人に内在する良心神(神言会)

神は言葉なりき。言葉は言霊で構成され、その言霊による神の仕組みを解説する神言会(kamikotokai.com)のプログです。
神言会では人に内在する良心神(この世の閻魔)とは何かを説明しています。

人類のカルマの「贖い主(救世主)」とて、悔い改めない者までは救えない

大本教の出口王仁三郎聖師は初期の頃、自分は「救世主」であると自称されておりました。その後、自分が救世主の看板は降ろされて、名乗りは「聖師」に変えられて、今も「聖師」の呼び名で多くの方から尊敬を受けておられます。

特に霊界物語第十三巻「信天翁(あほうどり)」の中で、【いま大本にあらはれた 変性女子はニセものだ。 まことの女子が現はれて やがて尻尾が見えるだろ。 女子の身魂を立直し 根本改造せなくては 誠の道はいつまでも 開く由しなし。さればとて それに優りし候補者を 物色しても見あたらぬ。時節を待ってゐたならば いづれ現はれ来たるだろ。みのか尾張の国の中 変性女子が分かりたら モウ大本は駄目だらう】という有名な内容を残されています。

出口王仁三郎聖師の自称救世主は、出口王仁三郎聖師の魂が「素戔嗚尊」であるということを前提としての型演技でした。ただ、本番は自分(出口王仁三郎聖師自身)とは似ても似つかない人と残しておられますので、本番の魂は素戔嗚尊であったとしても、出口王仁三郎聖師と同様のタイプではないことになります。
ここに注意しておかなければならないのは、出口王仁三郎聖師が演じられた「素戔嗚尊」とは、肉体的には男性ですが、その精は女神である豊雲野尊から出られたことから「瑞霊」とされている意味なのです。
このことは他の場所で示されていますので、そこを見ずに信天翁(あほうどり)だけを見ていると、まさにアホウ鳥となってしまいます。出口王仁三郎聖師が演じられた素戔嗚尊とは、日本神話の中の伊弉諾尊が単独で産んだ子供の素戔嗚尊のことではないと告げてあることなのです。

変性女子とは出口王仁三郎聖師の名乗りで、肉体は男であってもその魂は女であるという意味合いです。それは素戔嗚尊は男神であっても、その精は女神の豊雲野尊から来ているので男でありながら女と言う意味の変性で、その素戔嗚尊の演技は「ニセ物」でしたと自ら書かれたわけです。

その信天翁(あほうどり)「ニセ者」発表に、「まことの女子」と「変性女子」があり、肉体が男なのか女なのか解らないような書き方がなされています。
大本教の出口王仁三郎聖師は近代日本が産んだ「最高の預言者(予言者)」であることは、その予言の数々の的中率からして誰もが疑わないところです。この予言が残されたことから、数多くの男性が自分が「変性女子」である。女性が自分が「誠の女子」ですと、自称「救世主」の名乗り合戦のようになってしまいました。

このことそのものも神界の秘密(火水)に属することなのです。自分が名乗ればいいという類いのものではありません。
大本教から出された素戔嗚尊での「ス」神論。そして、大本教神諭予告「九つ花」から導いた「ラ」神論。この二つがあって解けて来ることなのです。

問題は、この「救世主」という言葉の意味なのです。非常に曖昧な言葉です。私達は救世主と言いますと、どうしてもキリスト教のナザレの「イエス」のことだと思い込んでしまいます。
キリスト教においては、イエスが十字架の上で磔になったことは、イエスが人類の罪を被って「贖い(あがない)」をして下さったことだという教義の上に成り立っています。
そこで、イエス一人だけが「神の子」であると認めるのがキリスト教徒であり、キリスト教徒の全ての罪はイエスが被ってくれて永遠の天国に行ける。イエスをただ一人の「神の子」と認めない異教徒達は地獄に墜ちるです。
その意味で言えば、私達日本人の大多数は仏教徒であり日本神道ですから、キリスト教から言えば地獄に落とされる者となってしまいます。

そうしたことは信じる信じないの問題であり、別に「真理」に基づくものでもありませんし、個々の魂に存在する「カルマ」論とは違って来ます。
仮にナザレのイエスがキリスト教徒の「贖い主」で、キリスト教徒のみ救うであってもかまわないのです。ただ、ナザレのイエスに全キリスト教徒の「カルマ」を背負うだけの能力があるかどうかなのです。

