の別の顔、閻魔大王から出るものなのです。
私は神通力者と呼称する方から、貴方自身が「閻魔大王」様その方ではないかとの質問を受けたことが2つほどありますが、私自身ではなくて私の背後に閻魔大王様を見たと言われる霊能者の方達の方が正しい見方かと思います。
私を殺しに来た神通力者の生霊がありましたが、閻魔庁がその神霊である天狗の羽落とし刑や、本人の生霊を「肥溜め」に落とす光景も見て来ましたので、あまり間違ったことは述べていないと思います。
この魂に出る点数とは、私達人間の場合はその人の「良心神」によります。良心では無くて良心神(この世の閻魔)です。その点数に応じて高い世界に進むことが出来ます。
第三天国が「五次元」相応になり、第二天国が「六次元」相応になり、第一天国が「七次元」相応になります。ですから、霊界の次元階層に阻まれて、第二天国界の天使といえども第一天国界の詳細は知らないのです。ただ、そうした階層を越えられる特別の天使が存在しており、そうした天使達から上級界があることを知る程度なのです。中有界や地獄界は「四次元」世界です。
で、みろくの世は「五六七」と呼ぶわけです。みろく世では「中有界や地獄界」は消滅すると説いておられる方達もありますが、みろく世はがこの地球上で成り立つのであれば、そうした説も正しいことになります。
私は私の論が絶対的に正しいなどとは言いませんが、私が子供の時に聞かされたのは、「五六七」で成り立つ新地球と「三四(三次元と四次元)」のみを残す現地球とに別れる話でした。
そして、私は子供の時に
「そなたはこの私が仕組んだ内容を世に知らせようとしないのであれば、そなたも永遠にこの地球で輪廻して暮らすがよい」と告げられほどなので、私は地球人類が滅びるなどの説には組みしていません。
どこまでも別ける方の「捌き」です。
私はその時期が何時なのかは知りませんが、
みろく(五・六・七次元)の世に行く人達と、この地球(三・四次元)に残る人達との永遠の別れと論じているのです。が、その残される「三・四次元」の世界とは、もう創造神たる主神の恵みがない世界となりますので、力の強い者が生き残る地獄模様になりかねません。
これが岡本天明氏の日月神示にある「三四五(みよいづ)」から「五六七(みろく)」の意味でしょう。「五」が移動していることがお解りにならなかったようです。
一部に「あるがまま」と説いていおらる霊能者の方達がありますが、あるがままでは魂の点数は上がりません。現状維持なのです。現状維持で行くのであれば、何もこの世に出て来なくてもよかったわけです。
日本神話で天岩戸を開けたのは手力男命ではなくて
アメノウズメの女の股(又)力です。魂を磨くには努力しなければならないのです。
私は子供の時に臨んだ声から、日本神話の天岩戸開けの内容は、この私が仕組んだことで、そうした事実はどこにもない。そなたはこの私が仕組んだ意味を紐解きなさいと告げられて、元祖ストリッパー話に「努力」の意味が秘められているとは思いもしませんでした。不思議な光景だと見ておりました。努=女の又の力。
自分が努力しなければ、自己の中の真性「天照大御神」は出てこれないのです。
みろくの世とは「天国界天人と霊界の次元壁を越えられる霊国界神人」とで成り立つ世ですが、第一天国天人と第三天国天人が同一待遇ということは、各次元階層では均一であっても次元の階層違いではかなり無理筋ではないかと私個人は見ています。
それは大本教神諭に上に行く者(第一天国)、下に行く者(第三天国)など三段に分ける記述があり、そんなことならばどうしてもっと早く教えないのかと文句を聞きたくないので早くから説く式の記述がありますが、大本教からは「五六七」と出されただけで、何の説明もなされていませんでした。その当時に次元階層論を説くということは不可能に近いことなのです。
が、私が魂の点数図をHPに出したのは10年ほど昔のことであり、仮にその図を肉体は見ていないとしても、もう霊界では知らないでは通らないのです。罰せられるのは肉体人間ではなくて霊の方です。
この世の霊界情報は蜘蛛の巣(インターネット状)の様に繋がっていますので、知らなかったことは罪ではありませんが、知ろうとしなかったことが罪に問われます。霊界で検索すれば私が説いていることは霊には解ったということです。そこに霊に対する捌きが起きるわけです。
私はこの世の人々に対して解説しているのではありません。豊受神が私のことを神々に教えをされる方と言われましたが、霊的世界に対して発信しているのです。
お釈迦様が説かれた仏教は自力信仰(自己の良心神を磨く)でしたが、お釈迦様の死後に大乗仏教が起きて来ました。この大乗とは小乗の自分だけ救われればそれでよいのかの批判です。
それは当然の批判であり、「米」教ではその部分を【他を救いて、世根と成れ】と説いているわけです。
ですから、
「米」教に従って「世根として他を救う」働きをなされる方は、菩薩の道を歩きながら、「如来の叡智」にと向かって行くわけです。目標とするのは第一天国界です。
しかし、現在の大乗仏教は「他力信仰」に走りました。が、そこに見えているのは「偶像信仰」にと陥っています。
他力の偶像信仰だけだと、偶像に宿る霊から助けて貰うはありますが、助けて貰っても自己の魂が磨かれないことから魂の点数が上がらないが起きるのです。
米教で第一天国界には行けないとしても、第二天国とか第三天国には行けるようにはなっているのです。ですから、「みろく(五六七)」の教えなのです。
私自身は今の地球は「三次元と四次元」のみ現存と聞かされていますので、それが事実であるとしたならば、立替後の地球は地獄界の様を帯びて来るでしょう。そこに出て来るのは「強い者が勝つ」獣の論理です。その時には、天国の門は閉ざされた世界で永遠に生きることになります。
二線に分けるは「みろく世」と「今まで通りの世」。その「みろく世」は更に五六七と三段に別れるです。
遊んでいれば天国ですと説く者の言葉は、どんな世界でも甘い言葉の裏には罠や騙しがあるように、後で泣かなければならないのは自分なのですよ。
努力した者が天帝(閻魔大王)からみろく世に報われる
天岩戸を開けるのが女の又(股)力
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