人に内在する良心神(神言会)

神は言葉なりき。言葉は言霊で構成され、その言霊による神の仕組みを解説する神言会(kamikotokai.com)のプログです。
神言会では人に内在する良心神(この世の閻魔)とは何かを説明しています。

人は「神の子・神の宮」。最後の「子・宮」検診にと入る

キリスト教ではイエス一人だけが「神の子」で、私達はイエスを通さないと創造神とは繋がらないと教えを展開されます。

日本の丹波の片田舎「綾部」で明治25年に発祥した大本教は、人は皆「神の子」であり「神の宮」だと説きました。
が、この世で自己本位・わがまま、かってし放題で遊び呆けていても、人は「神の子・神の宮」に該当するか?。なのです。

そのことに関して大本教神諭には、【人には神とも成れる魂が授けてあるにも関わらず】とありまして、神と成れる魂が存在しているであって、人は死ねば自然に神様に成れますという意味ではありません。
仏教では死後「四十九」日で「仏」様に成られたと言いますが、この仏とは、お釈迦様のように仏陀を意味する仏ではありません。また、妙霊・黒住・金光・天理・大本と走って来た流れにある新・日本神道系の各宗教団体でも、死者は「五十」日で神様に成られたという神様のことでもないのです。
大本教神諭にある神とも成れる魂とは、実際に霊界において「神位」を獲得する意味です。そこには、イエス一人だけが神の子などの論は存在しません。

霊界は、この世で「平等」と呼ぶ「横社会」ではなくて、次元とか霊階層が存在する「縦社会」であって、死ねば誰もが天国・極楽ではなくて、最下層階に向かう地獄界も存在するのです。
これが一番解りやすいのが「天使の階級」と呼ばれることであって、神の世界は階級章がものを言うのです。
神様と言っても軍隊の階級で言えば、大将のような「将官」格の神霊も佐官格の神霊も尉官格の神霊も下士官格の神霊もあるのです。その階級を見定める能力が大切なのです。

私のブログに【神は光だ!で天狗さん。神は光でも姿が見える】がありますが、私がこの時に関わった霊能者の方は、「自分はそんじょそこらの霊能者ではない。霊能者とは桁違いの神通力者で九州で1000年も続く高御産巣日神(タカミムスビノカミ)に仕える神主の家であると言われました」が、私もインターネット上でこれほど波動を発している霊能者を見たことがありませんでした。
ですから、その霊能者の方に掲示板で食って掛かる人達には、貴方達が太刀打ち出来る相手ではないので静かにしなさいと言いました。まかり間違えば霊的手段で殺されてしまうからです。この霊能者が私を霊的に殺しに来たことで、天狗界まで巻き込むことになってしまいました。私自身はそれ以前に2番目の師匠から死神を送りつけられたりで修羅場をくぐって来ています。

いくらスピリチュアルで大きなことを言っていても、階級をみれば下士官・尉官程度の方が多いのです。テレビのオーラの泉で霊能者江原啓之さんが俳優宇梶さんの数十体の背後霊に攻撃されてのびてしまわれて、美輪明宏さんが急遽助けに入られる場面がありましたが、実際の霊界の修羅場では多くの行者系の霊能者が命を落としているのです。時には龍神の群団ですら相手にしなければならないのです。

大本教霊界物語にある国常立尊追放劇は、神界において【下克上】が起きたと残されています。これは今の世に出ておられる若い神々が知ることではないのですが、地の神界の主神ですら追い落とす下克上の戦いは神界戦争だったのです。
みろくの世と呼ばれるのは、自然にこの地球が五次元に上昇するという安易な話ではなくて、国常立尊様が主神に復帰されることにあたって起きる神界戦争を伴っているのです。ですから「立替」なのです。

みろくの世に入るに当たっては、これまで反国常立尊派の神々は改心しない限り追放されて、新しい新任の神々が登場しなければなりません。その新しい神々には私達人類を国津神と呼びますが、国津から神に抜擢しなければなりません。それは今の世に肉体を持って生きている人達の中から選抜されることになります。

そのみろく世の神に成っていただくには審査があります。そうした審査も「審判」と呼びます。または、「ミタマ改め」とも言います。それを経て、みろく世における各自の魂の地位が決定して、永遠の地位となります。ですから、最後と言います。

別に宗教は脅しで架空の地獄界を説いて来たのではないのです。また、我が宗教を信じれば天国で、異教徒は地獄に墜ちるという世界でもありません。全ては、この世で自分はどう生きたのかの【結果、自己責任】の行き着き先なのです。