大本教の出口王仁三郎聖師が「素戔嗚尊」を出されたのは、素戔嗚尊とはイエスとは神界における格違いの存在だからです。神の子ではなくて、素戔嗚尊とは神自身だからです。

旧約聖書においては「神自身」が【贖う方】となっています。大本教の出口王仁三郎聖師は救世主は「素戔嗚尊」だと説かれる一方、その素戔嗚尊が人類の罪の「贖い主」で、日本の神道にあります「千座の置戸(ちくらのおきど)」に処せられたと書き残されています。
千座の置戸とは「犯罪者の罪の償いとして、科せられる刑」のことで、その意味合いではキリスト教が説く「イエスが磔」になったことが人類を救うことであったと説くことは、必ずしも場違いではないのです。

仏教ではカルマ(罪業)によって【因果応報】が発すると説きます。このカルマは、イスラム法典では「目には目、歯には歯を」となります。旧約聖書では自分が播いた悪の種より出来た悪しき果実は自分で刈り取りなさいです。
そこには、根本的に何をしても神の愛で赦されるなどは存在していないのです。カルマは自分が消すか、そのカルマの分を誰かが代わって「贖罪」しなければ消えるではないのです。
仮に旧約聖書にある神自身が「贖い主」で、人類の罪を被って下さるとしても、神は愛だから何をしても赦されるのだと説く者は間違った者達なのです。

大本教の出口王仁三郎聖師は、地獄を覗けば牧師や僧侶で一杯だと書き残しておられますが、それは基本論として神仏を説かれる方達が「カルマ」を見ておられないからです。カルマの解消を考えずに他力の教えに走ったからです。
宇宙人と呼ぶ存在といくらチャネリングと言ったところで、その宇宙人が貴方の「カルマ」を解消してくれるでしょうか?。神と霊人とを一緒に論じることは間違いの元です。
光の存在だ!。いくら光だと言ったところで全ての魂(玉)は光の玉なのです。ここまでのブログにも書いたように、いくらその神通力者や霊能力者に光で見えていても、それは龍神であったり天狗であったり蛇霊であったり狐霊であったりするのです。その存在が貴方のカルマを解消してくれますか?。なのです。

光だけでは「正神」とか「邪神」の判断は不可能です。光だから正神ではないのです。何度も書きましたが光は「火水(かみ)」と言うエネルギーであり、邪神もまた巨大なエネルギーを持っている以上、光は出せるのです。今日まで邪神が見せる光に狂った人は数知れないのです。

現代のスピリチュアルでは、何をしても神の愛で赦されますと平然と説く人が聖人のごとき者だと思う大錯覚が起きていますが、創造神の原則は何一つ変わっていません。
神は愛で何をしても赦すではなくて、【カルマの原則】がある以上、そのカルマを消滅させる「贖い主」が存在しなければ救世主などはあり得ないのです。

そこにすなわち

「贖い主」=「救世主」が成り立つのです

が、個々の人が犯した罪は小さいとしても、地球上の全人類が犯した罪業を集合した「カルマ」はとんでもなく巨大な物になります。それのみならず、国家や民族の罪。間違った宗教の罪。社会のシステムから生じた罪。イデオロギー等によって起こされた罪など、膨大なカルマとして地球に存在するからです。
現在、この地球は温暖化現象により世界各地で異常気象が発生しています。一部の霊能者の方達は、それは人類が積んだ「カルマ」の清算だと説かれますが、間違った意見ではありません。カルマの膿出しが起きるからです。それが時には大地震や天災まで結びつきます。
この異常気象を発生させたのは私達人類ですが、と言って個々の個人が罪を犯したのではないのです。社会の流れがカルマを生じさせたのです。個々の人間がそうしたカルマを精算できる話ではないのです。
大本教神諭に「ユダヤの悪鬼が、この世を泥海にする仕組み」とありますが、資本主義、金儲け主義が地球環境破壊を積んできたわけです。もしも世界が日本の江戸時代のままであれば、この地球も大きなカルマを背負わなかったわけです。

