お釈迦様が説かれたのは現在の大乗仏教ではなくて、上部仏教(小乗仏教)と呼ばれるものでした。
基本的に自らが「仏陀」に成ることを目指す。この世の執着から一切離れて、もう二度とこの世には生まれ出て来ないことを目指す道で、輪廻転生から外れるです。為には魂に出る一切の「カルマ」を消滅させなければなりません。
これまで私達の「魂の修行」として「輪廻転生」が存在しました。だが、この魂の修行とは辛いものでした。まさに、そこに「四苦八苦」が生じたわけです。
ところが、現在の日本の仏教とは小乗仏教を
自分さえ救われればそれでよいのかと侮蔑した大乗仏教で、より道を広げてしまったが為に、教えよりも「葬式仏教」とも言われていますが、葬式をする為の仏教のようになってしまいました。
葬式を行うことは必要なことですが、それが仏教本来の主眼ではなかったはずです。
為か、日本仏教のある宗派は、公然と「死後の世界などは存在しない。人は死ねば土に還る」と説いています。この宗派の信徒さんは、盲信というか狂信的な頑固者が多く、魂の存在を否定されます。もちろん、輪廻もカルマも完全否定されます。
人は死ねば土に還るの一本槍です。
輪廻もカルマも「魂」が存在しなければ成り立たない教えです。
人は死ねば終わりだで魂の存在を否定すれば、当然に輪廻もカルマも成り立たない教えとなります。また、
死ねば終わりならば好き勝手をいくらしてもいいわけです。こうした宗派はいくら仏教と名乗っていても、もう仏教とは言えません。その為か、この宗派は日本仏教会に加盟もされておらません。
お釈迦様が説かれた、「二度とこの世に生まれ出て来ない」は、魂にとっては完全極楽・完全天国界行きで理想に近いことですが、それを意味する「みろくの世」が迫って来ています。
それに関して「無条件」でみろく世に行けると説いている方達と、私の様に「条件付き」を説く者とに別れます。もしも「無条件」であるならば、私も何もしゃしゃり出る必要もなかったわけです。
条件付きを理解していない方は、この世に対する未練とか執着心がなかなか消えず、思考そのものに「刹那心」が入ってしまいます。いくら「有神論・有仏論者」でも、執着心を持たない「無神論者」よりも劣ってしまいます。
大本教の出口王仁三郎聖師が出された「霊主体従」と「体主霊従」。それは理論としては正しいのでしょうが、なまじ霊の姿が見える。霊の声が聞こえる。そうした霊は全てが正しい霊ではなくて「魔界・邪神界」もあります。
霊主体従だで「魔界・邪神界」に取り込まれるのであれば、「体主霊従」でも正しい「有神論者」の方が遙かに高い霊界にと入ることが出来ます。
お釈迦様は「目蓮尊者」以外のお弟子さんには「霊性開発」を禁じられましたが、霊性を出すことの危険を解っておられたと言えます。
大本教の出口王仁三郎聖師は綾部の下八田の上谷と呼ばれる山間で、信者を集めて幽祭修行(霊性開発)を催されました。ところが、信徒達に霊は懸かるが邪神ばかりで自分でも手がつけられなくなって、結局その幽祭修行は中止となりました。その当時の出口王仁三郎聖師は霊懸かりの怖さをまったく御存知なかったと言えるでしょう。
私は、どうして「おまえが如き者に、そんなことが言えるのか」と、自分は凄い霊能者だと言う方には叱られて来ましたが、そうした霊能者の方達は私が「閻魔庁」に関わっている者だということを見抜けておられませんでした。
私が2番目の師匠の元に居た時、夜中になると私の枕元で「言い分け」をする霊が後も切らずに出て来て寝かして貰えない夜が続きました。さすがに弱って、2番目の師匠に相談したところ、その師匠は「それはおまえが閻魔庁の者だから、少しでも自分の罪を軽くして欲しい者がやって来るのだ。夜中は言い分けを聞かぬ。言い分けをしたいのであれば、昼間に来いと宣言しろ。そうすれば、夜中は来なくなるだろう」と言います。そこで宣言したところ、その症状はピタリと治まりました。
私自身は、人の病気治しとか占いとか現世御利益を与える力は何一つ持っていません。だが、地獄に墜ちた霊を救うこともして来ましたし、時には天罰を受けている神霊をも救って来ました。ある意味、霊界の規則に反する処置もしました。
