人に内在する良心神(神言会)

神は言葉なりき。言葉は言霊で構成され、その言霊による神の仕組みを解説する神言会(kamikotokai.com)のプログです。
神言会では人に内在する良心神(この世の閻魔)とは何かを説明しています。

宗教開祖の教えは正しくても、後世の幹部信徒達によって神意はねじ曲げられる

最近、ある方からメールが来ました。その方は某宗教組織に所属されていたそうですが、その組織は今や魔界や邪神達に支配された者達に乗っ取られて、その組織そのものが今では魔界や邪神達の巣窟と化した為に、その宗教組織から離れましたという内容です。

その宗教組織はあまり知る方はないと思いますが、かっては名を馳せた名門性を持つ組織で、その開祖達や初期の幹部さん達は優れた方が多かったようです。

私はその内容を聞いても、さほど驚きもありませんでした。やっぱりかです。今のその組織を信仰している方に向かって、その教えはもう必要は無い。その教えを捨てなさい。それを盲信・強信すると道を誤ると言ったぐらいです。大本教神諭予告「九つ花」が解読された以上、過去の教えは過去のものでそれ以上ではないからです。
確かに開祖は立派な方で有り、その当時はその教えは有意義だったのです。ところが、その組織の方を見ていると、その方に邪神が懸かっていることを御本人は自覚されていなくても、私の目には邪神界によって動かされていると見えていたからです。もうこの組織は天主から見ると存続の必要がない組織だと見ていたからです。

例えば、ある宗教組織の開祖に創造神とかそれに準じるような高級霊が降りて、大きな宗教組織になったとしても、開祖やその高弟達が死去した後には、その宗教組織の幹部に魔界や邪神達が憑依して、その組織の乗っ取りに入り込めば、その組織は魔界や邪神達の支配下になってしまいます。

神霊は組織に懸かるのではなくて、人に懸かります。ですから、どんな宗教であっても開祖に創造神とかそれに準じる高級神霊が降りたとしても、開祖が死去してしまうとその神霊はその組織から離れてしまいます。組織は残っても、その宗教を開いた神霊はそこには存在しないが出て来ます。
また、開祖に創造神とかそれに準じる霊が懸かっていても、その組織が教主を子孫の世襲制にすると、その子孫の代ではその神霊は名だけのものとなるのです。

だが、その条件に当たらないのは日本の神社です。日本の神社は教義を持たないことで解るように、教義がないから神霊がそこに留まっているとなります。しかし、教義を持たないということは、まとまりに欠けてしまいます。神社や組織が運営できない。どうしても現世御利益を表に出して、人を集めることになってしまいます。

日本神道を世界の宗教と比較しますと、日本神道が世界の中ではローカル宗教で有るのは教義を持たないことにあります。また、日本神道はお釈迦様やモーゼやイエスやマホメット、日本仏教で言えば弘法大師さんや日蓮さんや最澄さんや親鸞さんのような人材を輩出しなかったことにあります。
神社の宮司の世襲制度では、優れた人材が世に出てようとしても世襲制度に阻まれてしまいます。それでは人材が育ちません。結局は儀式屋として、先祖伝来の秘伝などと言うだけに終わってしまいます。

少し以前から、一部の霊能者の方達から日本の神社に御祭神が存在していない。空の神社や邪神達や獣霊が巣くっている神社が多くなったと言われていましたが、これはある意味事実なのです。だが、それは別に神社だけでなくお寺さんにしても同じことです。
大社とか大規模な神社はしっかり守られていて違いますが、小さな神社になりますと、その神社を守っていなければならない留守番霊がどこかに行ってしまって空の神社であったり、邪神や動物霊が鎮座しているがあるのは事実です。それを防ぐにはそこを守る神主や僧侶がしっかりしないとダメなのです。

私の地元にあるある神社に参拝しましたところ、私が東京に行った時、ある霊能者の方を通じて私に根津神社に参拝されたしと伝言があり参拝しましたところ、当日は根津神社のツツジ祭りの日で、大勢な参拝者の中で本殿に出て来ておられた御祭神があり、この御神霊が根津神社においては「素戔嗚尊」と呼ばれている御神霊かと見ておりましたが、その根津神社の御神霊がその地元の小さな神社の本殿から出て来られたのです。そう言えば、この小さな神社の御祭神は「牛頭天王」となっていたと気づいたしだいです。
だが、それをもってその御神霊が「素戔嗚尊」だとか「国常立尊」だと言う気はさらさらありません。