この人類の罪業を自分を犠牲として「購う」存在が本来の「救世主」という意味なのです。自分が救世主ですと名乗っても「償う」ことが出来なければ、何の意味もないのです。

では、イエスが救世主として再来して人類を救えるかと言いますと不可能です。私が子供の頃に臨んだ声は、「イエス」と「ムハマンド(マホメット)」と「弘法大師」さんの神界における力を告げられました。ナザレのイエスの力を「千」とすれば、ムハマンドと弘法大師さんの力は「六百」の力だと告げられたのです。
一部に識界レベルとして、お釈迦様は第七識界。イエスは第五識界。弘法さんは第四識界が語られますが、第五識界では救世主レベルとは言えないのです。

日本では弘法大師さんが自分の名を呼ぶ者は救うと言われたこともあって、弘法大師さんを信仰することによって多くの方が救われておられます。だが、そこには信徒数の問題があります。
弘法大師さんは高野山真言宗なので公表で410万人信徒ぐらいです。これぐらいの信徒数であれば、弘法大師さんのお力で代わってその信徒のカルマの償いも可能でしょう。
しかし、キリスト教の場合は世界で22億人以上に達します。高野山真言宗の信徒数の五百倍以上です。これだけの人が持つカルマはイエス一人の神の力ではとても解消出来ないのです。
為にイエスはキリスト教徒の積み(罪)重なった「カルマの十字架」を背負って歩いているのです。とても気の毒で見ておられません。
キリスト教徒にとって大切なことは、イエスに自分の罪業(カルマ)を押しつけるのではなくて、自分がそのカルマを解消するにあるのです。

イスラム教は世界で15億人ほどになりますが、ムハマンドは自分を神の下僕であり自分を神の様に拝むなで、自分が神として崇められていないことからイスラム教信徒のカルマを背負う義務はありません。また、自分が神と信徒の仲立ちとならないことで、創造神と信徒を直結させることが信徒のカルマを解消させる手立てとなっているのです。
ただ、イスラム教は神の荒(アラ)魂の働きだけなので、とんでもない過激派を創りだしてしまうことにもなります。

では、お釈迦様は再来して「救世主」に成らないのかと言いますと、その代わりとして56億7千万の「みろく(369)の仕組み」が用意されていたわけです。お釈迦様自身は「観音さん」に頼めと残しておられるぐらいです。
そもそも、お釈迦様の弟子に最初から弥勒菩薩など実在していません。お釈迦様の死後に仏教が中央アジアに広がる過程の中で、ミトラ教の最高神が弥勒菩薩として仏教に組み入れられた話です。よく調べてくだされば解る話です。
もしも弥勒菩薩がお釈迦様の直弟子であったとしたならば、どうしてその名がお釈迦様の十大弟子の中に存在しないのか?。十大の弟子の筆頭てあっておかしくなかったわけです。疑問を抱かなかった者がおかしいのです。

自分の前にお釈迦様が出て来て、おまえが「みろく」だと言われたと喜んでいる方達がありますが、オウム真理教の麻原が自分はお釈迦様の再来で、上祐が弥勒菩薩などとやったのは、まったく無知から来た代物なのです。世に自分の前世はお釈迦様だという者は全て「ニセ物」と思ってもいいのです。
仏教の祇園精舎の守護神は「牛頭天王」。牛虎(艮)金神・国常立尊が理解出来ていれば、お釈迦様の悟りは何故に「みろく(369)」でないと紐解けないか解ることです。ですから「米」教はお釈迦様の悟りであった「人には良心と呼ばれる神が内在する」と解き明かしているのです。

創造神は冗談でこんな仕組みをなされてはいないでしょう。

今回、用意されている「救世主(贖い主)」とはナザレのイエスよりも遙かに高い存在で、神界を束ねるほどの存在なので「三千世界」の言葉が使用されているのです。

大本教の出口王仁三郎聖師は、自分はイエスと同格だと言われていました。出口王仁三郎聖師が生存されていた当時の信徒さんは霊界で高い世界に行かれたとの報告もありますが、大本教の最盛期の内部と外部の総信徒数は700万人と言われていましたので、それぐらいの信徒数のカルマならば出口王仁三郎聖師が代わって償いが出来たのかも知れません。
また大本教が破壊された意味は、日本国のカルマの解消の意味があったと残されていますが、その型もあったのでしょう。
ただ、この生存時という意味は、前回のブログも書いたように、そうした開祖達がこの世を去ると、開祖などの肉体に懸かっていた高い神霊がその組織を離れてしまわれます。