人から貴方は何の権限でそんなことをするのですと聞かれて、
時には天罰を受けている神霊をも救っている?。自分はいったい何の権限を持って、そんなことを神の許しも無く勝手にしているのだろう?。と、首を捻っていた時があります。
その後、私の背後には「閻魔大王(国常立尊)」様が存在しておられることが解って来ました。閻魔大王様から直接の許しがなくても、閻魔庁所属の者としての権限であったようです。
閻魔庁は、日本では節分の夜に「鬼は外」と炒り豆をぶつけられている霊界の役所で、その役割はこの世の検察庁と警察庁と裁判所を併せ持つ司法機関に当たります。しかし、いくら節分の夜に「鬼は外」と炒り豆をぶつけたところで、地獄界に行かなければならない者は行かなければなりません。逃れることは出来ません。
また、閻魔庁は常に無慈悲ではなく、情状酌量もあり、霊界での刑期を終えた魂には次の世の「来世」も保証して来ているのです。これが閻魔庁の門を「来世門」とも呼んで来たのです。
このことを知るには、大本教が出したウシトラ(牛虎)を知らなければならなかったのです。
これまで輪廻転生を司って来たのが「閻魔庁(羅城)」であると言えます。
この閻魔庁の長官を閻魔大王とも「羅(ラ)」王とも呼んできたわけです。
50年ほど昔、私が高校生の頃に当時は部落問題で全国各地で糾弾会や吊し上げが激しく行われていました。私が住む当時の京都府は赤と呼ばれた蜷川虎三府知事の長期府政の時代で共産党が府政を支配していた数少ない都道府県でした。
京都は山宣で知られる「山本宣治」氏が生まれた土地で、山宣は暗殺されてしまいましたが、彼が被差別部落問題に果たした功績というものには多大なものがありました。その山宣の名の元に、京都は「革新のメッカ」とも言われて来たのです。
革新の標榜は不平等や差別の一掃ではあるわけです。
私は高校のクラスから一人が代表として京都府の同和問題討論会に出なければならないで、誰も出たくはない。クラスの総意で私が代表にされてしまって、一つの分科会に出ていました。そこでは、激しい罵りの討論が行われていました。
いくら差別されている側としても、これはひどい言葉の暴力と思ったほどです。当時、糾弾会はあまりにも過激に走り、様々な刑事事件をも引き起こしていました。
糾弾することこそが正義なりがまかり通っていたのです。
すると、私が小学生の時まで臨んでいた声が聞こえたのです。
【人を差別する者は、人から差別される者として生まれ出る。それは魂の学びの為であり、差別と闘うことが大切だからである。だが、激しい罵りの糾弾を行ってはいけない。罵りは自分の魂を傷つける。やがて、人が人を差別する時代は消える。差別の無い時代こそ、この神の願いである】と告げられたのです。
私が聞いた「人を差別する者は、人から差別される者として生まれ出る」は、仏教の【因果応報】の教えであり、それを言った一人のお坊さんがありました。だが、そのお坊さんは糾弾会に呼び出されて吊し上げられてしまわれました。単に「因果応報」ではなくて、「魂の学びの為であり、差別と闘うことが大切だからである」が抜け落ちて言ったからです。
単に「因果応報」だと、イスラム世界の「目には目、歯には歯を」でやり返すで終わってしまいます。
やがて、人類は白人優越主義(キリスト教社会)で、私達のような黄色人種や黒人を差別する愚かな時代は消え去るでしょう。また、学歴や容姿や貧富で人を判断する。母子家庭だから、同和地区だから、身体障害者だから、朝鮮人だから、そうしたくだらない差別も消えるでしょう。そうしなければ、「みろくの世」などは絶対に無理なのです。
フランスで痛ましいイスラム教過激派によるテロが発生しました。だが、何故にこうしたことになって来たのか?、その要因を探れば
西洋キリスト教社会が過去にイスラム世界に対して起こした数々の間違いがあります。罪もありす。常に白人優越主義(キリスト教社会)の米英仏がしてきたことが正しいのではなのです。アメリカは未だに日本に原爆を投下して多くの民間人を殺したことに謝罪していません。それではアメリカは民主主義国家とは言えないのです。
