goo blog サービス終了のお知らせ 

人類学のススメ

人類学の世界をご紹介します。OCNの「人類学のすすめ」から、サービス終了に伴い2014年11月から移動しました。

日本の人骨発見史4.大浦山洞穴(弥生時代):弥生時代の食人

2013年12月15日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

 大浦山洞穴は、神奈川県三浦市南下浦町に所在します。1949(昭和24)年に偶然発見され、その年に第1次調査が行われました。また、1962(昭和37)年に第2次調査が、1963(昭和38)年に第3次調査が行われています。

 この発掘調査は、横須賀考古学会を創設した考古学者の赤星直忠[1902-1991]や岡本 勇[1930-1997]を中心に行われています。第3次調査には、東京大学の人類学者・鈴木 尚[1912-2004]が参加しています。

 洞穴の大きさは、幅5m・高さ6m・奥行き20mで、堆積層は7層に分かれ、5層から7層までは弥生時代中期に比定されています。2005年には年代測定が行われ、360BCからAD50という年代が報告されました。

 発掘報告書は、発掘調査から30年以上経過した、1997年に、三浦市教育委員会により三浦市埋蔵文化財調査報告書第4集『大浦山洞穴』として出版されました。この時、中心として発掘調査を行った赤星直忠は死去しており、岡本 勇も出版を見届けるかのように、出版された年に死去しています。この洞穴から、成人頭骨13体・上顎骨6体・下顎骨10体・四肢骨が発見されました。人骨の報告を行った鈴木 尚によると、これらは、男性6体・女性5体・性別不明2体の合計13体のものであると報告されました。

 13個の頭骨の中でも、第4号人骨は接着復元後、最も保存状態が良いものでした。Oourayama1

大浦山洞穴1.第4号頭骨(T22)の出土状況[三浦市教育委員会(1997)より改変して引用]

 この第4号人骨は、約20歳代後半の男性と推定されています。

Ourayama2

大浦山洞穴2.第4号頭骨の前面観(左)と上面観(右)[三浦市教育委員会(1997)より改変して引用]

 この第4号頭骨の左側は残存していましたが、右側は欠損部が多く、丸い石塊のようなもので、右側頭部に2回強い打撃を受けたと推定されています。人骨を報告した、鈴木 尚は、恐らく、脳を取り出すためだと推定しました。また、解体された傷を調べると、縄文時代人が動物を解体した時と同じ部位に認められたと報告されています。

Ourayama3

大浦山洞穴3.第4号頭骨の解体痕[三浦市教育委員会(1997)より改変して引用]

Ourayama4

大浦山洞穴4.第3次調査時(1963年)のスナップ[三浦市教育委員会(1997)より改変して引用]

 その後、この大浦山洞穴出土人骨は、東京大学の佐宗亜衣子等により再検討が行われました。未整理人骨も加えて再検討した結果、頭蓋骨7体・上顎骨6体・下顎骨9体・肩甲骨7体・鎖骨8体・上腕骨10体・橈骨5体・尺骨3体・頸椎2体・胸椎3体・腰椎4体・肋骨5体・寛骨6体・大腿骨10体・脛骨7体・腓骨6体と推定されています。また、成人だけではなく、一部に幼年や若年・加齢傾向を示す骨片も発見されたと報告されています。さらに、人骨は獣骨よりも意図的に破壊され、洞穴内にばらまかれ、埋められたことを再確認したと報告されており、鈴木 尚が推定したように、意図的に行われたと結論づけられました。

*大浦山洞穴出土人骨に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 鈴木 尚(1983)『骨から見た日本人のルーツ』、岩波書店(岩波新書)
  • 鈴木 尚(1997)「付編」『大浦山洞穴』、三浦市教育委員会、pp.117-147
  • 鈴木 尚(1998)『骨が語る日本史』、学生社
  • 佐宗亜衣子・剱持輝久・諏訪 元(2008)「大浦山洞穴の弥生時代人骨」『横須賀考古学会年報』、(42):7-13

最新の画像もっと見る