ただ、宗教の義務とは信徒さん達が天国・極楽に向かえるように教えを説くことにあるのです。決して、宗教は不必要なものではなかったのです。全ては自己責任であるが故に、自分の魂に「カルマ」が生じて来るのです。
正神を信仰するメリットは、個々の魂は過去から積んできたカルマにより、因縁の糸が絡み合ってほぐれないがあります。この「因縁の糸」は私達の目には見えませんが、神々には見えていますのでその絡み合った「因縁の糸」を切断してくださるがあるのです。そうしたことが大難が中難に、中難が小難にとなるのですが、信仰で全面的にカルマが消えるではないのです。いくら信仰していてもカルマの解消過程で病が発生したり災難は起きます。

そうしたことによって自分の周囲に居る人達との悪しき「因縁の糸」が断ち切られて、悪しき人達と関わらなくてもよくなるがあるのです。だが、悪しき「因縁の糸」が断ち切られたからと言って、それで即「カルマ」の消滅ではないのです。やはり自分が播いた悪しき種は自分が刈り取らなければならないのです。

私達はどうしても【最後の審判】と言いますと、聖書の内容に囚われたり、ミケランジェロが描いた「最後の審判」の絵を概念的に思い込んでしまいます。

人は誰もが「神の子・神の宮」であり、神とも成れる魂を創造神から頂いています。それは日本古来の神道で「一霊四魂」で説かれている「直霊(ちょくれい)」の部分です。これを「なおひ」とも呼ぶ方もいますが、なほひの場合は本来は「直日」と書きます。だが、それだけでは基本的な理解が進まないでしょう。
私達の体を構成しているのは一つ一つの「細胞」です。そうした細胞には必ず「核」と呼ばれるものが存在しています。大きく言えば「卵の黄身」の部分だと思えば解りやすいでしょう。


卵の黄身=魂(玉)の君

以前の私のブログに出した図を再掲します。


 

私達の個々の魂の中にも直霊たる「君(核)」が存在します。これは天帝(君)から分霊であり「直霊」となります。この部分が大本教神諭にある「神」とも成れる魂を授けてあるにも関わらずに当たるのです。それを単純化した意味が大本教から「⦿」として出されたのです。が、これを持って「ス」神と説くと、大本教神諭に出された「この世の閻魔」の意味が解らなくなるのです。
円の真ん中にある「円真」は、お釈迦様が悟られた「人には良心と呼ぶ神が内在する」の「良心神」論でないといけないのです。

この世の閻魔=良心神だからです。

で、出口王仁三郎聖師の間違いを正すには、大本教神諭が予告した「九つ花」をもって「みろく(369)の米でラ神論」に更正させないと、せっかくの大本教の演技も意味が解らなくなります。

「⦿」

日月の岡本天明氏に懸かったのは本当の国常立尊様ではないでしょう。ですから間違って「○にゝ」などが出て来たのでしょう。
最後の審判とは、この「円真(神の子)」が「神の宮」となっているかどうかを調べる最終審査のことなのです。
何故ならば、最後の審判は「創造神たるエンマ」がするからです。大本教が出した記号を見て「円真」に気づかないとは、お里が知れています。

いくらあの人は「良心」の人だと言ったとて、それで「良心神」があるではないのです。唯一なる神の「直霊」の点検であり、単に私は善人でございますでは、本当の天国門は開かないのです。
中有界の上界は、一瞬見れば天国にも見えます。そうした世界を見て、そこが天国だと思っていると、今日まではまたもや地上界に出さされる輪廻転生が免れなかったわけです。

この「円真」の診断を「子・宮」検診と言います。その検診が始まりだしました。ただ、それはみろく世に渡る人達がみろく世でどの地位に進むのかの診断であって、その診断そのものは現時点では任意のはずです。そのことを各自の肉体が知るではありません。
何故ならば、

みろく世に渡る道には「天人」として「転任」する道と、みろく世の指導者(神)となる道があるからです。

先に、そのみろく世の指導者(神)と成る検診が霊界で開始されたと思われます。こうしたことは必ず霊界が先になりますので、霊界で起きないことがこの世で起きるはあり得ないのです。霊界で魂の「神の子・神の宮」検診が始まったということは、やがて時を経て何等かの形で私達の身にも起きて来ることにはなるのです。

つまり、人は「神の子・神の宮」となる時は刻々と近づいて来ているなのです。


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