イスラム教過激派がしている行為は絶対に許されない行為ですが、言うなれば「罵り」であって、いくら彼らが【神は偉大なり】と叫んだところで、神から許されるはないのです。一方、いくら言論や表現の自由があると言っても、何をしてもいいではありません。誰だって侮辱されれば怒ります。まして自分たちが信仰している神が侮辱されたとなれば、その怒りが戦争やテロを産みます。信仰とは、ある意味神に対して命を捧げているからです。神の為ならば死ねるが純粋の信仰です。
表現や言葉の暴力も神が許されるではないのです。今はあまりにも「自由」のはき違えが蔓延しているのです。
ただ、私はその声が言われた「罵ってはいけない」の意味は、どういう意味合いなのかと考えていました。
罵(ののし)るとは、不思議な漢字です。馬の上に四(死)が乗る形です。
一般的に、救世主は馬小屋から生まれると言われて来ました。これは、ナザレのイエスの型からです。しかし、イエスが救世主であった事実など、どこにも存在していないのです。
イエスが救世主だと誤解された意味は処刑後に復活したという意味で、当時のイエスの信徒からメシアと呼ばれ、そのメシアのギリシャ語読みが「キリスト」であったことからであり、本来の「救世主」の意味ではありません。
本当の「救世主」とは人類の滅亡に関わる時に人類の救い主として現れる存在のことだからです。
ですから、
ユダヤ教では現在もイエスのことを「偽メシア」と呼んでいます。そのイエスをメシアとかキリストだと信じるのがキリスト教です。本当に人類滅亡と呼ばれる時にナザレのイエスが出て来るかは、創造神のみが知ることなのです。
私が子供の頃に臨んだ声は「私は旧約聖書の神」であると名乗られて、
イエスに関しては「ナザレのイエス」と、必ず「ナザレ」の言葉を前に付けられました。調べると当時のイエスは「ユダヤ教ナザレ派」の創始者だったのです。イエスがキリストだ「救世主」だと言うのは、後の世の者の作であることを理解しておく必要があります。
イエス自身はユダヤ教徒なのです。
私は「みろく(369)の「米」教を説いて来ました。その「米」の真ん中に位置する存在は宇宙の真である【宇真】を語り、「米教」は救世主と呼ばれる存在を必要としない【メシヤ(飯屋)】の教えです。
米教は、お釈迦様の骨(人には良心と呼ばれる神が内在する)を「シャリ(白米)」の【宇真】として、時には寿司(大本教が出したス神)でも握りましょうです。
別に私は言葉遊びをしてるのではなくて、霊的世界から見せられた映像(ビジョン)で意味を説いているのです。
ですから、そのビジョンを日本の言葉に置き換えることには苦労しました。
この「宇真(馬)」は個々の魂にとっては救世主です。ですから、人を罵るということは自分の救世主たる「宇真(馬)」を死(四)なせることに成りかねないのです。
昨年の暮れに私の元を訪れて来られた霊能者の方が私に告げられた「既に人類を2線に隔てる霊壁」は昨秋で終わったとしても、まだまだ他の手があります。それは
「みろくの世」に向かう線と「在来線」は並んで走っている期間がかなりあると思われるからです。それが何年続くのかは解りませんが、次の午(馬)年は存在しないでしょう。要は大きく隔てて別れて行く迄をさほど苦なく行ける線と、神罰を受ける線を行く者との違いだけです。
いずれこの二線は大きく別れてしまいますが、未だ平行している間のどこかで【乗換駅】を造って、「みろくの世」に行く線に在来線に乗っている者を「みろく世」に行く線に乗り換えさせるかなのです。
この乗り換え駅が「馬小屋」と呼ばれるのです。【駅】の字は馬小屋ですよ。言葉をよく見なさい。
そこに「許す」という「午(馬)の言葉」があるのです。その駅を造ってくださるのが本当の「救世主」と呼ばれる立場の存在です。
米教を学んでいる方達の中にもかなり勘違いされている方があります。米教は本人自身が救世主を必要としない教えであり、神の位にと進む為であり、為
にお釈迦様の悟りである「人には良心と呼ばれる神が内在する」を56億7千万の「みろく」を持って説かなければならないのであって、創造神はそうではなかった人達も救おうとされることから、「救世主」と呼ばれる存在が別に必要となるのです。
私はうっかりしていました。それは朝鮮に残されていた予言。
