それからは嘘のように穏やかな時間が過ぎて行った。道行く人の顔は皆明るく、そこかしこで皆にとって嬉しいニュースで溢れている。それはつまり、丸喜先生の理想とする世界が徐々に現実のものになろうとしていることを意味していた。それを何とかしようと蓮達はルブランで集まり、丸喜先生をどのようにして改心させるかの作戦会議をしているらしい。
その一方で僕はと言えば、世間一般の高校生らしく受験の対策や出願準備に追われていた。真にいたっては怪盗団と受験生に加え、生徒会長としての仕事の引継ぎという二足以上の草鞋を履くことになっているせいか、生徒会室で時折疲れたようにため息を吐く姿が見られた。そういうときに僕が出来ることと言うと、彼女とささやかな雑談に興じたり、二人だけの勉強会なんかを開催するくらいだ。それでも真は深く感謝してくれるものだから、僕としてはもう少し助けになってあげたいと思うことばかりだった。
そして受験準備の合間、少しだけ空いた時間を利用して僕が訪れていたのは、お台場の国立競技場建設予定地。丸喜先生の認知世界を脱した先だった。
「やっぱり見えたままだ」
僕が見上げる先には、蜃気楼のように微かに揺らめく白亜の塔。現実世界と認知世界が微妙に重なっているせいなのか、白亜の塔は揺らいで薄くなったかと思えばまたハッキリと見えたりと、本当にそこに存在しているのかどうかがイマイチ掴めない。けれど、建設予定地を囲むように建てられた仮設の壁に向けて手を伸ばしてみれば、水面に触れたときのように目の前の空間に波紋が広がるのが見えた。
「この先に行けば、丸喜先生に会える」
丸喜先生はあの日、僕と言葉で戦うと約束してくれた。それはつまり、僕と丸喜先生はペルソナという特別な力を抜きにして対峙するということ。
「じゃあ僕は丸喜先生と会って、何か掛けられる言葉を持っているのかな」
自問自答に呟いた言葉は白い息と共に曇り空に消えた。思い返してみれば、僕は丸喜先生のことについて何も知らない。カウンセラーとして秀尽学園に赴任してきたこと、芳澤さんの専属カウンセラーもしていたこと。彼がカウンセラーとしてとても優れた人物であること。だけど丸喜先生がどうしてこんな力を持つに至ったのか、丸喜先生がここまで自身の理想に執着する理由。それらを知らない、考えないまま会ったところで、丸喜先生の心に響くとはとても思えなかった。
「だけどこのまま手を拱いていたら話すチャンスすら無くなる」
獅童議員の時は明智君という取っ掛かりがあり、精神暴走事件というピースと冴さんや大宅さんを始めとした頼りになる大人達のお陰で僕の突飛な妄想を補完し、政界に君臨する黒幕に手が届いた。けれど今は頼っている時間も無い。
「海藤くん……?」
手を伸ばした体勢のままあてどない考えを巡らせていた僕の耳に、聞き覚えのある声が飛び込んでくる。声の方向に顔を向ければ、そこにはクリスマスに贈ったマフラーを首に巻いている冴さんが目を見開いて立っていた。
「冴さん、随分久しぶりな気がしますね」
最後に顔を合わせたのはルブランでのクリスマスパーティーの前だっただろうか。一か月以上は顔を合わせていないことになる。それまでは検事と高校生という立場に反してかなりの頻度で顔を合わせていたものだから、少し懐かしい気持ちにすらなってしまう。
冴さんは驚いたような表情のまま、こちらに向かって歩く速度を徐々に上げ、最後には半ば走っているような勢いになったかと思うと、僕の身体は冴さんに正面から抱きしめられていた。
「本当に良かったわ……! 連絡は来ていたけど、ちゃんと顔を見られて良かった」
「すみません、きちんと顔を出すべきでしたね。あんまりにも色々なことが起こったもので」
「そう……、いえ良いのよ。こっちも獅童のことでバタバタしていたから。それよりも無事なのね?」