現在の大本教には艮金神・国常立尊様の存在は見られないという霊能者の方達の数々の報告はありますが、素戔嗚尊も大本教に存在しておられるという話もどこからも聞こえて来ません。が、出口王仁三郎聖師の霊は高級霊として大本教には居られます。
そうした高い霊が懸かる肉体の者が存在していないと、「償い」と言われるカルマの浄化をするには至らないのです。この論理は肉体が「魂の浄化気管」であると認識出来ていないと意味は理解出来ないでしょう。

ここに「贖い主(救世主)」は高級神霊の魂を持った肉体で、創造神の降臨にも耐えられるであり、並外れた霊的浄化能力を持った肉体者が要求されるのです。それは単に霊が見えるとか霊声が聞けるではないのです。

私が説いた「米」教は、救世主を必要としない教えだと書いて来ました。それは、「人に内在する良心神」を通じて、天帝と直に結ばれることで、個々の魂が持つカルマの解消にと向けていたからです。
そこに「米」教の【他(田)を救(鋤く)いて世根(米)となれ】は、自分のカルマの【償い】の意味なのです。
そうでないと、誰が「贖い主(救世主)」であったとしても、その任務を背負うことでその方の人生は過酷を極めます。そこに誰が「贖い主(救世主)」であったとしても、肉体があればカルマの解消に限界が生じるということなのです。
私が「米」教を出したのは、誰が「贖い主(救世主)」であったとしても、その負担を少しでも和らげてあげるにありました。

ある方からメールが来たことがあります。神言会のHPに入っただけで浄化されたという報告です。私はいくら説いても解ろうとしない人ばかりなので、神言会のHPを閉ざすつもりでいました。はっきり言って、もう後は野となれ山となれの気持ちでした。
だが、本当の神名は明かしませんが大本教霊界物語では「国武彦命」で表現されている存在から、神言会のHPは残しておきなさい。そなたのHPに入った者はそれだけでも少しは魂が浄化される。そなたのHPに入れば入るほどその魂に浄化が起きると言われたことで、残してあります。

大本教神諭に「米は一粒だに落とさない」とありますが、実際にHPを何回も何回も読まれた方達は、自分が変わった。周囲の状況が変わって来ていると体験して来られる人もあるようです。

ただ、どなたが人類の「贖い主」のお役目で出られたとしても、「悔い改めない者」を救うことは意味をなしません。
一部に、人類の全てのカルマが解消されてみろく世に渡れると説かれている方がありますが、例え「贖い主」によってカルマが解消できるとしても、本人が「悔い改めない」でみろく世に渡れば、必ずまたもやカルマを創りだしてしまいます。それならば「立替」など必要ないのです。意味がないのです。
重要なことは、自身の中に【悔い改め】る気持ちが起きることなのです。

カルマがあるから、良心神が無いではありません。解らないではありません。何のカルマも背負っていない人など考えられません。自分自身に「悔い改める」気がないと、良心神の存在は解らないのです。
いくら良心神を言っても解ろうとしない人達は、本人に「悔い改める」気が更々無いからです。

本人に「悔い改める」気があるならば、そのカルマは「贖い主」が代わって「贖罪」して上げますということなのです。
その時は、これまでの罪の数々を「許し」ましょうで、「赦す」ではないのです。ここに「午(馬)」があり、「贖い主」がそのカルマを代わるのです。

罪贖は罪の売り買いですが、
贖い主に支払うのは、主(天帝)に従う契約です


ですから「贖い主(救世主)」が現れても、悔い改める気は更々無いと主張される存在も多数出ますので、全人類が「贖い主」によって助かるではないのです。

だが、大本教並びに出口王仁三郎聖師さんの神芝居の演技は「素戔嗚尊」だけで終わるものではないのです。
それは本番の時、その役目を持った正真正銘の存在が現れて来ることの予告なのです。


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