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人類学のススメ

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日本の人骨発見史13.帝釈峡遺跡群:幻の帝釈原人

2014年02月02日 | H4.世界の人類学者[Anthropologist of

 帝釈峡遺跡群は、広島県庄原市と神石郡にまたがる地域に所在します。この遺跡群は、1961年9月10日に馬渡林道工事の際に発見され、1961年11月1日に試掘調査が行われました。1962年8月から発掘調査が始められ現在でも調査が継続されています。この一帯は石灰岩地帯で、洞窟遺跡が多く発見されており、馬渡岩陰遺跡・寄倉岩陰異性・猿穴岩陰遺跡・猿神岩陰遺跡・名越岩陰遺跡等が著名ですが、人骨は、寄倉遺跡・猿神遺跡・名越遺跡・穴神遺跡・豊松堂面遺跡・観音堂遺跡で発見されており、多くは、縄文時代のものです。

 この帝釈峡遺跡群は、広島大学文学部考古学教室に設けられた「帝釈峡遺跡群発掘調査団」により1975年まで調査が行われ、1976年からは「帝釈峡遺跡群発掘調査室」により現在に至るまで調査が行われています。団長は、長い間、松崎寿和[1913-1986]が務めました。

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写真1.帝釈峡遺跡群観音堂洞窟外観[松崎寿和(1976)『帝釈峡遺跡群』より改変して引用]

 帝釈峡遺跡群の発掘調査の特徴として、多くの人類学者が参加している事が特筆されます。発掘調査に参加した人類学者は、1976年時点で、あいえお順に、池田次郎[1922-2012]・遠藤萬里・小片 保[1916-1980]・金関丈夫[1897-1983]・鈴木 尚[1912-2004]・永井昌文[1924-2001]・渡辺直経[1919-1999]の名前が認められます。

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写真2.帝釈峡遺跡群観音堂洞窟内部[松崎寿和(1977)『帝釈原人』より改変して引用]

 観音堂洞窟の第11次調査中の1974年8月11日、観音堂洞窟のGE区第25層のB層から骨が出土しました。 この場所は、地表から約9m下にあり、長さ150mm・重さ113gの化石化した骨が露出し、この骨は、「鹿の骨」と記録されて取り上げられました。そこに、新潟大学医学部(当時)の小片 保[1916-1980]が現れます。小片 保は、午前中、帝釈峡遺跡群の戸宇牛川岩陰遺跡の調査を行っていましたが、新潟に帰る途中で立ち寄ったのです。

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写真3.帝釈峡遺跡群観音堂洞窟「帝釈観音堂人第1号」出土状況[松崎寿和(1976)『帝釈峡遺跡群』より改変して引用]

 小片 保は、「いや、大変なものが出ましたね。これは人骨ですよ。」と言い、左大腿骨の可能性が高いとして、6点を勤務先の新潟大学医学部に持ち帰りました。1974年当時、日本の旧石器時代人骨は、「葛生」・「日本橋」・「三ヶ日」・「浜北」・「牛川」・「明石」・「聖嶽」・「港川」しか知られておらず、この帝釈観音堂人第1号が9遺跡目になると期待されました。やがて、この骨は、年代測定を行う必要性から、1974年9月24日に東京大学(当時)の渡辺直経[1919-1999]の元に預けられます。年代測定は、弗素法により行われることになりました。その後、小片 保が渡辺直経を訪問し、人骨の形態について説明します。この骨の疑問点として、一面を石灰華で覆われているが、彎曲が強いことや一部石灰華がはがれた表面に1・2の小さな隆起がある点でした。しかし、その点を除くとほとんどが左大腿骨の形態と似ており、栄養孔も認められたと言われています。

 ところが、古生物学者の長谷川善和が石灰華を取り除くクリーニングを行っていると、ニホンジカの角の表面にみられる顆粒状彫刻紋様が出現したため、1979年11月に小片 保・山口 敏・長谷川善和の3人で検討し、人骨ではなく、ニホンジカの左角の第1・第2枝間の角幹であるという結論に達しました。この結論は、小片 保自身により発表される予定でしたが、1980年1月26日に小片 保が急性心不全で急逝したため、1981年3月に出版された『広島大学文学部帝釈峡遺跡群発掘調査室年報Ⅳ』に発表されました。この中には、念のため小泉政啓による組織学検査も行われ、シカの角であるという結果も掲載されています。

 小片 保は、新潟医科大学(現・新潟大学医学部)及び東京大学理学部人類学科を卒業しており、人骨には詳しいはずです。1973年に出版された『考古学ジャーナル』第80号には、「人骨の研究法」という論文も発表し、その中で、シカを含む獣骨と人骨の違い等にも言及しています。渡辺直経は、前出の年報に「鑑定を誤らせたのは標本を覆っていた石灰華の被膜であり、慎重の余りこれを速やかに除去するのに躊躇したのは、結果からみて不覚であり不幸であったというほかはない。」と書いています。

 この事から、私たちが学べることは、骨を覆った石灰華は速やかに除去した上で形態を再検討する必要があるということでしょう。また、場合によっては、古生物学者や動物考古学者との連携が必要だと考えられます。帝釈峡から出土した骨は、私たちに大きな教訓を与えてくれました。

*帝釈峡出土人骨について、以下の文献を参考にしました。

  • 小片 保(1973)「人骨の研究法」『考古学ジャーナル』、第80号、pp.7-13
  • 松崎寿和(1975)『帝釈原人』、学生社
  • 松崎寿和編(1976)『帝釈峡遺跡群』、亜紀書房
  • 小片 保(1976)「Ⅲ.帝釈峡遺跡群人骨略報」『帝釈峡遺跡群』(松崎寿和編)、亜紀書房、pp.193-200
  • 広島大学文学部帝釈峡遺跡群発掘調査室(1981)『広島大学文学部帝釈峡遺跡群発掘調査室年報Ⅳ』
  • 小泉政啓(1981)「Ⅴ.帝釈観音堂人第1号について、1.帝釈観音堂人第1号の組織学的観察」『広島大学文学部帝釈峡遺跡群発掘調査室年報Ⅳ』(広島大学文学部帝釈峡遺跡群発掘調査室編)、pp.95-98
  • 長谷川善和・山口 敏(1981)「Ⅴ.帝釈観音堂人第1号について、2.帝釈観音堂人第1号の再検討」『広島大学文学部帝釈峡遺跡群発掘調査室年報Ⅳ』(広島大学文学部帝釈峡遺跡群発掘調査室編)、pp.99
  • 渡辺直経(1981)「Ⅴ.帝釈観音堂人第1号について、3.帝釈観音堂人第1号の鑑定について」『広島大学文学部帝釈峡遺跡群発掘調査室年報Ⅳ』(広島大学文学部帝釈峡遺跡群発掘調査室編)、pp.100-101
  • 篠崎義博(1983)「帝釈峡遺跡群」『日本の遺跡発掘物語1.旧石器時代』(森 浩一編)、社会思想社、pp.225-250
  • 潮見 浩(1999)『帝釈峡遺跡群』、吉備人出版
  • 楢崎修一郎・馬場悠男・松浦秀治・近藤 恵(2000)「日本の旧石器時代人骨」『群馬県立自然史博物館研究報告』、第4号、pp.23-46
  • 河瀬正利(2007)『中国山地の縄文文化:帝釈峡遺跡群』、新泉社

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