ところが、私に話しかけて来られるのではなくて、私の背後の誰かと話しておられます。?と思って振り向くと、私の背後に豊国姫様らしき霊が立たれており、その豊国姫様らしき方と話しておられるのです。豊国姫とは、大本教で「坤(ひつじさる)」金神と申し上げた国常立尊様の妻神様になります。
豊国姫様らしきと言うのは、私の脳裏には「豊国姫」と入って来るのですが、私は過去の修業において自分が御神霊を見ると必ず優秀な霊能者の方の判断を仰ぐようにしておりましたが、今はそれを判断して貰えるだけの優秀な霊能者の方を知らなくなっているのです。

私の地元にかっては栄えた仏教系の新興宗教のお寺がありました。聞くところでは広島か岡山あたりに存在した仏教系の新興宗教で、何故か遠く離れた綾部の土地に妙見堂や釈迦堂や稲荷の祠を幾つも建てており、祭典の時にはお札をなどを売る建物もあり、その開祖さんが生きておられる当時は遠くから多くの信徒さんが参って来て賑わっていたそうです。ところが、その開祖さんがお亡くなりになると信者の足もバッタリと途絶えて、今では荒れ寺となったわけです。
現在は地元のお寺がそこを管理地としていますが、これ以上荒れないように管理しているだけで、実にもったいないと言える宗教施設です。

私が修業の初め頃、どこかに瀧場がないかと探し、その荒れ寺にあった瀧を受けていると、荒れ果てているけれども今も稲荷の白狐が残っていると解りました。その白狐が私がその地に来たことを泣いて喜んでいるのが解りました。

地元の牛頭神社を後にした私の足はその荒れ寺へと向かいました。その中の荒れて朽ちかけている一つの祠の前で豊国姫様らしき方が立たれ、【今日までよくぞ守ってくれました。長い間ご苦労さまでした。今日をもって、そなたの任務を解くので私についてきなさい】と祠の前で言われます。
すると、十二単衣などの立派な衣装ではなくて、浴衣のような着物の若い女性がその祠から出て来て、涙を流して泣いています。白狐が化した人の姿です。その名前は「かすみ」と名乗ったかと思います。かってはその境内には何体かの白狐が居たようですが、その白狐だけがその地を最後まで稲荷として残って守っていたようです。
まるで遊女のような名前なので聞くと、そこに居た白狐達は皆、桔梗等の花の名前を名乗っていたようです。しかし、祠に祭られていた時には○○稲荷などの名で祭られていたばずです。

その地にバスが走っていた昔、「妙見堂」前というバス停があったほどで、御祭神は妙見様(天之御中主とも国常立尊ともされる)で、それらの白狐は国常立尊様の麾下であつたのでしょう。で、国常立尊様の妻神とされる豊国姫様が直接に白狐にその任務を解かれたのでしょう。

私が最後に伏見稲荷山に上がった時、裏手から上がったのですが、その道筋はもう誰も参って来ないような荒れたお塚だらけでした。そのお塚を造った霊能者や行者が死して、その信徒達も誰も参らなくなったのでしょう。こうしたお塚新信仰は、そのお塚を造った霊能者や行者に後継者がいなければそれで終わって荒れて行きます。
これらのお塚の祭神はどうしたのかと思っていましたところ、私の歩く前や後ろや横に無数の白狐達が付き添って来ます。あまりの数の多さに驚きましたが、お塚に仕える霊能者や行者を失ったかと、とりあえず連れて帰って来ました。
大本教の出口王仁三郎聖師が「世継山」とされた綾部の「四つ尾山」に入った模様ですが、四つ尾山には巨体白狐が無数に隠れ存在しています。


この様に、神霊は人に懸かっている為にその人が亡くなられると、そこで働いていた眷属達は持ち場を失うが起きます。

人は、【霊(ひ)止(と)】と言いますが、魂の容器であり、霊が懸かります。人は人として皆平等ではあるのですが、個々の魂は全て魂の格が違います。創造神とか創造神に準じる高級神霊が懸かるには、その肉体の入っている魂の格が高くないと懸かれないが生じて来ます。

人は皆、創造神だと言う誤った考え方は、この【霊(ひ)止(と)】が理解出来ていません。魂の格の違いも理解出来ていなのです。
今日まで、全てを明らかにした宗教は存在していません。開祖は立派だからと言って、その教義だけに縛られてしまいますと、ことの本質を見失ってしまいます。

狭い視野で見るのではなくて、広い視野を持たないと道を誤ってしまいます。霊的な事物が見えた聞こえたでは通らないのです。



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