最後の審判前に「米」一字を説く教えが起きる。その教えが終わったならば「最後の審判」にと向かう。「米」の教えに従わなかった人達の上には神の罰が降りるが、その罰が取れた者は「白十字」によって救われるとありました。
こうした記事を書くと、自分に「白十字」があると言って来られる方が必ずあると予想していましたが、やはりそうした方がありました。霊界においては、こうしたことは日常茶飯事なことであり、別に珍しいことではありません。そうですかと承っておきました。
私の元には自分が救世主ですが、どうしたら良いのでしょうかと問い合わせをして来られた方もかなりあります。そうしたことが霊界の実態なのです。見える聞こえるだけでは、自分が「救世主」だと踊らされてしまうのです。
私は長年、この「白十字」の意味が解らずに、何の意味だろうと頭を悩ましておりましたが、私は以前に神からある物を見せられていたのです。それは大本教の出口王仁三郎聖師がみろく世に渡る「水晶玉」を説いておられましたが、
その水晶玉の内部に「白十字」が入った水晶玉が2個あったのです。その時は、無数の水晶玉の中で、どうして白十字が内部に入った水晶玉が2個あるのだろうで終わっていました。
私もかなりの鈍感者で、
「白十字」が内部に入った水晶玉を神から見せて貰っておきながら、朝鮮に残されていた予言の「白十字」とそれとが結びつかなかったわけです。
これは、「救世主」と呼ばれる存在を意味する水晶玉だったのです。これから先も「偽救世主」はいくらでも排出するでしょう。だが、その魂の内部に「白十字」が入った水晶玉でなければ、その方は本物ではないことになります。
大本教霊界物語の中に
「みろくの神の御紋章は○に十字の定めなり」とありますが、単に薩摩紋の○十ではなくて、【透明の水晶の丸玉の内部に白十字】が存在している意味だったようです。これは言葉だけでは解らない部分だったのです。映像を見せられていても、考えが及ばなかったことです。
ただ、私が見た「白十字」が内部に入った水晶玉は2個だけであり、他にも有るのかどうかは解りません。また、その水晶玉の魂の所有者を知る者ではありません。
豊受様の御代をしていた私の最初の師匠が亡くなられる前に出会った時、その師匠は救世主は「複数形」だと言っておりましたが、その数を聞くのを忘れておりました。
複数形とは最低で2名。それ以上の数なのか?。
言えることは単独ではないということです。豊受様は複数形だとその師匠に告げられたぐらいですので、その存在も数も既に御存知でしょうが、簡単には教えてくださらないのです。
また、複数形で有るとしても、それぞれの役割が不明なのです。救世主同士で喧嘩したりいがみ合うではお話になりません。
仮に救世主は2名で有るとするならば、大本教で演じられた「日之出神と龍宮の乙姫様」の型となりますが、これは故・金井南龍師が指摘された「スメラミコトと母なる神のミタマ」であって、日之出神とか龍宮の乙姫と名乗る存在ではないのです。しかし、スメラミコトで片付けるとまるで意味が解らなくなります。結果的に、自分がスメラミコトと名乗ればよいと思う者が出ただけです。
故・金井南龍師が神界の機密と告げられたように、
神界の機密であるが故に大本教でわざわざ「日之出神と龍宮の乙姫」として型が演じられたのです。
ですから、
自分が日之出神とか私が龍宮の乙姫と名乗ることは、自分で私はニセ物でございますと名乗ることになってしまいます。私はまさかそこまで大本教は型の演技していたのかと、ただただ驚くだけです。
そうなりますと、
神はナザレのイエスの「馬小屋」からも日本語に関しては仕組んでおられたとなります。
また、
みろくが「米」で仕組まれている理由として、一つに「輪廻転生がある霊界」から脱獄の型が存在しています。私は初めこの映像(ビジョン)を見た時、何のことかさっぱり意味が解りませんでした。ただ、「馬」の形しか思いつかなかったのです。
日本語が「神の言葉」であることに気づかない人は、どうぞお好きにやりゃさんせなのです。
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