あまりにも力が籠っていたものだから、ギブアップの意味も込めて冴さんの肩を叩くと、その意を汲んでくれたのか冴さんが身体を少し離す。かと思えば、僕の両肩を掴んで顔を覗き込んできた。冴さんにも心配を掛けてばかり、というか認知訶学を知っている分、余計に心配を掛けているかもしれない。
「大丈夫です。どうやら認知訶学には色々と縁があるみたいですね、僕達は」
「その様子だと、また一人で何とかしようとしているわね?」
そう言って目の前にある冴さんの表情が鋭いものに変わる。
「僕一人で何か出来たことなんてほとんど無かったと思いますけどね」
「そう言ってはぐらかしても無駄よ。目下の懸案事項は目の前のコレかしら?」
冴さんはその言葉と共に僕から視線を逸らし、陽炎のように揺らめく白亜の塔に目を向ける。やっぱり冴さんにも見えている上、彼女はこれをきちんと異常なものだと認識してくれているらしい。丸喜先生の認知改変の影響をあまり受けていないんだろう。
「以前改心事件を調べているときにお世話になった認知訶学の専門家が、これには関係しています」
「……なるほどね。これまでのように認知世界を知らない人間じゃない、きちんとその世界の力を理解している人間が相手ということ。だから父が生きていたら、なんて夢みたいな世界も創り出せたのね」
「覚えているんですか?」
蓮に聞いた話では、丸喜先生の認知改変から脱した後、同じように改変の影響を受けていた怪盗団の協力者はその世界を夢か何かだと再認識していたと聞いた。どうやって現実で過ごした日数の帳尻を合わせたのかは気になるけれど。冴さんは蓮達と同じように、丸喜先生の世界のことを現実だったと認識したまま、その影響を脱することが出来ている。その違いは何に起因するのだろうか。
「覚えているのは私だけじゃないわ。それに、この奇妙な現象がある限り完全に影響が無くなったというわけでもないんでしょう」
僕が疑問に思ったことを見透かしたように冴さんは言うと、ようやく僕の肩から手を離してくれた。
「今回も、怪盗団より先に動くつもり?」
「……まあ、そうなります」
そして冴さんは僕がやろうとしていることもお見通しだと言わんばかりの表情で、呆れたようなため息を吐いた。
「手伝えることはある?」
「今回に関しては、あまり無いかもしれません。少し僕の方で動いてみようかと」
丸喜先生は犯罪者でもなんでもない。そのことで獅童議員の立件に向けて忙しいであろう冴さんを頼って調べてもらうのも気が引けた。それに調べものとなると、得意な人が一人は思い当たる。僕が代わりに話せるようなネタはもうあまり無いけれど、手伝ってもらえるだろうか。
「そう……、なら私は今すべきことに集中するしかないわね。あなたのことだもの、きっと上手くやると信じているわ。私の切り札」
「期待が重いですね……。最善を尽くしますよ」
あれから、仕事に戻るという冴さんを見送った僕は、結局丸喜先生の認知世界に乗り込むことなく帰路についていた。自分の中で迷いがあるまま、丸喜先生の前に立ったところで掛けられる言葉なんか浮かばないと思ったからだ。それなら、もう少し丸喜先生のことについて調べるべきだと考えた。
その考えの下、僕が訪れていたのは新宿。向かう先はもう僕にとっては慣れたものだった。目的地の主は渋い顔をするかもしれないけれど。
「それでも、丸喜先生に繋がることは知っておきたい」
そもそもどうしてあの場所が丸喜先生の認知世界の中心となったのか。あそこは国立競技場の建設予定地で、丸喜先生と結びつくとは思えない。だけど何の意味も無くあの場所が選ばれるとは思えなかった。そこに、何かのヒントが眠っているんじゃないだろうか。
「奇遇ですね、徹」
「え?」
考え事をしながら歩いていた僕の足下から、落ち着いた少女の声。まさかと思って視線を下げれば、僕を見上げる黄金色の瞳と目が合った。
「ラヴェンツァ?」
「はい、ラヴェンツァでございます」
僕の言葉に美しいカーテシーを披露したラヴェンツァは、そう言って嬉しそうに笑みを浮かべて僕を見上げた。
