1969年12月5日、鳥取県境港市外江町にある新日本合板株式会社(現・日新林業株式会社新日本工場)の敷地で機会台を設置するためにコンクリートの床堀りが行われました。その時、錦織文英が人骨を発見します。
この人骨は、翌年の1970年に早稲田大学理工学部教授であった、直良信夫[1902-1985]の元へ届けられました。人骨は、下顎骨の左部分で、第1大臼歯と第2大臼歯が植立している状態でした。直良信夫は、地表下約6mの海成小砂層から出土したこの人骨の時代を、上部洪積世(更新世)と推定しています。また、原人級ではなく、新人Homo sapiensのものと推定しました。直良信夫は、この人骨を、発見地の地名をとって「夜見ヶ浜人」と命名しました。
写真1.夜見ヶ浜人(下顎骨左側面観)[Naora(1972)より改変して引用]
写真2.夜見ヶ浜人(下顎骨咬合面観)[Naora(1972)より改変して引用]
直良信夫は、1972年に出版した『古代遺跡発掘の脊椎動物遺体』に、和文と英文で、この夜見ヶ浜人について記載しています。ちなみに、この本は、直良信夫が古稀になって早稲田大学を定年退職するのを記念して出版されたものです。
直良信夫は、この夜見ヶ浜人は、50歳前後の女性のものと推定しました。
夜見ヶ浜人は、その後、再研究のために東京大学(当時)の埴原和郎[1927-2004]に預けられていましたが、直良信夫が死去した後で早稲田大学から返還を要求され、再研究結果は発表されないままになっています。埴原和郎は、著書の『日本人の成り立ち』の中で、「この骨は一時私に研究を託されたことがあるが、データ収集などの準備をしている時に直良が世を去り、その直後に早稲田大学から返還を要求された。私の印象のみをいえば、化石化が進み、少なくとも縄文人の古いタイプを思わせる形だった。しかしその後研究の機会は失われた。」と書いています。
実は、1990年代初頭に、私は人類学者の馬場悠男先生と早稲田大学理工学部を訪問し、人骨の所在を調べていただいたことがあります。しかし、その人骨の所在を確かめることはできませんでした。
この夜見ヶ浜人は、年代測定も行われておらず、所在も行方不明であるため決定的な事はわかりません。現時点では、埴原和郎が指摘しているように、縄文時代人なのかもしれないという事しかわかっていません。将来的に、所在を確かめて形態学及び年代学から再検討が必要でしょう。
*夜見ヶ浜人について、以下の文献を参考にしました。
- 直良信夫(1972)「鳥取県境港市発見の人骨」『古代遺跡発掘の脊椎動物遺体』、pp.161-166
- NAORA, Nobuo(1972)「Evidence of Upper Pleistocene Hominid from Western Japan」『古代遺跡発掘の脊椎動物遺体』、pp.193-197
- 直良信夫(1985)『日本旧石器人の探究』、六興出版
- 埴原和郎(1995)『日本人の成り立ち』、人文書院
- 楢崎修一郎・馬場悠男・松浦秀治・近藤 恵(2000)「日本の旧石器時代人骨」『群馬県立自然史博物館研究報告』、第4号、pp.23-46
- 楢崎修一郎(2010)「日本の更新世人骨の現状と課題」『古代文化』、第62巻第3号、pp.19-38