蓮のことをトリックスターと呼び、怪盗団の持つペルソナという力についても知っている不思議な少女、渋谷で見て以来の彼女が暗くなり始めた新宿に姿を現していた。
「この世界は今、認知世界と現実が再度融合し掛けている状態。以前のようにこちら側に姿を現すのにさほど力を使いません。もしかしたらお困りかと思い、こうして会いに参りました」
「確かに困ってはいるけれども……」
随分とタイミングが良いなと思いつつ、僕は腰を落として彼女と視線の高さを合わせた。
「徹の悩みは丸喜なる者の抱える歪みを知りたい、違いますか?」
「……よく知ってるね」
そう言えば、ラヴェンツァは優雅に手を口元に持っていってクスクスと笑う。
「私ならば、彼の者の歪みの原因を掴むお手伝いが出来るかと」
僕の悩みを知った上でラヴェンツァはそう提案する。彼女は純粋な善意でそれを申し出てくれているのだと思うけれど、あまりにも都合が良すぎるようにも思える。
「彼の者は大衆の集合無意識に自身の認知を接続し、改変を行っています。逆に言えば、集合無意識の世界から丸喜なるものの世界を覗くことも出来るということ」
「……丸喜先生の認知世界とは別の世界から、裏口みたいに侵入するということ?」
僕の言葉を聞いたラヴェンツァは満足そうな顔で頷く。僕が言ったことは間違いじゃなかったらしい。
「正面から向かったところで、徹の知りたいことは知れないでしょう。ですがこの方法ならば、彼の者の心を知ることが出来ます」
ラヴェンツァの案は確かに魅力的ではある。今の僕は丸喜先生がどうしてあそこまで認知訶学による救いに拘るのか。そうさせた原因は何なのか。恐らく、彼女に従えばそれを直接知ることが出来る。
「私は徹を助けたい。ジュスティーヌも、カロリーヌも同じ気持ちです。あなたの助けになれればこれほど嬉しいことは無いのですから」
ラヴェンツァはそう言って僕に手を差し伸べる。その手を取れば、僕は知りたいことが知れる。
「おやぁ、こんなところで一体何をしてるのさ副店長」
僕の逡巡を遮ったのは、少し間延びしたその声。それと同時に、しゃがみ込んだ僕の肩にどさりと何かがもたれかかるのを感じた。
「……店長、重たいです」
「レディに向かって重たいは酷くない?」
僕の肩に顎を乗せた店長が、抗議の意を示すように顎でぐりぐりと肩を押す。店長の右手が、無意識に伸びていた僕の右手を掴んで止めていた。
「あなたは……」
「悪意が無いのは分かってるけどさ、これはダーメ。キミタチはキミタチの導くべき者がいるじゃないか」
店長を見て何故か目を丸くして驚いている様子のラヴェンツァと、そんな彼女のことを知っているかのように話しかける店長。
「店長はラヴェンツァのことを知ってるんですか?」
「いんや、初対面だとも。ま、そっちは分かると思うんだけどねぇ」
「……私が余計なことをすれば、あなたが動くと?」
「徹はあくまでただの人なんだ。プレイヤーとして巻き込んじゃいけない。蛇さんだってそう言っただろうに」
僕の疑問を他所に店長とラヴェンツァは話を進めていく。僕はと言えば、ラヴェンツァと目線を合わせる為にしゃがみ込んだところを店長にがっちりとホールドされているせいで傍から見てかなり面白い格好になっているのだけど、二人が真剣な空気で話すものだから動くに動けない状態になってしまっていた。
「……分かりました。私はトリックスターへの助言に専念します」
「うんうん、そうした方が良い。安心しなよ、普通に会いに来るだけなら許すから」
「ハァ……、では今度はただお話しに来ますね」
ラヴェンツァはそう言うと、再び優雅に一礼して歩き去っていく。濃紺のドレス姿は、仕事帰りの人々の雑踏に紛れてすぐに見えなくなってしまった。
「店長、あなたも実は何か不思議な背景があったりする人なんです?」
「どうだろうねぇ。ヤギさんはよく分かんないなぁ」
「……店長って八木なんて名前でしたっけ?」